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ACP BSC DNAR だれのため?

作者: バルデラマ
掲載日:2026/02/07

### 前書き


人は誰しも、いつか「最期の時間」を迎える。


しかし、その時間をどう過ごすか。誰と向き合い、何を大切にするのか――その答えは、人の数だけ異なる。


この物語は、七十八歳の父・高橋正一と、その娘・美咲、そして彼らを支える医療者たちが、「その人らしい最期」を探しながら歩んだ、静かで丁寧な時間の記録である。


ここに描かれるのは、劇的な奇跡ではない。誰かが英雄になる物語でもない。


登場人物たちの心に悪意はほとんどない。それでも、疲れや不安、そして不器用さが、ときに人を傷つけ、すれ違いを生んでしまう。


それでもなお、互いに寄り添おうとする人たちの、静かな揺らぎの物語である。


-----


### 第一部:静かな始まり


#### 1 入院


高橋正一は、長年の心不全と肺の病を抱えていた。


若い頃から働きづめで、定年後も体を動かすことをやめなかった彼だが、数年前から息切れが目立つようになり、ここ数年は入退院を繰り返していた。今回の入院は、いつもと同じようでいて、どこか違う重い空気をまとっていた。


病室の窓からは、春の光がやわらかく差し込んでいる。ベッドサイドには、娘の美咲が座っていた。三十代半ば。彼女は仕事を続けながら、一人暮らしの父を懸命に支えてきた。


「お父さん、寒くない?」


美咲がそう声をかけると、父はゆっくりとまぶたを開けた。


「……大丈夫だ」


その声は、以前より少しかすれていた。それだけで、病状が静かに進行していることを美咲に伝えた。


#### 2 娘の疲れと小さな苛立ち


美咲は、ここ数週間、ほとんどまともな休みを取れていなかった。仕事を終えて病院へ直行し、父の様子を見てから家に帰って最低限の家事をする。そして、また翌日が始まるという生活だった。


「お父さん、水飲む?」


ストローを口元に近づけると、父はわずかに顔をそむけた。


「……今はいらん」


美咲は、一瞬だけ手を止めた。(せっかく持ってきたのに)そんな小さな思いが、胸の奥でちくりと刺さる。父に悪気がないのはもちろん承知している。ただ、しんどいだけなのだ。それは頭ではわかっていても、疲れた心はときどき、ほんの少しだけ尖ってしまう。


「……わかった」


そう言ってコップをテーブルに戻すとき、自分の声が少し冷たく響いた気がして、美咲は内心で小さく身をすくめた。(こんなふうに思いたくないのに)自分の中の“余裕のなさ”に気づくたび、罪悪感が静かに積もっていった。


#### 3 叔父の善意とすれ違い


その日の夕方、病室のドアがノックされた。


「よぉ、正一。調子はどうだ」


入ってきたのは、弟の和夫だった。五十代後半。兄の正一とは対照的に、どこか軽やかな雰囲気をまとっている。


「おう……和夫か」


正一は、少しだけ表情を緩めた。和夫はベッドのそばまで来て、軽く冗談を飛ばす。


「お前、またサボるために入院したんじゃないだろうな」


「……バカ言え」


二人のやりとりに、一瞬だけ昔の空気が戻り、美咲は少しほっとした。和夫は美咲の方を振り向いた。


「美咲、よくやってるな。大変だろう?」


「……まあ、ぼちぼちです」


そう答えながらも、美咲は心のどこかで身構えていた。和夫は続ける。


「でもな、正一はまだ頑張れるさ。昔から根性だけはあったからな。なぁ、正一」


「……どうだかな」


正一は苦笑したが、その笑いはどこか力がなかった。


美咲は、そのやりとりを聞きながら、胸の奥が少しざわついた。(頑張るって……もう十分頑張ってきたのに)和夫の言葉が、父に余計なプレッシャーをかけているように感じてしまう。もちろん、和夫に悪意はなく、兄を励ましたいだけなのだ。それでも、美咲の心には小さな波紋が広がった。


「美咲、お前ももっと頼れよ。一人で抱え込むな」


和夫のその言葉も、善意から出たものだと理解している。しかし美咲は、なぜか素直に受け取れなかった。(頼れるなら、とっくに頼ってるよ……)喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ただ曖昧に笑うしかなかった。


#### 4 医師の説明と微妙な誤解


翌朝、回診の時間。若手医師の佐藤が、カルテを片手に病室へ入ってきた。


「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」


正一は、ゆっくりとまぶたを開けた。返事は小さく、かすれている。美咲は、父の枕元で姿勢を正した。


佐藤は、モニターの数値を確認しながら慎重に言葉を選んだ。「お父さんの心臓は、これまでの治療でできる限りのことをしてきました。ただ……これ以上強い治療をすると、かえって負担になる可能性があります」


その言い方は極めて慎重だったが、慎重であるがゆえに、どこか曖昧にも聞こえた。


美咲は、「まだ治療の余地がある」という希望を感じた。一方、和夫は、「もう治療は難しい」という諦めを感じた。同じ説明でも、受け取る側の心の状態で意味が変わり、二人の間に微妙な温度差が生まれた。


美咲は、思い切って質問した。「先生……じゃあ、治る可能性は……?」


佐藤は、一瞬だけ言葉を探すように視線を落とした。「“治る”というより……これからは、お父さんが苦しくないようにすることを大切にしていく段階だと思います」


その言葉は正確だった。しかし美咲には、「もう治療はしない」という宣告のように聞こえた。対して和夫には、「まだできることはある」という含みのように聞こえた。二人の胸に、それぞれ違う重さが落ちた。


佐藤は、その微妙な空気の揺れに気づきながらも、どこまで踏み込むべきか迷っていた。(言いすぎても、言わなすぎてもいけない……難しいところだ)医師としての正しさと、家族の感情のあいだで、彼は静かに揺れていた。


#### 5 ナースの視点と家族の不安


回診が終わったあと、ナースの佐伯が病室に入ってきた。


「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」


美咲は、少し疲れた笑顔を返した。「……まあ、なんとか」佐伯は、その笑顔の奥にある“張りつめたもの”を感じ取った。(この人……ずっと気を張ってるな)


佐伯は、父のバイタルを確認しながら、さりげなく美咲に声をかけた。「先生の説明、わかりにくいところありませんでしたか?」


美咲は、少しだけ戸惑いながら答えた。「……いえ、わかったような……わからないような……」


その言葉に、佐伯は小さくうなずいた。「大丈夫ですよ。皆さん、最初はそうおっしゃいます。不安なことがあれば、いつでも聞いてくださいね」その優しさに触れ、美咲は少しだけ肩の力を抜いた。


一方、和夫は、廊下の窓から外を眺めていた。(兄貴……どこまで頑張れるんだろうな)兄の強さを信じたい気持ちと、現実を見なければならない気持ちのあいだで揺れていた。


佐伯は、そんな和夫の背中も見逃さなかった。(この家族は……それぞれ違う不安を抱えている)その“違い”が、これからの時間に影響していくことを、佐伯は経験的に知っていた。


#### 6 小さな希望(まなざしの瞬間)


午後、病室は静寂に包まれていた。


美咲は、父の手を握りながら、ゆっくりと呼吸を合わせるように座っていた。


そのとき──父のまぶたが、ふっと開いた。「……お父さん?」美咲は思わず身を乗り出した。


焦点の合わない瞳が、光を探すように揺れる。しかし次の瞬間、その瞳が美咲の方で止まった。ほんの一瞬。しかし、確かに“目が合った”。


「お父さん……聞こえる?」


返事はなかった。声も出ない。それでも、そのまなざしは確かに“そこにいた”。美咲の胸に、小さな希望が灯った。(まだ……まだ届いてるんだ)


その瞬間、和夫が病室に戻ってきた。「お、正一……起きてるのか?」


和夫の声に、父のまぶたがわずかに震えた。和夫は嬉しそうに言った。「ほらな、美咲。兄貴はまだまだ頑張れるさ」


その言葉に、美咲は少しだけ複雑な気持ちになった。(頑張れる、って……そういうことじゃないのに)しかし、その気持ちは胸の奥にそっとしまった。父のまなざしが、すべてを静かに包み込んでいた。


-----


### 第二部:揺らぎと別れ


#### 7 揺らぎ(翌日の静けさ)


父のまなざしが戻った翌日、病室は不思議なほど静かだった。


美咲は、昨日の“目が合った瞬間”を何度も思い返していた。(あれは……本当に私を見てくれたんだよね)その小さな希望が、胸の奥で温かく灯っていた。


しかし、父はその日、深い眠りに沈んだままだった。呼吸は穏やかで、苦しそうではない。けれど、昨日のような反応はない。美咲は、その静けさに胸がざわついた。(昨日のあれは……夢だったのかな)そんな不安が、静かに広がっていく。


佐伯が病室に入ってきた。「美咲さん、昨夜は少し眠れましたか?」


「……あまり」美咲は、父の手を握ったまま答えた。


佐伯は、父の呼吸を確認しながら言った。「昨日のように反応がある日もあれば、こうして眠っている日もあります。どちらも自然なことですよ」その言葉に、美咲は少しだけ救われた。


しかし、和夫は違う受け取り方をしていた。「昨日あんなにしっかりしてたのに……なんで今日はこんななんだ?」声に苛立ちが混じっていた。美咲は、その言葉に胸がちくりと痛んだ。(そんなこと言われても……私だってわからないよ)和夫の苛立ちは、兄を思う気持ちから出たものだが、その善意が、美咲の心に小さな影を落とした。


#### 8 静かな下降の始まり


夕方、父の呼吸が少し浅くなった。モニターの数字は安定している。しかし、身体の“力”が少しずつ抜けていくような、弱々しい呼吸だった。


佐藤が病室に入り、慎重に言葉を選びながら説明した。「お父さんの身体は、ゆっくりと休む方向に向かっているように見えます。苦しさはありません。ただ……これからは、“穏やかに過ごすこと”を中心に考えていく段階です」


美咲は、その言葉を静かに受け止めた。(穏やかに……それなら、いいのかな)


しかし和夫は、すぐに反応を見せた。「つまり……もう治療はしないってことか?」


佐藤は、すぐに首を振った。「いえ、治療をやめるわけではありません。ただ、“苦しみを減らす治療”を中心にしていく、という意味です」


その説明は正確だった。しかし、和夫の胸には“諦め”の色が落ち、美咲の胸には“安堵と不安”が同時に落ちた。同じ言葉でも、受け取る側の心で意味が変わる。


佐伯は、その空気の揺れを敏感に感じ取っていた。(この家族……それぞれ違う方向を見ている)しかし、誰も声を荒げない。誰も責めない。ただ、静かに揺れていた。


#### 第一部・締め


夜、美咲は父の手を握りながら、ゆっくりと呼吸を合わせた。父の手は温かい。しかし、その温もりの奥にある“生命の力”は、少しずつ静かに薄れていくように感じられた。


(お父さん……まだ、ここにいるよね)


その問いに答えるように、父の指がわずかに動いた。ほんの小さな動き。しかし美咲には、それが何よりの答えだった。


和夫は、兄の寝顔を見つめながら、静かに息を吐いた。(兄貴……もう無理するなよ)その思いは、美咲の思いと重なっていた。


家族の心は揺れていた。しかし、その揺れは、父を思う気持ちから生まれたものだった。こうして、静かで丁寧な“最期の時間”が、ゆっくりと始まっていった。


#### 9 旅立ちのあと


父が静かに息を引き取った翌朝、病室には、昨夜の余韻がまだ漂っていた。


美咲は、父の手の温もりが消えていく感覚を思い返しながら、ぼんやりと椅子に座っていた。(本当に……行ってしまったんだ)その実感はまだ曖昧で、胸の奥にぽっかりと穴が開いたようだった。


ナースの佐伯が、そっと声をかけた。「美咲さん……少し休みませんか」その優しさに、美咲は思わず涙がこぼれそうになった。(休んだら……本当に終わってしまう気がする)そんな思いが胸を締めつけた。


和夫は、兄の顔を見つめながら静かに言った。「正一……よく頑張ったな」その声は震えていたが、どこか“やりきった”ような響きもあった。


美咲は、その言葉に胸がざわついた。(頑張った、って……お父さんは、頑張りたくて頑張ってたわけじゃないのに)もちろん、和夫に悪意はない。兄を思う気持ちから出た言葉だ。それでも、美咲の心には小さな波紋が広がった。


#### 10 静かな帰宅と、押し寄せる現実


葬儀の準備のため、美咲は一度家に戻った。玄関を開けると、父が使っていたスリッパがそのまま置かれていた。(あ……)その光景だけで、胸の奥がぎゅっと痛んだ。冷蔵庫には、父が食べきれなかったゼリーが残っている。(こんなに……日常の中に、お父さんがいたんだ)涙が静かにこぼれた。


和夫が、台所の片付けを手伝いながら言った。「美咲、無理するなよ。お前がしっかりしないと、正一が心配するぞ」励ましのつもりだった。しかし美咲には、その言葉が重く響いた。(しっかり……もう十分しっかりしてきたのに)返事をしようとして、喉がつまった。和夫は、美咲が黙り込んだ理由に気づかないまま、「大丈夫だ、大丈夫だ」と繰り返した。二人の間に、また小さな温度差が生まれた。


#### 11 医師の迷いと、家族の沈黙


病院では、いつもの日常が戻りつつあった。若手医師の佐藤は、最期の確認を終えたあと、家族の前に立った。


「……お父さんは、とても穏やかでした。苦しみはありませんでした」


その言葉は事実だった。しかし美咲は胸の奥で小さく思った。(本当に……?もっとできることはなかったの……?)


佐藤は、その沈黙の意味を読み取れず、言葉を足すべきか迷った。(言いすぎても、言わなすぎてもいけない……難しいところだ)医師としての正しさと、家族の感情のあいだで揺れていた。


和夫は、兄の顔を見つめながら静かに言った。「兄貴……苦しまなかったなら、それでいいよな」


その言葉に、美咲はまた胸がざわついた。(“それでいい”って……そんな簡単に言わないでよ)しかし、その思いは胸の奥にそっとしまった。佐藤は、家族の表情の揺れを見ながら、自分の未熟さを噛みしめていた。


#### 12 ナースの胸に残ったもの


病院の廊下には、いつもの朝の空気が戻っていた。ナースの佐伯は、次の患者のケアに向かう途中、ふと足を止めた。(……この部屋)昨日まで正一がいた病室。今は空になり、ベッドメイキングを待つだけの静かな空間になっている。


佐伯は、ドアの前でほんの数秒だけ立ち止まった。(美咲さん……大丈夫かな)看取りの場面は慣れない。慣れてはいけない。それが佐伯の信念だった。家族の表情、言葉にならない不安、小さなすれ違い──それらが胸に残る。


(あの家族は……きっと乗り越えられる)そう思いながらも、心のどこかに静かな痛みがあった。佐伯は深く息を吸い、次の患者のもとへ向かった。


#### 13 葬儀の日の、すれ違う優しさ


葬儀の日、親族や近所の人々が集まった。


美咲は、喪服の袖を整えながら、胸の奥に重いものを抱えていた。(ちゃんと……できるかな)


和夫が近づいてきた。「美咲、しっかりしろよ。お前がちゃんとしないと、正一が心配するぞ」励ましのつもりだった。しかし美咲には、その言葉が重く響いた。(しっかり……もう十分しっかりしてきたのに)返事をしようとして、喉がつまった。


和夫は、美咲が黙り込んだ理由に気づかないまま、「大丈夫だ、大丈夫だ」と繰り返した。その言葉は優しさだった。しかし、美咲の胸には小さな痛みが残った。(大丈夫じゃないよ……でも、言えない)


葬儀が始まると、美咲は父の遺影を見つめた。写真の中の父は、どこか照れくさそうに笑っている。(お父さん……私、ちゃんとできてる?)その問いは、誰にも届かないまま胸の奥に沈んでいった。


#### 14 日常へ戻るための、小さな一歩


葬儀が終わり、家に戻った美咲は、静まり返った部屋を見渡した。父が座っていた椅子。読みかけの新聞。薬の袋。使いかけの歯ブラシ。(こんなに……お父さんはここにいたんだ)涙が静かにこぼれた。


和夫が、そっと声をかけた。「美咲……無理に片付けなくていいんだぞ」その言葉は優しかった。しかし美咲は、なぜか胸が締めつけられた。(無理にじゃない……でも、片付けたら本当にいなくなる気がして)言葉にできない思いが、胸の奥で渦を巻いた。


和夫は続けた。「兄貴は……お前が幸せに生きることを一番望んでた。だから、ゆっくりでいい」その言葉は、美咲の心にそっと触れた。(お父さん……私、ゆっくりでいいんだよね)美咲は、父の遺影に向かって小さくうなずいた。


#### 15 医師の振り返り


病院の医局では、いつもと変わらない朝のルーティンが始まっていた。若手医師の佐藤は、カルテを閉じたあと、深く息を吐いた。


(もっと……言い方があったかもしれない)


家族の沈黙。美咲の揺れる表情。和夫の強がるような言葉。医師としての説明は正しかった。しかし、“正しさ”だけでは届かないものがある。(これが……ACPの難しさなんだ)佐藤は、自分の未熟さを噛みしめながら、静かに目を閉じた。


そのとき、先輩医師が声をかけた。「佐藤、昨日のケース……よくやってたよ」


「……でも、家族の気持ちに寄り添えたかどうか……」


「寄り添おうとしたかどうかが大事なんだ。完璧な答えなんてない。それでも向き合おうとしたなら、それでいい」その言葉に、佐藤は少しだけ肩の力を抜いた。(次は……もっと丁寧に伝えられるようになりたい)静かな決意が胸に灯った。


#### 16 日常への帰還


四十九日が近づく頃、美咲は少しずつ日常を取り戻し始めていた。朝起きて、コーヒーを淹れて、仕事へ向かう。その一つひとつが、父の不在を静かに思い出させた。(お父さん……今日もちゃんと生きてるよ)そう心の中でつぶやくと、胸の奥に小さな温かさが広がった。


和夫は、兄の家の仏壇の前で手を合わせていた。(兄貴……美咲は大丈夫だ。あの子は強い)兄の代わりに支えると決めた。それは義務ではなく、自然に湧き上がった思いだった。兄が家族を守ってきたように、今度は自分が守る番だ。和夫は、静かに目を閉じた。


#### 第二部・締め


季節はゆっくりと移ろっていた。病院の桜は散り、街には新しい風が吹き始めている。人々の生活は続き、時間は止まらない。しかし、あの日の静けさは、残された者たちの胸の奥に今も確かに息づいていた。


美咲は、父の遺影に向かってそっと言った。「お父さん……ありがとう。私、ちゃんと前に進むからね」その言葉は、悲しみではなく、静かな決意を帯びていた。こうして、父の旅立ちをめぐる“揺らぎの時間”は、ゆっくりと、しかし確かに日常へと溶け込んでいった。


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### 第三部:残されたもの


#### 17 父の部屋に残る気配


四十九日が過ぎ、季節はゆっくりと夏へ向かっていた。


美咲は、父の部屋の前で立ち止まった。(そろそろ……片付けないと)そう思いながらも、ドアノブに手をかけるのをためらった。部屋の中には、父の生活の痕跡がそのまま残っている。読みかけの新聞。折り目のついたテレビ欄。薬の袋。古いラジオ。


(お父さん……ここで毎日、過ごしてたんだよね)


部屋に入ると、空気が少しだけ父の匂いを残していた。美咲は、机の上に置かれたメモ帳を手に取った。震える字で、こう書かれていた。


「みさきに迷惑をかけないように。できることは自分で」


胸がぎゅっと締めつけられた。(そんなこと……気にしなくてよかったのに)涙がこぼれそうになり、美咲はそっと目を閉じた。


そのとき、背後から和夫の声がした。「美咲……無理に全部やらなくていいんだぞ」振り返ると、和夫が心配そうに立っていた。「兄貴の部屋は……ゆっくり片付ければいい。急ぐ必要なんてない」


その言葉は優しかった。しかし美咲は、なぜか胸がざわついた。(ゆっくりって……どれくらい?どうすればいいの?)言葉にできない思いが、胸の奥で渦を巻いた。和夫は、美咲の沈黙を“疲れ”だと受け取ったようで、そっと部屋を出ていった。


美咲は、父のメモ帳を胸に抱きしめた。(お父さん……私、どうしたらいい?)その問いは、静かな部屋に溶けていった。


#### 18 叔父の不器用な優しさ


数日後、和夫が美咲の家を訪れた。


「美咲、これ……兄貴の保険の書類だ。手続き、俺がやっておくから」そう言って、分厚い封筒を差し出した。


美咲は驚いた。「え……でも、それくらい私が……」


「いいんだ。お前は仕事もあるし、兄貴のことで疲れてるだろう」その言葉は優しさだった。しかし美咲は、なぜか胸がちくりと痛んだ。(疲れてるって……そんなふうに見えるのかな)


和夫は続けた。「兄貴は……最後までお前のことを気にしてた。“美咲に迷惑かけたくない”って、何度も言ってた」その言葉に、美咲は息をのんだ。(お父さん……そんなこと、言ってたの)


和夫は、少し照れくさそうに笑った。「兄貴は不器用だったけど……お前のこと、ずっと誇りに思ってたよ」美咲の目に、静かに涙がにじんだ。しかし、その涙は悲しみだけではなかった。(お父さん……ちゃんと伝わってたんだね)


和夫は、美咲の涙に気づかないふりをして、そっと席を立った。「また来るよ。何かあったら、すぐ言え」その背中は、兄の代わりに家族を支えようとする、不器用な優しさに満ちていた。美咲は、その背中を見送りながら、胸の奥に小さな温かさを感じていた。


#### 19 季節の移ろいと、残された言葉


夏の気配が近づく頃、美咲は父の部屋の片付けを少しずつ進めていた。急ぐ必要はない。しかし、何もしないままでは前に進めない気もした。


机の引き出しを開けると、古い封筒が出てきた。「みさきへ」父の字だった。美咲は、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


封を開けると、短い手紙が入っていた。


「みさきへ


 いつもありがとう。


 お前に迷惑をかけたくない。


 でも、どうしても頼らなきゃいけないときは、頼らせてくれ。


 父さんより」


美咲は、手紙を胸に抱きしめた。(お父さん……そんなこと、言わなくてよかったのに)涙が静かにこぼれた。


そのとき、和夫から電話がかかってきた。「美咲、元気にしてるか?」


「……うん。少しずつ、ね」


「兄貴の部屋、無理に片付けなくていいんだぞ。お前のペースでやれ」その言葉は優しかった。しかし美咲は、なぜか胸がざわついた。(“お前のペースで”って……私のペースって、どんなペースなんだろう)自分でもわからない。だからこそ、その言葉が少しだけ重く感じられた。


和夫は続けた。「兄貴は……最後までお前のことを気にしてた。“美咲は頑張りすぎる”ってな」その言葉に、美咲は静かに涙をぬぐった。(お父さん……私、頑張りすぎてたのかな)父の手紙と、叔父の言葉が、胸の奥でゆっくりと重なっていった。


#### 20 医療者の胸に残る余韻


病院では、新しい患者が次々と入院していた。


ナースの佐伯は、忙しい日々の中でふと、正一のことを思い出す瞬間があった。(あの家族……どうしているかな)看取りの場面は、どれだけ経験しても慣れない。家族の表情、言葉にならない不安、小さなすれ違い──それらが胸に残る。


佐伯は、休憩室でコーヒーを飲みながら、同僚にぽつりと話した。「この前の患者さん……娘さんがすごく頑張っててね。でも、頑張りすぎてるようにも見えて……」同僚はうなずいた。「家族って、“頑張る”しかできないときがあるからね。でも、頑張りすぎると壊れちゃう」佐伯は、その言葉を胸に刻んだ。(美咲さん……大丈夫だといいけど)


一方、若手医師の佐藤もまた、正一のケースを思い返していた。(もっと……言い方があったかもしれない)家族の沈黙。美咲の揺れる表情。和夫の強がるような言葉。医師としての説明は正しかった。しかし、“正しさ”だけでは届かないものがある。


佐藤は、カルテの端に小さくメモを書いた。「言葉の選び方に注意。家族の表情をよく見ること」それは、自分への戒めであり、次の患者への約束でもあった。(次は……もっと寄り添える医者になりたい)静かな決意が胸に灯った。


#### 21 静かな再出発


秋の気配が近づく頃、美咲はようやく、父の部屋の片付けを終えた。時間がかかった。何度も手が止まった。思い出に触れるたび、胸が締めつけられた。しかし、そのたびに深呼吸をして、少しずつ前へ進んだ。


部屋の最後の段ボールを閉じたとき、美咲は静かに息を吐いた。(お父さん……これでいいよね)その問いに答えるように、窓から柔らかな風が吹き込んだ。


和夫が手伝いに来ていた。「美咲……よく頑張ったな」その言葉は、これまでのどの励ましよりも、自然に胸に染みた。


「ありがとう、叔父さん」美咲は、初めて素直にそう言えた。


和夫は、少し照れくさそうに笑った。「兄貴も……きっと喜んでるよ」二人の間に、これまであった小さなすれ違いが、ゆっくりとほどけていくようだった。


美咲は、父の遺影に向かって静かに手を合わせた。(お父さん……私、ちゃんと生きていくからね)その言葉は、悲しみではなく、前へ進むための小さな一歩だった。


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### エピローグ—それぞれの場所で—


#### 美咲


仕事へ向かう朝、ふと空を見上げる。父が好きだった秋の空。高く澄んだ青。(お父さん……今日も見てる?)胸の奥に、静かな温かさが広がる。悲しみは消えない。でも、悲しみと一緒に生きていくことを、少しずつ覚えていく。


#### 和夫


兄の家の仏壇に手を合わせる。「兄貴……美咲は大丈夫だ。あの子は強い」兄の代わりに支えると決めた。それは義務ではなく、自然に湧き上がった思いだった。


#### 佐伯ナース


夜勤の休憩室で、ふと正一のことを思い出す。(あの家族……きっと前に進んでいる)看取りの場面は慣れない。慣れてはいけない。だからこそ、一つひとつの家族の物語が胸に残る。


#### 佐藤(医師)


カルテを書きながら、正一のケースを思い返す。(次は……もっと寄り添える医者になりたい)その決意は、静かで、しかし揺るぎなかった。


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人は誰しも、いつか「最期の時間」を迎える。


しかし、その時間をどう過ごすか、誰と向き合い、何を大切にするか――その答えは人の数だけ異なる。


この物語に登場した人々は、誰も悪意を持っていなかった。それでも、疲れや不安や不器用さが、ときに人を傷つけ、すれ違いを生む。それでもなお、互いに寄り添おうとする姿があった。


“その人らしい最期”とは、特別な奇跡ではなく、こうした小さな揺らぎの積み重ねの中にそっと宿るものなのかもしれない。


読者がこの物語を通して、誰かの最期を考えるときの小さな灯りを見つけられたなら、それだけで十分だ。



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