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生前追悼・筒井康隆

作者: 稀Jr.
掲載日:2025/12/29

 NHK BS で筒井康隆特集の再放送を見て「ややや、俺の筒井康隆が死んじまう!」と恐怖におののき始めた短編書きではあるが、無事にこれで100本目を迎える。

 老人ホームに入って年老いてなお「差別大好きだからね、へへへ」と笑う筒井康隆の顔(過去の映像ではあったが)を見ると、いつまでも元気でいて欲しいとか欲しくないとか、いや30年ほど前に、新宿の紀伊国屋で「間接話法」の自著朗読会を見入って握手をして貰ったころを思い出し、クソッ、きっと追い付いてやると思いながらも、その当時は一切の小説を書けなかった自分がいる。幸いにして、コンピュータ本を書くということだけは20年以上続いてきたのだが、それは "さもしい" 仕事ではなく糊口を凌ぐための仕事であり...いや、そんなことないですよ、毎度毎度その手のニーズに応えるように編集者と悩んでは書き、時には売れず、またしても売れずが続いているものの、それなりに文章で原稿料を貰っている身は続いていて、プログラマと技術書のライターの二足の草鞋というのか、それは結局同じ穴のムジナでは? と思いつつも今日に至るわけである。でも、何故か、小説を書くことはできず、いや、小説を書くということ自体に気負いがあって、筒井康隆並みの何かを求めてはいまいちだと思い書き出しては止めてを続けていた。いや、ここ10年ほどは辞めていたと言っていい。

 筒井康隆の本で最初に手に取ったのは忘れてしまったが、「時をかける少女」だとか「七瀬ふたたび」あたりではない。たぶん「俗物図鑑」か「大いなる助走」あたりだったと思う。高校生の頃は、SF 小説を読み、順当にアシモフだとかハインライン、クラークあたりを読み漁っていたわけだが、星新一のショートショートと、横田順弥のハチャハチャ SF あたりと同類として筒井康隆の本を読んでいた。片方で、半村良の「妖星伝」や嘘部のあたりも読んでいたわけだが、自分から見ると、筒井/星/横田/半村あたりは同世代というよりも、ちょっと上の世代が書いた SF 小説という感じである。実際、筒井康隆は私よりも 30 歳ほど上である。

 星新一のショートショートから短編 SF の方を読むことが多く「にぎやかな未来」とか「未来いそっぷ」とか「心理学 社怪学」とかを良く覚えている。いや、正確に言えば忘れている。内容云々というわけでもなく、筒井康隆の言うところの「薬にも毒にもならない小説は書きたくない」し、それを読んでも面白くはないのだ。皮肉があり風刺があり、時には差別的でありブラックジョークであり心理的にきついものを含む。それは、今でいえばポリティカルコレクトネスに反するものも多く、実際に「断筆宣言」ということで教科書に載った小説に難癖をつける団体により、筆を折ることになる。いや、正確に言えば、筆を折るふりをして役者のほうに転向しようか、といったところだろう。スラップスティックでありドタバタ劇であり、鼻で嘲笑うような、何を嘲笑うのかわからないが、そういう悪趣味の部分を含めての役者指向でもあった。

 しかしてだ、果たして、それが世間に受け入れられたかというとそうでもなく、もちろん一部の "ツツイスト" と呼ばれるあるいは自認する人たちには人気ではあったものの、どうもいまひとつなように俺には見えた。それは「朝のガスパール」を読者とともに連載をするというスタイルが、やっぱり内輪ウケのような感じがして、途中でどうにもな感じがしたのと同じ臭いがするものである。

 しかして「文学部唯野教授」「わたしのグランパ」「ビアンカ・オーバースタディ」あたりを読むとだナ、いやいや、そんな読者はどうでもよくて、好きなものを好きなように書くという姿勢があり、しかして好きなものというのは「読者が好きなんじゃないかなぁ」と思いつつ一方踏み外してしまい、いやいや、それがウケようとウケまいとあまり関係ないのだ、ということに至るのである。当たり前なのだが、作者が小説を書く前にはその小説は存在せず、当然のことながらその小説の読者も存在しない。しかし、作者が好き勝手書いていいような資本主義やら出版事情やらがあるわけでもなく、最初のスタートはどこから始まるのかわからないが(おそらくそれは継続と偶然なんだろうけど)「目の前にいない読者」を想定して小説を書くというのは、目の前にいない聴衆に語り掛けないといけないという、実に馬鹿馬鹿しいことを繰り返さないといけないのである。勿論、実際に目の前にいないわけではなく、それは仮想の読者であり、想定の読者であり、まあ、俺だけに "居る" 読者であるわけで、それは自分自身でもあるのだ。

それが、面白いか面白くないかなんてのは、実際自分で書いてみなくちゃわからない。そして、読み返してみて「つまらねぇなぁ」と思ったら清く捨ててしまえばいいのだ。そうすれば、実際に読者に出すこともない、消えてしまう藻屑となる。無かった事にできる。しかし、無かったことにできるのは、まずは存在させないといけない小説というものがある。それは実に無駄な作業かもしれないけど、精神的な安寧というものはそういうものなのである。

 つまりはサイコロの目のようなものだ。


 それを確認したいがために 100 本の短編を書いてみた。

 そしてこれが 100 本目である。

 筒井康隆自身 2023 年に「カーテンコール」を発表し、これが最後の小説となっている。直前に「モナドの領域」を発表してこれを自著の最高傑作と称している。実に勝手な話だ。そして、自分できっちりと締めている。俗にいう、終活のようなものだ。


 で、100 本ほど短編(というか掌編だが)を書いてみたという事実を以って、ちょっと長めに書くということが自制に役立つことが分かった。そう試してごらんよ。X で呟いたような気になっていて自意識が増長する現象を客観的に見ることができるから。何か言った気になるぐらいだったら、何か本気で...いやジョークでもいいんだが、悪口なり皮肉なり、嘲笑なりブラックジョークなりを、もうちょっと踏み込んでみれば、ほら、足元の恐怖が自分に襲ってくるのが見えてくる。いかに常識に囚われているか、そして非常識に踏み込めないでいるか。それと同時に、非常識に踏み込んでも大したことはないということ。そう、襲撃なんかしなければいいだけだ。

 短編小説はちょうど俺にとって丁度よいサンドボックスに違いない。書くそして自分で読むという繰り返しは、自慰のように見えるけど、いやいや、自慰ほど発散しないし空しくならない。制約のない言葉を選ぶときに、何かの自制が働く。それは何だ? 悪趣味も趣味のうちに過ぎない。それは誰にも受け入れられない趣味かもしれないが。緩く共感してくたら幸いだ。

 それに飽きたら別なところに進むだろう。それで十分であろう。


 と、気付かせてくれた筒井康隆に圧倒的感謝である。


【完】


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