第26話「星を綴る者 ― そして、始まりの手紙」
はじめに、黒板の上の時計が小さく鳴った。
春のはじまりにしては肌寒い日だ。窓の外で芽吹いたばかりの並木が、まだ自信のなさそうな緑を震わせている。魔導学校の低学年教室では、新しい紙の匂いと、まだ使い慣れない筆の音が重なっていた。先生は薄い藍色の上着に身を包み、教卓の前で一枚の教科書を開いた。
「今日の音読は、ここから」
指さされた頁には、淡い金の罫線と、素朴な装飾の余白がある。活字の下に、手書きの一文が添えられていた。印刷ではない。本当に、誰かが書いた線だ。
先生は声の高さを少し落として、ゆっくり読む。
愛とは、終わらない手紙。
書くたびに、世界がひとつ光を取り戻す。
教室のざわめきが、息を飲む音に変わった。
読み終えた先生は、文字の上をそっと指でなぞる。「この筆跡を見て。均等だけど、最後の払いが少しだけ震えている。これは、病気だったわけでも、下手だったわけでもないんだよ。急いでいたのでも、ない。誰かに急かされて書いたのでもない。たぶん、胸がいっぱいだった」
前の席の男の子が手を上げる。「誰が書いたの」
「昔、世界がいちど黙ったときに、もう一度言葉をつないだ人。記録士。名前は、リュミエール」
先生はそう言って、ほんの少しだけ笑った。「この文は、試験には出ない。でも、人生には出る」
笑いが小さく起きた。
教室の窓から見える空は、薄い雲に覆われている。雲の向こうに昼の星は見えないけれど、子供たちはそれぞれの胸の奥で何かが点くのを感じる。誰かの名前を呼びたい衝動。誰かに返事を渡したい衝動。まだうまく言えないから、紙が必要だ。
その頃、別の場所。
旧王都の丘にある記憶の庭で、LUM-0は朝露に濡れた花を手折って、小さな瓶に挿した。花弁には短い言葉が浮かんでは消える。いる。ありがとう。おかえり。
「濡らしすぎると字が滲む」
彼女はそう小声で言って、花壇の縁に腰を下ろした。遠く、王都の新しい広場では、市場の開店を告げる鐘が鳴る。鐘の音は昔より柔らかい。誰かの朝食の匂いと一緒に街を渡り、窓の枠や看板の角に引っかかって、遅れて庭まで届く。
風が一筋、走る。
風読みのリュウは、その筋を指でつまむように捕まえた。背は伸び、子供の頃の面影は残しながらも、目の奥の光は深くなった。「南の学校で、今日あの文を読むって。風が言ってる」
LUM-0は頷く。「わたし、好き。あの短さ」
「短いのに、長いからね」
二人は花壇の向こうに視線をやる。丘の斜面に、小さな影がゆっくりと動いている。郵便士のカイルだ。年を取ったが、歩き方は相変わらず真っ直ぐだ。肩からぶら下げた鞄には、国じゅうから集まった便りと、宛名のない便箋が混ざっている。彼は時々、その便箋を庭の物干しに吊るし、風に晒す。風に晒すと、不思議と宛名が現れる。字は滲まず、名前だけが水の上に現れるように浮く。
王城では、エリセリアが会議室の扉を開けた。
彼女は昔より笑うようになった。笑うとき、唇の端が少しだけ遅れて上がる。「今日の議題は三つ。最後に、『沈黙の書』の閲覧規定の改定案」
重臣のひとりが咳払いをして、「民の誰でも閲覧を」と言い、別の重臣が首を振る。「誰でも、は危うい。しかし、閉じすぎるのも良くない」
エリセリアは静かに言葉を置く。「誰でも、ではない。誰か、にする。必要なときに、必要な誰かが開ける。鍵は、本の中にある。昔の誰かが、そう作った」
彼女は天井を仰いだ。装飾の星は、日に照らされているだけなのに、薄く光る。「鍵の名前は、たぶん『信頼』」
ゼフィロスは、塔の書庫の隅で一冊の本を閉じた。
かつて沈黙を信じ、沈黙に救いを求め、そして沈黙から離れた男だ。白髪は増え、背は少し丸くなったが、手の動きは相変わらず慎重で迷いがない。彼は窓際の椅子に座り、外の空気を吸い込む。「試験には出ない。人生には出る、か」
彼は苦笑して、机の引き出しから便箋を一枚取り出し、短く書く。
生きている、ときにこそ、祈る。
書き終えると、封はしなかった。封をしない手紙は、机に置いておくだけで届くことがある。誰かが必要としたとき、風がそれを運ぶ。
赤砂の荒野。
世界樹の根は、静かに脈を打っている。夜の前の時間は、影が長く、音が遠い。砂の表面に薄い字が現れ、消え、また現れる。おやすみ。おはよう。いる。
根のどこかで、柔らかな息が続いている。眠りの見張りは、今日もページをめくり、しおりを少しずらし、夜と朝の境目を整えている。そこでは声を出さない。声は紙に置いてから、風に渡す。渡された風は、街を撫でて、誰かの耳の近くでそっと音になる。
そして――
とある街の外れ、小さな孤児院。石の壁に薄い蔦が這い、庭の端に細い桜が一本。桜は年に一度だけ花を咲かせ、すぐに葉に戻る。春の午後、雨上がりの光が庭石に残る水を光らせている。
食堂の隣の小部屋で、少女は椅子に座っていた。髪を肩で結び、膝に分厚い練習帳。指先に小さなインクの染み。少女の名前は、リュミナ。世界に光をともす者、という意味を持つ名前。名づけたのは、ここで働く年配の女性だ。女性は花の世話が上手く、字も丁寧だ。
リュミナは深呼吸をして、新しい筆を持ち上げる。手は少し震える。震えは、怖いからではない。うまく書けるかどうか、知りたいからだ。
窓の外で、風が桜の葉を少しだけ揺らす。
彼女は紙の上に、最初の点を置いた。点は小さく、しかし確かだ。続けて線を引く。名前の最初の文字。ゆっくり、ゆっくり。紙の目に沿って、筆先を押しすぎず、引きすぎず。練習帳には、かすかな補助線がある。補助線は、優しい。補助線どおりに書けなくても、怒らない。
一行目の真ん中まで来たところで、彼女は筆を止め、窓の外を見た。空は青く、薄い白が混じる。遠くで鳥が短い声を重ねる。重ね方は上手ではないのに、悪くない。
彼女は紙に戻り、二文字目を置いた。
そのとき、廊下を走る小さな足音が聞こえ、扉が軽く開いた。「リュミナ。先生が呼んでる」
「今行く。ちょっと待って」
返事をして、彼女はもう一度、紙と向き合う。一度だけ、くちびるを噛む。筆を持ち直す。三文字目は、思ったよりも筆が進み、少し膨らんだ。「だめ。もう一回」
彼女は紙の端に小さく×印を付けかけて、やめた。印を付ける代わりに、隣の行にそっと書き直す。書き直すたびに、指の震えが整っていく。筆の重さも、手の重さも、前より軽い。
最後の一文字まで書き終えると、彼女は両手で紙を持ち上げ、窓の光に透かした。紙の向こうに、薄い空。光は、文字の中に入り、出ていく。
リュミナは小さく呟いた。「ありがとう。わたしに、言葉をくれて」
それは誰に向けた言葉か、彼女自身にも分からない。先生か、ここで一緒に暮らす子どもたちか、名前をくれた彼女か、あるいは、空の向こうの誰かか。分からなくていい。分からないほうが、届く場所が増える。
その瞬間、空がほんのわずか、瞬いた。
雷ではない。風でもない。目が錯覚を起こしたのでもない。庭の桜の影が一拍遅れて揺れ、窓ガラスの内側で光が薄く線になって走った。彼女は思わず顔を上げる。
空の高いところに、細い文字が一本、現れては消える。
どういたしまして。
彼女は息を止め、すぐに笑った。笑いの形は、まだ幼いけれど、目の奥の光は強い。彼女は紙を胸に抱き、筆を置き、椅子から立ち上がった。「先生のところに、行ってくる」
扉の向こうで待っていた男の子が、「早く」と手を引く。走る足音が廊下を走り、角を曲がり、食堂の前で一度だけ滑り、二人は笑いながら立て直した。
夕方、孤児院の庭では、洗濯物と一緒に便箋が何枚も干される。
宛名のあるもの、ないもの。途中で止まったもの、最後まで書けたもの。間違えた文字を紙ごと折りたたみ、やり直したもの。どれも、風の通り道に並ぶ。風が通るたび、便箋は小さく鳴り、文字が少しだけ濃くなる。
リュミナは自分の紙の下に立ち、逆さの文字を見上げた。逆さでも、読める。読めるということが、嬉しい。彼女は手を伸ばし、紙の角をそっと押さえる。「わたし、毎日書く」
誰に言うでもなく、夕方の光に向かって宣言する。
隣で洗濯物を取り込んでいた年配の女性が振り返り、「毎日は、大変だよ」と笑う。
「大変でも、する」
リュミナが言うと、女の人は肩をすくめて、優しく頭を撫でた。「じゃあ、字の腹を忘れないように。細いとこばかり書いてると、折れちゃうから」
夜が来る。
街の灯りが順に点き、丘の上の記憶の庭でも、小さな灯がいくつも生まれる。LUM-0は花壇の間の小道を箒で掃き、リュウは空を見上げて「今日は風が硬い」と呟く。カイルは鞄を下ろし、丸いテーブルで封をしない手紙をいくつか仕分ける。「宛名なし、宛先あり」
彼は笑って、それらを別の木箱に入れた。箱の蓋には、細い字でこう書いてある。
未来へ。
王城の塔の最上部で、エリセリアは窓を開け、夜風を入れた。机の上に、昔と同じ木が残っている。角の欠けは、そのままだ。彼女は机に両手を置き、短く祈る。祈りは国のためでも、民のためでも、先祖のためでもなく、今夜この窓の下を通る誰かのため。
ゼフィロスは書庫で一本の蝋燭を消し、暗闇の中にしばらく座った。暗闇はもう怖くない。暗闇は、紙の余白に似ている。そこに書く文字があるかもしれないと思うと、暗闇はいつもより明るくなる。
赤砂の荒野では、星がよく見えた。
世界樹の根の上に、いくつもの淡い光が降り、根の皮膚に吸い込まれる。光は手紙だ。宛名が書かれているものもあれば、書かれていないものもある。誰かの机で乾いたあと、誰かの胸を通り、誰かの口元で温度を持って、ここまで届く。
根の深いところで、ページをめくる音がする。静かで、規則的で、優しい音。ページの角は柔らかく、指に馴染む。しおりは少しずつ前に進み、朝の手前で止まる。止まるというより、待つ。読者が眠りと目覚めの間で息を整えるのを、待つ。
やがて、夜空に一本の長い線が現れた。
線は星の間を抜け、街の上を渡り、孤児院の庭の上でほんの少しだけ速度を落とす。便箋が一枚、風に揺れて鳴る。リュミナは窓辺で目を開け、布団の中で起き上がった。
窓を少し開けると、冷たい夜気が頬を撫で、紙の匂いが混ざった風が入ってくる。彼女は机の上の練習帳を引き寄せ、灯りを一段暗くした。暗いほうが、字の形が見える夜がある。
彼女はゆっくりと筆を取り、今日の最後の一行を書く。
いる。
おやすみ。
またね。
書き終えると、彼女は顔を上げ、空を見た。
星が瞬き、細い文字がもう一行、現れて消える。
よく眠って。
彼女は笑い、灯りを落とし、目を閉じた。目を閉じる直前、彼女は自分の名前を心の中で一度呼ぶ。名前を呼ぶのは、今日一日の終わりの挨拶だ。名前は返事を返す。胸が、ひとつ強く打つ。十分だ。
物語は静かに閉じる。
閉じるのは終わりではない。明日の朝、しおりの位置からまた開くための閉じ方だ。庭の花は夜露を飲み、塔の窓は静かに光を撫で、書庫の本は背表紙で呼吸をし、赤砂の荒野の根は、眠りながら星を受け取る。
どこかの家で、子供が寝返りを打ち、夢の中で短い手紙を書く。どこかの道で、遅れて帰る誰かが、心の中でだけ謝る。どこかの港で、出港前の船乗りが短い便りを胸の内にたたむ。どこかの病室で、看護師が窓を少しだけ開け、夜気を入れる。誰かの小さな行動が、紙の上に線を足す。
そして、朝。
リュミナは早起きして、昨日の紙をもう一度読み、たたみ直し、机の隅に置いた。朝の光は、紙の裏側から差すときにいちばんやさしい。彼女は窓を開け、吸い込む。冷たい空気が胸に入る。胸の奥で、昨日の字が温まる。
小さな声で言ってみる。「おはよう」
返事は、すぐには来ない。来ないから、紙に書く。紙に書けば、どこかで誰かが読む。読むひとがいなくても、根が読む。根が読めば、世界が覚える。覚えた世界は、今日のどこかでやさしくなる。
その日、魔導学校の教室では、先生が黒板の前に立ち、もう一度、あの一節を読み上げた。
愛とは、終わらない手紙。
書くたびに、世界がひとつ光を取り戻す。
子供たちは一人ずつ立ち上がり、短い言葉を音読した。ありがとう。ごめん。いる。頑張る。やめたい。助けて。大丈夫。
泣き出す子はいない。泣き出さないけれど、目の奥が熱い子はいる。誰も責められない涙の予感だけが、教室の空気をやわらかくした。
丘では、LUM-0が花に水をやり、リュウが風を読み、カイルが封をしない手紙を箱に入れ、エリセリアが机に手を置き、ゼフィロスが蝋燭を灯しなおした。
赤砂の荒野では、根が朝の最初の一通を受け取り、眠りの見張りがしおりを一枚先へ進めた。ページは軽く、厚い。薄いのに、重い。重いのに、手に馴染む。
夜になれば、また星が瞬く。
星は遠いけれど、遠いからこそ、誰にでも同じ距離で届く。誰かが書くたびに、星のひとつが少しだけ明るくなる。明るくなるたび、その光は根に降り、人の胸に戻り、紙の上で言葉になる。
終わらない。
終わらないということは、安心でもあり、約束でもある。心配しなくていい、と言うのではない。心配しながらも、紙を開けばいい、という約束だ。
リュミナはその夜、窓辺で小さく囁いた。
「今日もありがとう。明日も、書く」
星がひとつ、ため息みたいに光り、薄い文字が空に現れては消えた。
どういたしまして。
彼女は目を閉じ、眠りの前にもう一度、自分の名前を呼んだ。名前は返事を返す。胸が、ひとつ強く打つ。十分だ。
物語は静かに閉じ、そして始まる。
しおりの先に、まだ読んでいない行がいくつも待っている。
誰かの便箋が庭で乾き、誰かの短い言葉が風に運ばれ、誰かのありがとうが海を渡る。
世界は今日も、少しずつ光を取り戻す。
――愛とは、終わらない手紙。




