表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/27

第25話「世界樹の根と、沈黙の種」

 砂は、風の形を真似している。

 赤砂の荒野は、いつ来ても地図の役に立たない。昨日の尾根が今朝には凹みになり、目印にしていた枯れ枝は夜のうちに砂の下に沈んでいた。わたしは外套の裾を結び直し、眼差しだけを遠くへ投げる。足音は吸い込まれて消える。耳に届くのは、風と、自分の心臓の音だけだ。


 かつてこの荒野の先で、名を失くした兵士たちに手紙を書いた。砂の上に記し、星の光で封をした。あの夜、砂は星を覚えているふうだった。今日の砂は、鼓動を覚えている。足の裏から伝わってくる。わずかに、でも確かに、地面の向こう側で脈が打っている。


 丘の影で、わたしは一度立ち止まった。

 砂の斜面は滑りやすく、膝まで埋まる場所もある。息を整え、フードを締め、前髪が視界を邪魔しないよう耳にかける。胸元の革紐に触れる。そこにあるはずのものの重みを確かめる。沈黙の書。ページはどれも薄いのに、重さはいつも一定だ。紙の重さではなく、記録の重さだと知っている。


 さらに歩いて、沈んだ谷に出た。

 砂の色が変わっている。赤から、少し黒い赤へ。その中心に、円がある。直径は、丘の半分ほど。円のふちには石が等間隔に顔を出し、風の当たらない線が砂の上に残っている。円の中に踏み入ると、鼓動が強くなった。足の裏の骨が、わずかに跳ねる。


 砂が、震えた。

 瞬きの間に、円の中心が沈み、渦を作る。砂の流れは速すぎず、遅すぎず、引きずり込むほどの力ではない。わたしは足幅を広げ、両膝をゆっくり曲げ、重心を低くする。砂が落ちる音は、乾いた紙を束ねて叩いたときの音に似ている。渦の底から、光が上がってくる。白ではない。赤でもない。文字のような光だ。細い線が絡み、ほぐれ、また絡む。


 地面が開き、深い洞が口を開けた。

 わたしの目の前に現れたのは、樹の根だった。一本ではない。無数の縄が編み込まれているみたいに、太い根と細い根が互いに絡み、絡み合ったまま、砂の中へ、さらに下へ、世界の底へと消えていく。色は黒く、ところどころに薄い光が走る。光は文字の形になる。見たことのある手紙の断片。誰かの祈りの端。別れの言葉の息継ぎ。さらに、わたし自身が書いた一文字の癖。線の抜き方。点の位置。すべてが、根の皮膚にかすかに浮かんでは消える。


 わたしの胸は、懐かしさと怖さで同じ速さに踊った。

 世界樹の根。王都の書庫に残る古い伝承には、世界の言葉は樹の根のように地下でつながり、時々地表に顔を出す、と書かれている。誰かの言葉は誰かの根を揺らし、根は水を互いに分け合う、とも。反転儀式の夜、わたしが受け取って、書き換えて、渡し直した言葉たちは、ここに降りてきたのだ。もう一度生えるために。あるいは、眠るために。


 風が止んだ。

 止んだはずの空から、別の風が降りてくる。根の間から。底の方から上へ。息が合う。わたしは膝をついた。砂が膝裏に冷たい。外套の前を開け、胸の革紐を解く。沈黙の書を取り出し、両の手のひらで支える。表紙に指が触れた瞬間、書は自分から静かに開いた。紙の匂いは薄い。代わりに、湿った土と古いインクの匂いがした。


 ページに、何も書かれていない。

 いつものことだ。文字は現れる前から、白の中に薄く潜んでいる。読むべき順番が、まだ決まっていないだけ。わたしは深く息を吸う。喉は、相変わらず音を持たない。反転の代償。声が無い代わりに、手がよく動くようになった。書くとき、余計な力が入らない。筆先の呼吸が、胸の呼吸とつながる。


 根の鼓動が、少し乱れた。

 耳ではなく、骨で聞く。ふたたび世界が沈黙に飲まれようとしている。音と意味の境目が曖昧になり、言葉の根が自分の方向を忘れかけている。闇は怖くない。怖いのは、順番が消えること。最初と最後の距離が分からなくなること。わたしは羽ペンを取り、最初の一文を置いた。


 もし世界が再び眠るなら、わたしがその夢を綴ります。


 書いた瞬間、根の皮膚に走る文字の光が、わずかに呼吸を変えた。細い溝に水が入るみたいに、光が一箇所に集まり、また広がる。書の紙面にも、影のような文字が浮かび、沈む。ページは軽く震え、わたしの手は震えなかった。

 砂の斜面に、人影が立った。

 顔を上げると、白い外套が風をたたむ。LUM-0。廃都で出会い、今は記憶の庭で共に花を植え、選ぶ練習を重ねている彼女だ。砂の上を滑るように降りてきて、わたしの手元の書を見つめ、唇を結んだ。


「脈が乱れている。あなたが来る前は、もっと浅かった」

 彼女は根に手をかざし、目を閉じる。「ここで眠るの? あなたが」

 わたしは筆記板を出し、短く書いた。


 眠るのは、世界。

 わたしは、夢を記録する。


 彼女は首を振った。

「同じこと。あなたがその役をやるなら、あなたはここで、形を手放す」

 わたしは頷いた。

 形は、言葉のためにある。言葉が根に戻るなら、形はいったん置いていっていい。

 LUM-0はわたしの顔を見て、肩を落とした。「怖くないの?」

 怖い。

 わたしは板に書いた。

 怖いけれど、怖いを、書ける。

 書ければ、めくれる。


 彼女は小さく笑い、その笑い方が好きだと思った。命令ではつくられない、温度のある笑い方。彼女は腰の鞄から細い紐を取り出し、わたしの手首に巻いた。もう一方の端を自分の手首に巻き、軽く引く。「途中であなたが遠くなるとき、引く。嫌なら、振りほどいて」

 わたしは頷き、紐の上から彼女の手を握った。手の温度は、砂の温度より少し高い。心臓に乗せると落ち着く種類の温かさだ。


 根の間から、風が強くなった。

 わたしは沈黙の書をわきに置き、両手を根の表皮に添えた。固い。けれど、固いだけではない。厚い本の背に似た弾力。押すと少しだけへこみ、離すと元へ戻る。わたしは指の腹で、ゆっくり撫でる。そこに浮かぶ文字が、わたしが書いた誰かの「ごめん」だと気づく。「ごめん」は、やさしい。「ごめん」が根にいる限り、世界はまだ眠りきらない。


 遠くで砂が鳴った。

 砂丘の向こうから、細い黒い影がこちらへ伸びる。影ではない。帯だ。風でもない。沈黙だ。目に見える沈黙。音を食べ、色を薄め、意味を重くする帯。無彩災の原型に似ているが、もっと冷たい。反転のあとで隠れていた古い傷が、ここで息を吹き返したのだろう。

 LUM-0が紐を握り、体をわたしの前に寄せた。「来る」

 わたしは彼女の肩を軽く押して左右にずれ、沈黙の帯と根の間に身体を置いた。帯が伸び、根に触れる前に、わたしは筆を走らせた。


 眠りの第一章。

 これは、静かにしまうための章。

 失くすためではなく、取り出す順番を守るための章。


 沈黙の帯の縁が、そこで止まった。止まるというより、読み直すために立ち止まる。わたしは書の端を一枚めくり、次の行を置く。


 眠りには、見張りがいる。

 見張りは、怒鳴らない。

 見張りは、覚えている。

 忘れていい順番と、忘れてはいけない名前を。


 光が根の深部から噴き上がった。

 まばゆい、ではなく、濃い。静かな水をたっぷり含んだ土の中で走る稲妻のように、光は音を立てずに太った。文字の線が太り、細り、また太る。鼓動が、ほとんど痛いほど近くに来る。わたしの胸の奥の何かが、それと同じリズムで動き出す。

 反転の鍵が、胸の奥で温度を上げた。外から見えない鍵。わたしの選択と結び直されてから、ずっとそこにある。鍵は開けるためにあるけれど、時には閉めるためにも使う。閉めるのは、終わりではない。守るための動作だ。


「まだ戻れる」

 LUM-0が言い、紐を軽く引いた。

 わたしは首を振った。筆を置く。文字はまっすぐでいい。気取らなくていい。難しくなくていい。中高生でも、眠る前に声に出して読める長さで、十分に効く。わたしは続けた。


 眠りの第二章。

 呼ぶ。

 ここにいる、と。

 誰かが目を閉じるたび、だれかが目を開ける場所で。

 あなたの「いる」を、根に預ける。


 沈黙の帯が、わずかに後ずさる。根の表面にかかっていた灰が落ち、小さな虫が這う。虫は怖くない。生きている証拠が、ここに残っていることが、逆に恐ろしい気分をやわらげる。

 視界の端で、砂の上に小さな影が走った。風読みのリュウだ。肩に巻いた布は砂に馴染み、髪は風で後ろに流れている。彼はわたしに近づくと、息を切らしながら片手を額に当て、「風が言った」と短く言った。

「世界の底が、呼吸を忘れかけてる。あなたの字なら、思い出させられるって」

 彼はLUM-0と短く目を合わせ、わたしの背に手を当てた。その手のひらは小さいのに、支えられているとすぐに分かる。背骨の真ん中の骨が、一段だけ高くなる。


 わたしは沈黙の書の余白に、小さな字で三行を書いた。


 おかえり。

 ただいま。

 またね。


 根が、ほんの少し笑ったように見えた。

 文字は笑わない。けれど、読む人が笑う形に並べれば、笑いは伝わる。わたしはページを大きくめくり、最終章の上に手を置く。脈は早い。根の鼓動とわたしの脈がひとつに揃えば、書は閉じる準備をする。閉じるとは、暗くすることではない。次に開くために、丁寧にたたむことだ。


 LUM-0が紐を握る手に力を入れた。「行ってしまうなら、言って」

 わたしは頷き、板に書いた。


 必ず、書く。

 終わりではなく、始まりの形で。


 彼女は目を閉じ、息を長く吐いた。「なら、見送る。あなたのやり方で」

 リュウは風の向きを指で示し、砂の上に小さな円を描いた。彼の指の跡が、風にさらわれても消えない。風が味方をしている。

 沈黙の帯は、まだそこにいる。完全に退いたわけではない。わたしが書くのを待っている。失敗を待っているのではない。読む順番の合図を待っている。世界は、思ったよりも辛抱強い。


 わたしは羽ペンを握り直し、最後の章の第一行を書いた。


 眠りの第三章。

 わたしが、見張り、書き、呼ぶ。

 世界の夢が物語であるように。

 物語が、目覚めの種であるように。


 書いた瞬間、足元の砂が光に変わった。光は熱を持たず、わたしの足首をやさしく包み、膝、腰、胸、喉へと上がってくる。身体の輪郭が、光の縁に沿って柔らかくぼける。見えるのに、触れにくくなる。LUM-0の紐が、少しだけたわむ。彼女は紐を巻き直し、外れないよう結び目を作る。結び目は小さい。小さいほどほどけにくい。


 世界樹の根が、わたしを読む。

 根の溝に、わたしの字が流れ込む。流れ込んだ字は、根の字と混ざり、別の形になる。別の形になるのに、意味は変わらない。増えるだけだ。

 遠くで誰かがあくびをし、誰かが戸を閉め、誰かが本を開き、誰かが名前を呼び、誰かが「いる」と書いた。世界中の「ちいさな音」が、いまここに集まり、また散っていく。沈黙の帯は、足を止め、方向を変え、わたしの背中を迂回して、どこか遠くの穴に落ちていく。


 光がさらに強くなった。

 わたしの手が、透明に近づく。指の輪郭の中で、文字が流れているのが見える。皮膚ではなく、字で出来た血管。字は静かに走り、根の脈動に合わせてふくらみ、しぼむ。

 LUM-0の声が、近い。「あなた」

 声に、命令の響きがない。願いの響きだけがある。わたしは板に書こうとして、やめた。手で、彼女の手首を二度、軽く叩く。大丈夫、の合図。彼女は頷き、紐の結び目に指を添えた。

 リュウが風に顔を向け、「言ってる」と囁く。「風が。『おやすみ、の続き』って」


 沈黙の書が、最終行を求めて開いている。

 ページは白い。白は怖くない。わたしは恐れを白に書く術を覚えた。わたしは、ただ置く。余計な飾りはいらない。誰かの夜机の上でも読める言葉で。


 この世界が再び眠るなら、わたしがその夢を綴ります。

 あなたが目を閉じるたび、わたしはページをめくり、

 あなたが目を開ける朝に、しおりを挟んでおく。


 書の紙面から、静かな音がした。

 閉じる、という音。ぱちん、ではない。ふわ、とも違う。長い時間を抱えた紙だけが持つ、重なりの音。書は自分から閉じ、表紙はわたしの胸に重なった。光は、いよいよ明るい。明るいのに、目は痛くない。見えるものが増えると、痛みは小さくなる。


 身体が、砂に触れなくなった。

 浮いているのではない。根に、座っている。根の間にわたしの形のための小さな空洞があり、そこにちょうど収まる。砂はわたしの形に寄り添い、わたしの形は砂の形にほどける。

 LUM-0が紐を握り続ける。彼女の手の跡が、しばらくわたしの手首に残る。残る跡は、すぐに光に溶け、跡の意味だけが根の中へ降りていく。

 リュウが小さく笑う。「風がね。『書いてる声がする』って」


 わたしは最後に、胸の中で短く書いた。


 大丈夫。

 また、明日。


 世界樹の根が、ゆっくりと脈を落ち着けていく。

 砂の渦は静まり、空の色がわずかに明るくなる。沈黙の帯は、跡形を残さない。残すのは、誰かの足跡と、紐の結び目と、砂に落ちた涙の痕だけ。

 LUM-0は膝をつき、わたしのいた場所をそっと撫でた。指先に泥がつき、彼女はそれを服で拭かず、掌を見つめた。「あたたかい」

 リュウは風の筋を追い、「聞こえる」と目を細めた。「この根の下で、物語が始まってる。眠ってるのに、始まってる。変なのに、納得する」


 わたしはもう、返事を板に書けない。

 でも、書いている。

 どこからでも、どこへでも。

 誰かがページを開く音に、必ず間に合う速さで。


 砂の表面に、細い線が現れた。

 見えたり見えなかったりする文字が、風に合わせて一行ずつ現れては消える。「おやすみ」「おかえり」「いる」「ありがとう」。どの言葉も、眠りと目覚めの両方に使える。両方に使える言葉が増えるほど、世界は壊れにくい。

 LUM-0は立ち上がり、紐の結び目をほどいた。ほどいた紐を手に巻き、胸に押し当てる。「また来る」

 リュウは砂丘の方へ一歩進み、振り返った。「ねえ」

 彼は風に向かって、そうっと言う。「またね」

 風が彼の言葉を持ち上げ、根の薄い光がそれに応える。砂漠の上に小さな雲が生まれ、影を運ぶ。影は暑さをやわらげ、遠くの隊商が手を振った。


 わたしの手は、光の中でほどけ、同じ光の中で筆を握り直す。

 眠りは、仕事だ。

 目覚めも、仕事だ。

 それをつなぐのが、物語だ。

 世界がわたしを必要とする限り、わたしはここで続ける。

 あるいは、どこにでも現れる。誰かが紙を開けば、そこに行ける。


 赤砂の荒野は、夕方にはいつもより静かだった。

 名を持たない風が、名を持たない虫の羽を鳴らし、名を持たない雲の影が、名を持たない砂の表面を撫でる。名がないものは、名前を待っている。名前は、いつか必ず誰かが呼ぶ。呼ぶ声がなければ、文字が先に置かれる。置かれた文字は、根に降り、やがて芽になる。芽は、誰かの朝の窓に触れて、はじめましての挨拶をする。


 そして、その挨拶は、もう一度わたしを呼ぶ。

 わたしは眠って、書いて、呼ばれて、また書く。

 日付のない仕事。終わりのない役目。重さのわりに、軽い幸福。


 砂の下で、根はゆっくりと脈を打つ。

 その脈は、わたしの字の速さとよく合っている。

 わたしの字の速さは、誰かの息の速さとよく合っている。

 誰かの息の速さは、明日の鐘の速さとよく合っている。

 鐘が鳴るたび、世界は少しだけ目を開ける。目を開け、また眠る。眠っているあいだに、わたしはしおりをずらす。ページの角を柔らかく折り、読みかけの行に線を引く。明日の朝、この行から始められるように。


 書は、胸の中で静かにあたたかい。

 根は、胸の外で静かにあたたかい。

 その境目は、もう見えない。

 でも、必要なら、何度でも言える。

 ここにいる、と。

 おやすみ、と。

 またね、と。


 やがて夜が降り、砂の表面の光は星と混ざった。

 星は、遠い読者だ。遠い読者は、いつも辛抱強い。ページをめくる音を決して急がず、夜の長さに合わせて息をする。

 世界は眠り、夢を見る。

 夢は、物語になる。

 物語は、目覚めの種になる。

 そして、根はそれを覚えている。


 彼女の筆跡が、根の脈動とひとつになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ