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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第24話「雨の街と、名前を呼ぶ声」

 雨は、街の輪郭をいったん消してから、別の形で描き直す。

 午前でも午後でもない曖昧な灰色の光が、舗道の石を薄く白ませ、看板の文字を滲ませ、ひとの声をやわらげていく。傘の下で聞く雨の音は、遠いところから運ばれてきた鼓動に似ている。いい雨ではない。冷たく、長い。けれど、この街にはこういう雨が似合う。洗い流すというより、抱え直すための雨だ。


 旅の途中で、私はその雨の中に立ち尽くす少年に出会った。

 背は高くない。濡れて重くなった上着の袖を掴む指が、痩せて白い。髪から滴る水が顎を伝って落ちるたび、彼は瞬きを忘れたまま空を見上げ、世界が自分を置いていった理由を数えているように見えた。見失ったのは、理由ではなく、名前なのだと気づくのは、その一歩あとだった。


 私は彼の隣で足を止め、傘の角度を少し傾けた。

 傘の端からこぼれる雨粒が、彼の肩に落ちないように。彼は驚いたように顔を向け、ほんのわずかに後ずさる。逃げるためではない。距離を測るための動きだ。私は胸元から筆記板を出し、短く書いた。


 君の名前を、一緒に探しましょう。


 雨が紙の表面に薄い膜を作る。文字の縁に水が集まり、輪郭が細く光った。少年は言葉の意味を確かめるように瞬きを三度して、それから口を開く。声は小さく、雨の層にすぐ吸われた。


「……リュミ……エール?」


 私は、意識して呼吸を落ち着けた。

 それは私の名前だった。誰かが遠くから呼ぶときの調子で、躊躇と確信の間を泳ぐような声で。彼の瞳は、私の知っている色をしていた。冬の明け際の河口の水面の色。光が差す前の、やわらかい青。レオが、たまに笑ったあと目を伏せるとき、瞳の中の色が少し薄く見えたことを思い出す。少年の目は、その色を持っていた。


 雨粒が、涙の形で彼の頬を伝う。

 泣いているわけではないのに、泣いている顔になる。我慢の先でなくす涙ではなく、名前の手前でうまれる水分だ。私はもう一度板に書く。


 知っているのは、私の名前?

 君の名前は?


 少年は首を傾げ、顔をしかめ、苦笑するみたいに片方の口角だけを上げた。「分からない。ここに、あった気がするのに」

 彼は胸の前に手を当てた。手のひらが薄く震える。震えが冷えからなのか、不安からなのか、見分けるのは簡単ではない。でも、どちらにせよ、傘の下には入れておくべき震えだった。私は傘の柄を持ち直し、もう少し彼の側へ寄る。彼は逃げなかった。傘の骨がかすかにきしみ、雨の音がその分だけ近くなる。


「どこへ行けばいい?」

 少年が問う。

 私は板に書く。


 名前の痕がありそうな場所へ。


 痕は、まっすぐ歩けば見つかるものではない。曲がり角に落ちていたり、古い窓にこびりついていたり、靴底の減り方に紛れていたりする。真っ先に手がかりを探すのは、ポケットの中だ。少年の上着のポケットには何もない。ズボンのポケットに、金の無い財布の代わりの空気が入っているだけ。見つかったのは、首から下げている小さな金属片だった。雨で鈍い光になった楕円のプレート。表の刻印はほとんど消えているが、裏に細い溝で彫られた二文字が残っていた。


 Eと、O。


 私はプレートを指でなぞり、雨を拭い、読み直す。EとO。

 それは名前ではない。けれど、名前を探す人のランドマークになりうる組み合わせだ。少年は私の顔を覗き込み、「それ、ぼくの?」とたずねる。私は頷き、もういちど板に書く。


 この街に詳しい人に聞こう。雨宿りも、かねて。


 商店街のアーケードは、古い布を繋いだみたいに屋根に継ぎ目が多く、雨漏りの音が一定ではない。明るい漏れ方をする場所と、重たく落ちる場所とがあって、通路の中央に水の細い川ができていた。横切るたび、靴の底が水の筋を少し崩す。

 最初の店は、修理屋だった。扉の上に、針金で作った時計のマーク。窓の向こうに、老人が背中を丸めてルーペを覗いている。私がプレートを掲げると、老人は顔を上げ、目を細め、ゆっくり立ち上がった。

「それ、古い学舎のロッカー番号札だ」

 声は乾いて、遠い。「ここの工房で、昔、作った。Eは『一時避難用の生徒』を指す英字。Oは、番号。ゼロじゃない。オー。最初の組」

 老人は指を拭き、棚からぼろぼろの帳面を取り出した。ページの角は柔らかくなり、紙の糸がほどけ始めている。彼は卓上のランプに灯りを入れ、ゆっくりとページを繰った。

「この街の学術院が、戦のあと、子どもを受け入れた。名をつけないままの。あの時代の記録は、抜けが多い。……あった」

 彼の指はとても慎重だった。古い傷の上を避けるように、行をなぞる。「E-01。監護者、レオ・アークライト」


 私の心臓が、雨の音と同じ速さで打つ。

 レオの名は、私の中では石碑のように動かない言葉だ。濡れることも、汚れることもないように見えて、本当は指で触れれば粉を吹いて落ちる。落ちた粉が土に混ざり、季節の底に沈む。そういう名前だ。

 老人は眉をひそめ、首をひねる。「ただし、名前は空欄だ。ここには仮の番号しかない。レオは、仮のまま預けたんだろう。時間がなかったのかもしれない」


 少年は帳面を覗き込み、指先で空欄をなぞった。「ぼくの、名前」

 なぞる指先は、指紋を探すみたいに震えていた。私は老人に礼をして、帳面とプレートの情報を頭の中の地図に置き直す。

 アーケードを出ると、雨は少し弱まっていた。弱まった雨は、音が細くなり、言葉に近づく。私は板に書く。


 レオは、君を守ろうとした。

 君は、その途中で、名前を置いてきた。

 拾いに行こう。君の歩幅で。


 彼は頷いた。頷き方が、妙に似ていた。いったん目を伏せ、少しだけ遅れて顎を引く。私はその癖を知っている。真似をしようとして身につく癖ではない。長いあいだ隣で同じ方向を見た人の癖が、知らないうちに擦り写ったときの形だ。


 雨脚が再び強くなる前に、もう一つの場所へ向かった。

 街外れの時計塔だ。塔は、反転儀式以前に補修を終えていて、いまはときおり鐘を鳴らす。鳴らす時間は決まっていない。風に聞いてから鳴らすのだという。鐘楼の下には、小さな郵便箱が並んでいた。宛先を失った便りを、あとから受け取りにくるための「濡れない箱」。鍵はかかっておらず、中には古い便箋と、新しい便箋が混ざっている。

 私はそっと手を入れ、濡れていない紙を一枚取り出した。紙の端に、薄い青のスタンプが押してある。箱の番号と、塔の印。それを少年に渡し、板に書く。


 ここに、試しに書こう。

 君が、いま呼べる言葉を。

 無理にひとつに決めなくていい。

 候補は、候補のままでいい。


 少年は紙を胸の前に持ち、ペンを握る。指先にいつもの震えが戻る。空白は、怖い。白は、間違えたときの濁りをよく見せる。私はペン先を彼の手の甲に軽く当て、息を合わせた。吸って、止めて、吐いて。雨の合間に生まれる呼吸と同じ速さで。

 少年は最初の一文字を置いた。

 エ。

 次の文字に迷い、首を傾げ、微笑む。

 レ。

 もう一度、エ。

 そして、音を確かめるように口の中で転がしながら、ゆっくり書く。

 ……ノ。

 最後は、ル。

 エレノル。

 彼は首を振った。「違う」

 私は笑って板に書く。


 違って、いい。

 書き直せる。

 紙は、君の味方。


 彼は二枚目に手を伸ばし、今度は早く書いた。

 レオン。

 書いた文字を見つめ、口を尖らせ、頭を振る。「近い気がする。でも、違う」

 三枚目。

 ノエル。

 彼はその三文字を指でなぞり、指先で軽く押し、声に出す。「ノエル」

 雨が、その音を一瞬だけ持ち上げた。鐘楼の影が揺れ、塔の石が雨に柔らかく見える。遠くで、犬が一度吠える。

 少年は笑った。「これ、呼ばれた気がする。ぼくが誰かに」

 私は頷き、板に書く。


 君が、君を呼んだ。

 いま、ここで。


 彼はうなずき、握ったペンをもう少し強く持った。ノエル。声に馴染み、口の形が決まる。名前は言葉であり、形だ。形が決まると、人は立ち方を知る。立ち方を知ると、歩き方を思い出す。

 そのとき、鐘が鳴った。決まっていないはずの時間に。雨の層を突き抜ける鋭い音ではなく、雨を抱えたまま広がる低い音。鐘の下で、少年は肩をすくめて笑い、私の袖をつまんで引いた。「行こう」


 どこへ、と問う前に、彼の足が先に動く。

 アーケードへ戻り、曲がり角をふたつ、路地をいくつか、雨の溜りを避けるように渡る。私の傘の下に入りきらない雨粒が、彼の髪の先で細かく跳ねる。行きついたのは、小さな公園だった。遊具は壊れ、砂場の縁は欠け、ベンチの塗装は剥げている。だが、一本だけ残った樹木の根元に、古い木箱が埋まっているのが見えた。箱は半分土に埋まり、錆びた金具が雨で黒く光っている。

 少年は膝をつき、泥をかき分け、金具に指をかけた。驚くほど軽く、蓋は開いた。中には、水に強い布に包まれた小さな束。彼は慎重に布をほどき、薄いカードを取り出す。

 カードには、濃い青のインクで、丸い字が並んでいた。


 ノエル。

 誕生日、塔の鐘が鳴った日。

 監護者、レオ・アークライト。

 この名前は、一時のもの。

 いつか自分で決めるまでの、仮の明かり。


 少年の手が止まる。

 瞳の中の青が、少し揺れる。私はカードを受け取り、雨に濡れないように胸元で傾け、文字の縁を目で撫でた。レオの字だ。言いきるときの強さと、誰かに渡すときのやわらかさが同居している。

 ノエルは笑い、唇の端を濡らした雨を舌で拭った。「レオ。知ってるような気がする。夢で何度も、遠くから呼ばれた。ぼくが眠らないように、名前で呼ぶ声」

 私は板に書いた。


 それは、君の最初の灯り。

 いまは、君の灯りに、君が火を足す番。


 彼は頷き、カードを胸に当て、深く息を吸った。雨の匂いは、錆びと土と、誰かが捨てていった石鹸の匂いが混じっている。

「ノエル。ぼくがぼくを呼ぶ名前」

 私が言うより先に、彼が宣言する。声は小さいが、逃げない。彼はカードをもういちど箱に納めかけ、考え直したように引き戻し、代わりに自分の胸ポケットへ入れた。

 木箱の底には、別の紙片も入っていた。折り目の古い薄い紙。私は雨を避けて広げ、文字を追う。

 そこには、短い文がいくつか並んでいた。


 泣いたら、泣いたまま来ていい。

 忘れたら、忘れたまま来ていい。

 怖かったら、怖いまま来ていい。

 ぼくは、名前で呼ぶ。

 君が名を持っていない日々も、名前で呼ぶ。

 いつか君が、自分で自分を呼べるようになるまで。


 レオの文だ。

 私は目を閉じ、紙片の重さを確かめた。軽いのに、右の手のひらが熱くなる。左手の指先は、冷たいままだ。身体の中で、二種類の温度がぶつからずに並ぶ。うまく説明できないが、そのうまく説明できなさが、私には嬉しい。理屈を用意できる前に理解が来る瞬間を、私は信じている。


 雨が少し弱まった。

 公園を出ると、通りの端で屋台のスープが湯気を上げていた。屋台の女主人は眉の太い人で、笑うと目が細くなる。その目で私たちを見て、「帰るところは?」と何気なく聞く。ノエルは少し考えて、「探してる」と答えた。女主人は頷き、スープを二つ、器いっぱいに注いだ。

「名前があるなら、腹は減らないよ」

 彼女はそう言って、器を押し出した。その言い方がこの街の標準なのか、彼女の持ちネタなのか、私には分からない。どちらにしろ、スープは温かかった。塩加減は控えめで、雨の舌に優しい。


 屋台の端のベンチで、彼は指を温めるように器を持ち、少しずつスープを飲んだ。

「さっき、ぼく、あなたの名前を呼んだよね」

 彼は言い、器の湯気の向こうから私を見た。「変だよ。初めて会ったのに、知ってる。ここから、出てきた気がする」

 彼の指が胸を軽く叩く。

 私は板に書く。


 名前は、血より先に、言葉でつながる。

 言葉でつながった家族がいる。

 君がそう思えたら、それは、もう始まっている。


 彼は頷き、照れたようにスープの中の具材を箸で泳がせた。ふと、顔を上げる。「リュミエール」

 呼ばれて、私の胸の奥が少し痛む。痛みは嫌いじゃない。そこに血が通っていると教える痛みだ。「あなたが、ぼくに名前をくれた気がする。ここで、今」

 私は首を振り、同意の意味でうなずいた。否定と肯定が同居する動きは、誤解を生む。でも、今日はそれでいい。

 彼は笑う。「変だ。雨なのに、あったかい」


 夕方が近づく。雨は細くなり、街灯が早めに点く。光が濡れた地面で広がり、足音をやわらかくする。私たちは屋台に礼を言い、アーケードの端の小さな本屋へ寄った。本屋の店主は老眼鏡を額に上げ、「濡れた手で触るな」とまるで祈りのように唱える。ノエルはそれを真面目に守り、本を小さく開き、紙の匂いを吸う。

 店の隅に、古い名付けの本があった。人名の起こりや、意味の短い説明が、色あせたインクで印刷されている。ノエルは「ノエル」の項を見つけ、指でなぞる。雪の季節の生まれ、鐘、夜の祈り。

 彼は笑い、ページを閉じた。「ぼく、鐘の下で生まれたんだ」

 私は頷き、板に書く。


 鐘は、君を呼ぶ音。

 君は、誰かを呼ぶ声。


 外に出ると、空の色は明るくならないのに、心の中の色は抜けなくなっていた。歩きながら、ノエルは小さな声で自分の名前を反芻する。「ノエル、ノエル」 そのたび、顔の筋肉の使い方が整っていく。名前は、表情の土台にもなるのだと、改めて知る。

 通りの角で、小さな女の子が便箋を干していた。紐に挟まれた便箋はまだ乾き切らず、雨の粒をひとつずつ手放している。女の子は私たちを見ると、便箋を一枚差し出した。「新しい人、書いてって」

 ノエルは笑って受け取り、さらさらと書いた。

 ノエル。

 それから少し考えて、もう一行。

 いる。

 女の子は嬉しそうにうなずき、便箋を紐に戻した。「いる、だって。好き」

 彼は照れたように頬を掻いた。「ぼく、いるよって、先に言っときたかった」

 私は板に書いた。


 先に言うのは、勇気。

 勇気は、伝染する。


 夜の手前、雨はほとんど上がった。街路に残った水たまりが、空の白い部分を拾って光る。私はノエルと並んで歩き、耳の奥で、誰かが何かを畳む音を聞いた。今日という日がたたまれ、明日の端に差し込まれる音。彼は空を見上げ、もう一度笑う。

 笑った顔は、幼くもあり、遠い人に似てもいた。似ているというのは、血の話ではない。歩き方、言葉の置き方、息の仕方の奥で、同じ灯りを持っている感じのことだ。私は胸に少し痛みを抱え、同時に温かさを抱えた。温かい痛み。意味を後回しにする種類の、まっすぐな感覚。


 アーケードの終わりで立ち止まり、私は最後に板に書いた。


 明日も、探そう。

 君の名前の続き。

 名前は一度決めても、育つ。

 育ったら、また呼び直せばいい。

 何度でも。


 彼は頷き、空を見上げた。雨雲の切れ目の白が狭く、そこに小さな星がひとつ、まだ出ていないことを知っているみたいに瞬かない。

「リュミエール」

 彼が私を呼ぶ。

 私は彼を見る。

 彼が笑った。

 その笑顔に合わせて、私の胸の鼓動がひとつ強くなり、足元の水たまりが小さく震え、遠くの塔の鐘が遅れて一打ち、街の犬が一度吠え、女の子の干した便箋がかすかに鳴り、世界のいくつかの場所で同時に灯りが点くのを、私は確かに感じた。

 彼が笑った瞬間、世界はもう一度、彼女を呼んだ。

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