第23話 終焉の書と、最後の依頼
朝の光は、紙の裏側から差すときにいちばんやさしい。
旧王都の丘で一晩を明かし、記憶の庭の小屋の窓辺に机を寄せる。花壇の白い花は、まだ眠そうに首を傾けている。風は弱く、土の匂いが浅い。私は湯気の立たない茶を一口含み、筆入れの蓋を開けた。
そのとき、扉が小さく叩かれた。
扉を開けると、郵便士の青年カイルが立っていた。色あせた制服、擦れた鞄、よく磨かれた靴。彼は私を見ると、姿勢を正し、胸の前で鞄を抱え直した。
「朝一番の配達です。差出人不明。あなたに、とのこと」
差し出された封筒は、薄く、軽い。紙の端に、古い水しみの跡。封蝋はない。糊の匂いも、ほとんど残っていない。文字の一片も表には見えないのに、私の指先は、もう宛名を知っているふうに震えた。
机に戻り、窓の光に封を透かす。
中に折り目がひとつ。ゆっくりと封を切る。紙が鳴る音は、いつだって呼吸の形をしている。私は紙を引き出し、折りを開いた。
最初の行に、墨の淡い線でこう記されていた。
未来のあなたへ。
その筆跡は、見間違えようがなかった。
私の字だ。筆圧の浅いところ、語尾を細く抜く癖、点をほんの少しだけ右にずらす調子。何度も誰かのために書いてきた手は、知らないうちに自分の癖を忘れる。けれど、紙は忘れない。紙は、書いた人と書かれた言葉の両方を覚えている。
私は深く息を吸い、続きを読んだ。
この手紙は、いまのあなたがまだ知らない時のためにある。
世界がもう一度、沈黙の縁に立つとき、これを読む誰かが、あなたへ依頼する。
そのとき、あなたはここへ来る。言の塔の階段を数え、七度目の踊り場で北の窓を開け、反転の鍵を胸に置き、まだ生まれていない宛名へ宛てて、最初の一文を書いてほしい。
あなたは過去と未来の間にいる。
いまも、これからも。
そこまでで、文字は途切れていた。
余白が広く、白が深い。私は余白を読み、手を置いた。紙は微かに温かい。窓からの光は変わらず、外の花は揺れているのに、室内の空気が少し重くなる。
カイルが戸口で息を潜めていた。私は顔を上げ、礼をした。彼は小さく顎を引き、「まだ続きがあるはずだ」と囁いた。
「差出人不明の封筒は、これ一通じゃない。王都北の村に、同じ封が昨夜届いた。誰も出していないのに、誰かの机に置いてあった、と」
彼は肩をすくめ、笑い、けれど笑いきらない顔で言い足した。「こういうことは、昔は『不思議』で片づけられた。でも今は、宛先を探すのがぼくらの仕事だよな」
私は胸に手を当て、頷いた。
過去と未来の間にいる、という言い方は、便利すぎて危ない。けれど、いま、この紙の上では、便利ではなく正確に感じられた。私は沈黙の書の背を指で叩き、音を確かめる。あの書は、記録を吸い、和らげ、渡す。なら、どこかに「終焉の章」があってもおかしくはない。
カイルは踵を返し、丘を下った。私は封筒と紙を重ね、革の鞄にしまった。筆入れを閉じ、外套を取る。扉を閉める前に、振り返って花壇を見る。花弁に、薄い字が浮かんでいた。
また、あした。
私はそれを目で読み、扉を引いた。
王都へ向かう道は、思ったよりも静かだった。
途中の市場では、朝の声が交差し、誰かが「早いね」と笑い、誰かが「遅いね」と返す。川の橋は一度に渡れる人数が決まっていて、順番を待つ列に、怒鳴り声はない。怒鳴り声がなくても、急ぐ気持ちは消えない。消えない代わりに、足取りの幅が揃う。
城門に着く頃には、空は薄く曇り、塔の影が短く揺れていた。私は身分票を見せ、門番に軽く会釈し、石段を登った。足音が規則的に重なる。階段の手すりには、最近付けられた布の巻きがある。冬の名残で冷えた鉄に、手の熱を奪われないように。
言の塔の入口で、王女エリセリアが待っていた。
薄い青の上衣、胸元に一輪の白い花。彼女の笑顔は、昔より下手になっている。下手な笑顔は、誰かに届きやすい。
「知らせを受けて、来てしまった」
彼女は私の手元の封筒を見ると、目を細めた。「差出人は、分かった?」
私は首を振り、紙を見せる。彼女は目だけで読み、唇の内側で一度言い直し、「未来のあなたへ」を二度目に読んだとき、息を小さく止めた。
「筆跡は、あなた」
頷くと、彼女はそっと封筒を返した。「塔へ行こう。ゼフィロスも呼んである。彼は読んで、泣いて、笑って、それから黙った。黙るのが、彼の賛成の合図になっているの、知ってる?」
私は笑い、彼女の隣に並んだ。階段の石は磨かれ、踊り場の窓は、風の向きを教えるためだけに開いている。数えながら登る。いち、に、さん。私の足は塔の歩幅を覚えている。四、五、六。
七度目の踊り場で北の窓を開ける。外気が一気に流れ込み、髪の束を少しだけ揺らす。私は胸元に両手を置き、反転の鍵を感じた。鍵は目に見えない。けれど、そこにある。世界の言葉の波形を、壊さずに変える器具。私が自分の中に持ち、そして失くさなかったもの。
最上部の円室で、ゼフィロスは待っていた。
彼は塔の石壁に背を預け、沈黙の書の分冊を膝に置いている。目の下には薄い影。けれど、目の奥の硬さはほどけている。
「読んだ。理解した。だから、怖い」
彼は短く言い、私の封筒に顎で合図した。「時間に向かって橋を架けるのは、川に向かって架けるより、難しい。川は流れが見える。時間は流れが見えない。見えないものに橋を架けるとき、人は自分の足音を信じなければならない」
私は筆記板を取り、短く書いた。
足音は、紙が覚えてくれる。
彼は目を伏せ、笑い、首を振り、「君は紙を過大評価する」と呟いた。「だが、紙はたしかに、人間を過大評価する」
塔の中央に置かれた机は、反転儀式のときと同じ木だ。ペン皿の傷も、端の欠けも、そのまま残っている。私は封筒と紙を机に置き、椅子に腰を下ろした。エリセリアは窓際に立ち、外の風を読む。ゼフィロスは机の向かいに椅子を引き、腰を掛け、両手を組んだ。
「未来の依頼、という言い方は、論理の外にある。だが、論理が届かないところで、世界はよく整う。……君の仕事場だ」
私は軽く頷き、紙を胸に押し当てた。脈が、紙の目を通る。紙の繊維が、一瞬だけ伸び、また戻る。私は羽ペンを取る。インクは薄い青。塔の最上部の光が、ペン先に薄い影を作る。
そのとき、塔の階段から足音が駆け上がってきた。
扉が開き、少年が息を切らして立った。風読みのリュウ。背が伸び、額の髪が目に掛かる。彼は私を見ると、笑顔の手前で息を整えた。
「ごめん、遅れた。庭から風の知らせが来て、塔に向かうって」
彼は窓に駆け寄り、外の空を見上げる。「町の南で、言葉が逆流してる。『おはよう』に『おはよう』が重なって、だんだん声が擦れていく。返事が返事を食べる感じ。誰かが『やめて』って言っても、その『やめて』がまた戻ってくる」
エリセリアが目を細めた。「結界の名残ではなく?」
リュウは首を振る。「違う。風が言ってる。これは、時間の皺だって。昔の言い方を、未来の口が呼び戻してる。多分、この手紙と同じ筋」
ゼフィロスが立ち上がり、机の角に手を置いた。「ならば、いま書くべきだ。君の一文が、逆流の向きを変える」
彼は私を見た。「宛名は、まだ存在しない。だが、存在しないものに宛てた手紙ほど、強い文はない。存在させてしまうからだ」
私は頷き、紙を机に置いた。
胸の反転の鍵が、熱を持つ。熱は痛くない。痛みは、身を守るための合図だ。合図が必要ないとき、熱はただの温度になる。私はペン先にインクを含ませ、最初の線を引いた。
この線は、未来へ伸びる。
けれど、いま、ここに書く。
私は静かに、第一文を置いた。
これを読むあなたへ。
筆先が紙を離れる間、塔の外の音が一度消え、すぐに戻る。窓の影が机の隅をよぎり、エリセリアの衣の端が揺れる。リュウの指が窓枠をなぞり、ゼフィロスの喉が小さく鳴る。
私は続けた。
あなたの町で、言葉が重なり、削れ、戻っているなら、あわてて口を閉じなくていい。
口を閉じる代わりに、紙を開いてほしい。
声は空気に戻り、紙は時間に渡る。
紙の上で、あなたの声は、あなたの順番を守る。
私は一文ずつ、呼吸のように書いた。
読む誰かの胸が、いまの私の胸と同じ速さで打つように。
まだ生まれていない宛名へ、しかし必ず現れる読者へ。
どこかの町の南で、返事が返事を食べるのなら、返事の骨を紙に置けばいい。骨は、時間を渡っても折れにくい。
あなたがひとりで書けないなら、紐を張って、便箋を風に渡してほしい。
あなたの「また明日」が、別の誰かの「ただいま」に変わる日まで、紙を乾かし続けてほしい。
書いているあいだ、塔の床が微かに震えた。
下の階の窓から、逆流の声がここまで上がってきたのだろう。言葉の端が擦れて、同じ音が二度鳴る。私はペン先を一瞬止め、窓の外に目をやる。雲の層が薄く裂け、光の筋が一本、斜めに塔の壁を滑る。
エリセリアが窓辺で息を吸い、声を整えた。「町の人々に、塔からの放送を出すわ」
彼女は短く言葉を選び、放送の装置に手を添えた。私は頷き、紙に戻る。
あなたがこの手紙を読むのは、たぶん夕方だ。
仕事が終わり、靴紐をほどく前。
台所の灯りを点ける前。
誰かの名を呼ぶ前。
その一分前に、この一枚を読んでほしい。
そして、こう書いてほしい。
ありがとう。
ごめん。
いる。
いくつかの短い言葉を並べただけで、時間は前へ動く。
短い言葉は、順番を作る。
順番があると、重なりは薄くなる。
リュウが窓から身を乗り出し、顔をこちらへ向ける。「風の向きが変わった。塔の上から下へ、ちゃんと流れてる」
ゼフィロスは机の端を軽く叩いた。「続けろ。導入は整った」
私は頷き、最後の段へ向けて、筆を走らせた。
もし、あなたがそれでも怖いなら、怖いと書いていい。
怖い、と書けば、怖さは空気ではなく、紙の厚みに変わる。
厚みは、めくれる。
めくれた先に、次の行がある。
あなたは過去と未来の間にいる。
いまも、これからも。
だから、あなたが書くこの一行を、私は受け取り、未来へ渡す。
あなたはひとりではない。
紙は、必ず誰かの手に渡る。
最後の一文を置く前に、私は封筒の端をそっと触れた。紙の縁が、ぬるい光を持つ。塔の石に、低い音が通う。
エリセリアが装置のつまみを回し、街へ向けて短いアナウンスを流す。「いまから、紙を開いてください。声を、紙に移しましょう」
街のざわめきが、ゆっくりと紙の擦れる音に変わっていく。小さな音が集まり、雨の前の落ち着きみたいな調子になる。
私は最終行を書いた。
未来の読者へ――わたしの物語を託します。
書いた瞬間、塔の床の震えが止んだ。
窓の外で風が反転し、南の空の雲がほどける。通りの角で、重なっていた挨拶がほどけ、ひとつずつ順番に並び直る。子どもの笑いが笑いとして立ち上がり、犬の吠えが吠えのまま遠ざかる。
ゼフィロスはゆっくり息を吐き、椅子に背を預けた。「間に合った」
エリセリアは窓から身を引き、目の端を指で押さえた。「町の声が、戻ってきた。重なった声は合唱じゃない。重なってしまった声がほどける音は、ちょっと泣きたくなる」
リュウは笑い、窓枠を軽く叩いた。「風は、あなたの字の匂いがすると言ってる。よく分からないけど、そう言ってる」
私は紙を乾かし、封筒に戻した。封はしない。これを誰が、いつ、どこで読むのか、それは私の手の外にある。外にあるから、届くのだ。
塔を降りる前に、七度目の踊り場の北の窓をもう一度開けた。外の風はやわらかく、塔の内側の石は、昼の温度を少しだけ保っている。
階段を降り、扉を押し、広場に出る。人々が紙を手に持ち、誰かに見せ、誰かに渡している。紙に書かれた短い言葉が、顔の筋肉の動かし方を変える。
ありがとう。
いる。
また明日。
時間が前へ進む。前へ進むのに、誰も急がない。急がないのに、遅れない。これが、いまの世界の歩き方だ。
王女は広場の端で手を振り、ゼフィロスは人混みの中で立ち止まり、誰かの紙に目を落とし、うなずく。リュウは風の筋を指で探り、次の町の方向を示す。
私は封筒を胸に抱き、記憶の庭へ戻る道を選んだ。丘の上の花は、夕方には字が濃くなる。濃くなる字を読むのは、今日の最後の仕事にふさわしい。
道の途中、川の橋で小さな女の子に呼び止められた。彼女は便箋を抱え、息を詰め、私に紙を差し出した。
「これ、読んでもらえますか」
紙には、短い言葉が並んでいた。
ごめん。
ありがとう。
すき。
いる。
私はひとつずつ指でなぞり、彼女の頬の高さで頷いた。
「これ、いつ誰が読むの?」
彼女は首を傾げ、「まだ分かりません」と笑った。「でも、読む人がいないとしても、紙が先に覚えてくれます」
私は笑い、紙を彼女に返した。紙は軽いが、彼女の両手はしっかりと重さを受け止めた。
丘に着くと、花は夕方の色で揺れていた。
花弁に浮かぶ字は、昼よりはっきりしている。
ただいま。
おかえり。
おそくなって、ごめん。
私は花壇の端に座り、封筒から紙を取り出し、読み返した。筆跡は変わらない。未来のあなたへ。
私は手帳を開き、今日の記録を書き始めた。
塔で書いた一文。
町でほどけた声。
少女の便箋。
ゼフィロスのうなずき。
エリセリアの涙の寸前の笑顔。
リュウの指先の風。
そして、封筒の白。
白は怖くない。白は、まだ書ける、という合図だ。
夜の最初の星が、丘の上に現れる。
私は手帳を閉じ、封筒を胸に抱え、目を閉じた。
未来の読者へ――
どこかで、誰かが、まだ生まれていない宛名を呼ぶ。
その声が渡ってきたとき、私はまた、机に向かう。
過去と未来の間で、いまを書き、ここで渡す。
それが、私の仕事だ。
それが、私の生き方だ。
それが、私が受けた最後の依頼で、そして、いつまでも終わらない依頼だ。
私は胸の中で、もう一度だけ、今日の最後の一行を置いた。
未来の読者へ――わたしの物語を託します。




