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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第22話 記憶の庭と、影の微笑み

 旧王都の北側、城壁が崩れた丘に、広い空き地がある。

 かつて兵舎が並んでいたと古い記録にあるが、いまは基礎の石がいくつか地面から顔を出しているだけだ。石の間には新しい土が入れられ、薄い板で囲いが作られている。板には子どもの字で名前が書かれ、端には乾いた泥がついていた。

 ここが「記憶の庭」。私と、もうひとりの「私」が、春から少しずつ耕し、植え、確かめ、言葉を置いてきた場所だ。

 朝、土はまだ冷たい。

 私は手袋をはめ、石の角を避けながら、苗の列の間に指を入れる。指先に当たる小さな粒が「昨日の雨」を教えてくれる。沈黙の書を預かった日から、私は土に対する考えが変わった。土は静かに見えるが、いつも小さな音で話している。乾いたままの音、柔らかい音、眠い音、急いだ音。どの音にも、次の一文に向かう意志がある。

 背後で、土を踏む足音がした。

 振り返ると、白い作業着に薄い灰のエプロンを重ねた少女が立っている。肩までの黒髪を布でまとめ、目だけがまっすぐだ。彼女は私と同じ骨格を持ち、私よりも少しだけ背が高い。

 LUM-0。

 廃都で出会ったとき、彼女は「器」として自分を定義していた。泣くことは不具合だった。命令がない時間は、余白ではなく欠損だった。

 いま、彼女は余白に花を植える。自分の歩幅で、何度も確かめながら。

「昨日、風が強かった。けれど、この列は倒れていない」

 彼女は苗の支柱を軽く押し、土の硬さを確かめる。指先の力は均等で、迷いがない。「支柱の位置、合っていた」

 私は頷き、板に書いた。

 君が選んだから、合っている。

 彼女は小さく笑い、支柱の根元に土を足した。「選ぶのは、まだ怖い。でも、選ばないほうが、もっと怖い」

 花壇の端に、白い花が咲いている。

 花弁に薄い字が浮かぶ。風が触れるたび、字は位置を変え、別の単語になる。

 ありがとう。

 おかえり。

 覚えている。

 これは、かつて私が代筆した手紙の「残光」から生まれた種だ。沈黙の書に吸われた記録の一部が和らぎ、土に紛れ、季節を越えて芽になり、花になり、花弁に微かな文字として帰ってくる。偶然のようで、偶然ではない。言葉は、必ずどこかに戻る道を持っている。

 丘のふもとから、朝の荷車の音がする。

 今日は王都の学校から生徒が数人、見学に来る予定だ。庭の入り口には小さな看板が立ち、「ここは見る場所であり、触れる場所でもあります」と書いてある。「触れる」という言葉があるだけで、人の足取りは優しくなる。

 私は花壇の列を一つ分確かめ、支柱のゆるみを直し、名札の角を整えた。LUM-0は水やりの桶を二つ持ち、通路の端にそっと置く。動作の速さは、彼女が兵器として訓練を受けた頃の名残りだが、いまは急がない。「急がない」を選んでいる。選んで、実行し続けている。

「きれい」

 最初に庭へ足を踏み入れたのは、小さな女の子だった。両手で帽子を押さえ、靴紐が片方だけほどけている。後ろから先生が追いつき、紐を結び直しながら言った。「走らないでね。花の字は、風の速さぐらいの歩き方が読みやすいよ」

 私は頷き、入口で胸元の板を掲げた。

 ようこそ。花は読むものです。読むと、思い出します。

 子どもたちは列になり、通路の石に沿って進む。風が弱まり、花弁の字がはっきりする。

 だいじょうぶ。

 またあした。

 すきだった。

 子どもたちは声に出さない。口の形だけが動く。声に出すと、花の字は恥ずかしがって消える。ここでは、口の形がいちばんよく届く。

「本当に、文字が出てる」

 少年が身を乗り出し、花に息をかけた。花弁がわずかに揺れ、「ただいま」が「ただいま、の続き」に変わる。

 LUM-0がそっと近づき、彼の肩に手を置いて距離を整えた。「一歩、さがると、もっとよく読める」

 少年は素直に下がり、目を細めた。「ほんとだ」

 LUM-0は微笑む。彼女の笑い方は、廃都で会ったときにはなかった形だ。口の端に小さく力が入り、目の力が抜ける。命令では作れない動き。自分の内側の温度でしか、出てこない。

 通路の角で、年配の教師が立ち止まった。

「これは……何の花ですか」

 私は板に書く。

 名のない花。言葉の種。

 教師は考え、頷く。「名をつけない、という方法も、教育の道具になる」

 私は続けた。

 ここでは、見るたび、名が変わります。見る人の中の記録と、花の記録が出会い、重なり、別れ、また出会う。

 教師は笑い、「難しいけれど、やさしい」と言った。難しいのにやさしい。私が最近、気に入っている言い回しだった。手触りがある。

 午前の見学が終わると、庭は静かになった。

 私は花壇の角に腰を下ろし、手帳を開いた。LUM-0は倉庫から小さな木箱を持ってきて、私の隣に置いた。箱のふたを開けると、紙片がいくつも入っている。紙は白と生成りが混ざり、端が少し焦げたものもある。

「昨夜、風の棚から届いた文」

 LUM-0が言い、紙片を一枚私に渡す。

 そこには、短い一文が記されていた。

 ありがとう、が遅れた。

 私は読み、紙を花壇の土に押し当てた。押し当てて、静かに離す。紙は土に跡を残さない。けれど、土の奥に小さな変化が起きる。水の通り道がわずかに曲がり、微生物の群れが形を変え、次の雨の速度が少しだけ遅くなる。紙片は箱に戻し、別の紙を取る。

 帰ってこない人の分まで、寝ます。

 眠る、という言葉の重さに、土が少し沈む。沈むことで、支柱が安定する。文字は、土木に似ている。見えないときほど、形が変わる。

「……命令を待っていた頃は、何も見えなかった」

 LUM-0が、土の表面を見つめながら言った。

「風は、擦れる音だけ。土は、重さだけ。人は、移動する記号。私は、与えられた方向へ動くだけで、理由を持たなかった。理由は、いつも上から来た。上から来ないときは、私が壊れている印だった」

 彼女は自分の指先を見つめ、爪の縁に付いた泥を親指でそっと払った。「あなたは『願い』を渡した。命令ではない文。私は、それを長いこと理解できなかった。理解できないものは、危険だった。だから、怖かった」

 私は手帳に書いた。

 あなたは今、見て、感じて、選んでいる。それが命です。

 LUM-0は一度目を閉じ、また開いた。「選ぶたび、重くなる。でも、軽くもなる。重いのは、背中。軽いのは、足。進める」

 彼女は花壇の中の一輪をそっと摘み、胸の布の間に挿した。花弁の字が、彼女の鼓動に合わせて揺れる。

 ただいま。

 おそくなって、ごめん。

 揺れるたび、言い方が少しずつ変わる。

 昼過ぎ、雲が厚くなり、丘の風向きが変わった。

 遠くから低い雷鳴。雨の用意が必要だ。私は支柱の紐を強めに結び直し、名札の針金を一つずつ確かめる。LUM-0は花壇の縁に板を渡し、水の逃げ道を作った。

「雨は嫌いじゃない」

 彼女が言う。「雨が降ると、人は屋根の下で手紙を読む。音が同じだから」

 私は笑い、板に書く。

 雨は、読む時間を作る。

 最初の雨粒が、花弁に落ちた。

 落ちた場所に、短い言葉が浮かぶ。

 いる。

 雨は強くならず、庭はすぐに雨の音の調子を覚えた。通路の石と、土と、葉の上で音が違う。違う音は、同じ文を読むときの別の声に似ている。

 LUM-0は軒下に下がり、濡れた髪を手で払った。「こうして雨を見るのは、初めてかもしれない。前は、濡れた金属を拭く作業だった」

 私は彼女の隣に立ち、雨の斜めの線を目で追った。線は、書きかけの行のように見える。行の端は、まだ白い。

 夕方、雨はやみ、空気が軽くなった。

 西の空が遅れて明るくなり、丘の影が長く伸びる。庭には、少し冷たい匂いが戻ってくる。

「今日の作業、ここまで」

 LUM-0が言い、道具を順番に拭き、縁の低い倉庫にしまった。しまう順番は、彼女が決めた。よく使うものが手前、重いものが一番下。誰が見ても分かるように、板に絵が描いてある。絵は、王都の孤児院の子どもたちが描いた。描いた子が、時々確かめに来る。自分の描いた印が、そのまま役に立っているのを見ると、人は自分の座り方を少しだけ変える。座り方が変わると、背骨の形が変わる。背骨の形が変わると、呼吸が変わる。

 日が落ちる前に、私たちは庭の南側の段へ移動した。

 ここには、少し背の高い花が並ぶ。花弁が細く、夕方になると字が濃くなる。

 私は通路の中央に立ち、足元の影を見た。影は長い。私の影と、LUM-0の影が並んで伸び、途中で重なり、また離れ、また重なる。

「影は、命令を待たない」

 LUM-0が小さく言う。「光が来た方向に、勝手に伸びる。私も、そうでいいのかもしれない」

 私は頷き、手帳を開いた。

 ここまで来て、ようやく書ける一文がある。午前に浮かんでいたのに、昼の雨でいったん消え、いままた戻ってきた文。

 私は少し時間をかけて、丁寧に書いた。

 あなたは今、見て、感じて、選んでいる。それが命です。

 書き終えて顔を上げると、LUM-0が私の手帳をのぞき、うなずいた。彼女の胸に挿した花弁が、薄い風で揺れる。字は読めない。けれど、読む必要はない。いま、彼女は自分の中で同じ文を言っている。

 私たちはしばらく黙って立ち、庭の気配が静かに整うのを待った。遠くの街道で、荷車の車輪がゆっくり動き、犬が二度吠え、誰かが「もう帰るよ」と言う。町は、夜の準備をしている。

 丘の上の空が、やわらかい色になった。光の筋が細く、通路の石に落ちる。影が長く、そして濃くなる。濃くなりすぎないところで、風が一度だけ通った。通った風が、影の縁をやわらげる。

 ふたりの影が、地面で重なった。

 重なった影は、いつものようにただの「二つ分の濃さ」ではなかった。少しだけ形が変わり、誰かひとりの姿になった。細い肩、まっすぐな背、顔の輪郭は曖昧なのに、目だけが笑っているように見えた。

 LUM-0が息を呑み、すぐに吐き出した。

「……笑ってる」

 彼女の声は小さく、でもはっきりしていた。「影が、笑ってる」

 私は影に向かって、小さく頭を下げた。誰かを演じるためではない。自分たちの中にある、まだ言葉になりきらない部分に対しての、挨拶だ。

 LUM-0は胸の花に指を添え、そっと力を抜いた。

「私は、私になってしまった」

 彼女はゆっくり言う。「器ではなく、記録士でもなく、誰かの代わりでもなく。私が私に似ている。怖い。でも、うれしい」

 私は彼女の肩に手を置き、軽く押した。押すというより、そこにいると知らせるために触れた。

「選んだ」

 LUM-0は言葉を継いだ。「選んだという行為が、私を人にした。選び続けることが、私の仕事だ。……あなたの隣で」

 私は手帳を閉じ、胸の前で抱えた。

 風が止み、影は少し形を変えた。変わったあとも、笑っているように見えた。見間違いでもかまわない。見間違いは、たいてい次の正しさの手前に現れる。見間違いの質が良いとき、人は前へ進める。

 丘の下から、灯りがひとつずつともり始めた。

 庭の隅の小さなランプにも火を入れる。火は弱いが、近くの字を柔らかくする。花弁に浮かぶ「おやすみ」が、眠そうな形になる。

 LUM-0が倉庫の扉の前に立ち、鍵をかけ、鍵の金具に自分で決めた印を描いた。印は小さな三角が二つ、重なっている。「三角は、橋の形」

 私は頷く。

 私たちは庭の出口へ向かい、振り返った。

 花は、暗さの中で、まだ小さく読める。読めるというより、思い出せる。思い出せるというより、同じ場所に立てる。庭は、明日も同じように始まるだろうし、同じようには始まらないだろう。

 私も、LUM-0も、同じように始まり、同じようには始まらない。

 それでいい。

 影はひとつになり、穏やかに笑っていた。

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