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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第21話 黎明の街と言葉の芽吹き

 夜の最後の色が、屋根の縁をゆっくり離れていく。

 夜明け前の風はまだ冷たいのに、洗い場の桶の水は昨日より澄んで見えた。反転の朝から数えて、もう何十回目かの朝。色は日に日に濃くなり、音は少しずつ重さを取り戻している。この町に着いたのは昨夜の遅く、門番は眠そうにしながら、書かれた身分票を二度見して、椅子から立ち上がった。

「代筆屋か。今は、字を習いたい子が多いんだ。行くなら、孤児院がいい」

 指さされた通りに、石畳を三つ折れ曲がる。パン屋の裏手を抜けると、煉瓦の建物が現れた。壁はところどころ崩れていて、窓枠は新しい。修理の手が入っている証拠だ。門の横に立てかけられた黒板には、子どもの字で今日の予定が並んでいる。朝は畑、昼は読み書き、夕方は歌。歌、という文字の横に、消えかけた笑顔の絵が添えてある。

 扉を叩くと、すぐに返事があった。

 出てきたのは、小柄な女性だ。年齢を当てるのが難しい顔。笑うと若く、黙ると年を重ねて見える。「ようこそ。旅の方?」

 私は頷き、喉に触れて、胸元の筆記板を持ち上げた。女性は一拍置いてうなずき、どこか安心したように目を細める。「話せないのね。なら、書いて。ここは字の家だから」

 名を記し、訪れた理由を短く書く。旅の途中で、文字を教える場所があると聞いた。もし手伝えるなら、手伝いたい。

 女性は板を読み、軽く手を叩いた。「今日の先生、決まり。子どもたち、喜ぶわ。わたしはメリナ。ここの世話役。あなたは……」

 私は板にもう一度、名を記した。

 メリナは何度も、声に出さずにその名を読んだようだった。唇の動きが、確かめるようにゆっくりだ。「リュミエール。きれいな名前。光の音。うらやましい」

 食堂は暖かかった。小さな手の数だけ椅子が並び、机の上には紙と短いペンが置かれている。窓辺には乾きかけの花。壁には「ただいま」「おかえり」「いただきます」などの大きな文字。言葉の横に、子どもたちが描いた絵が貼られていた。

「今日の学びはね、挨拶の続きを練習するの」

 メリナが机の端に腰を載せ、手振りで合図をした。子どもたちがばらばらの足音で集まる。年齢はさまざま。五歳ぐらいから、十を少し越えたくらいまで。丸い目、欠けた歯、擦りむいた膝、乾ききらない髪。反転の前、言葉の最後が止まる病がこの町にも残っていた、とメリナは言う。「ね、『おはよう』の後に何て言うか、前は思い出せなかったの。いまは、だいぶ戻ったけど、続きを紙にする練習はまだ役に立つ」

 私は頷き、黒板の前に立った。

 チョークを持つ。白粉の粉が指に移る。私は板に大きく一文字書いた。

 ありがとう。

 机の列から小さく息を飲む音がいくつも重なる。私は振り返り、胸元の板に短く書いて子どもたちに見せた。

 ありがとうって、どんな魔法だと思う?

 沈黙が、一瞬でざわめきに変わる。

「甘いパンが増える魔法」

「怒ってるのがちょっと消える魔法」

「猫が寄ってくる」

「違うよ。なくしたビー玉が返ってくる」

 笑いがこぼれ、隣に連鎖する。額をしかめる子は一人、机の上でペンを立てた。彼は笑わない。胸の前で指を組み、机の角の欠けた部分だけをじっと見ている。指の節に小さな瘡蓋。硬い目の内側に、固まった何かがある。

 手を挙げたのは、小さな女の子だった。髪を片側で結び、結び目のリボンがほどけかけている。

「先生」

 声は薄いが、よく通る。「ありがとうって……どういう魔法?」

 教室の空気が、静かに揃う。風鈴の前で誰も動かないときみたいに。私は頷き、黒板の横の小さな机に腰を下ろした。筆記板にゆっくりと書く。子どもたちが覗き込む。メリナが息を止める。

 相手の存在を光らせる魔法。

 読める子が先に声に出し、読めない子が口の形で真似をする。「あいてのそんざいを、ひからせるまほう」

 私は次の行に、小さな絵を描いた。輪郭だけの人の形。その胸のあたりに、小さく丸を描く。そこから放射の線を何本か伸ばす。

 ありがとう、と言われると、その丸が少し明るくなる。

 私が指で丸を叩くと、チョークの粉がわずかに舞った。

 少女は両手でノートを持ち、真似をして書き写した。字は丸い。線はところどころ曲がっている。彼女は自分の描いた胸の丸の横に、小さな花の絵を添えた。花びらが五枚。真ん中に点がひとつ。

 そのときだ。ノートの紙の上で、花の点が、ほんの少しだけ光を持った。光と呼ぶには弱い。けれど確かに、紙の目が開き、点が呼吸をした。

 子どもたちが声を揃えた。「今、光った!」

 メリナが口元を押さえる。「見間違いじゃないわよね?」

 私は少女のノートに指を近づけ、息をゆっくり吐きかけた。インクの匂い。紙の乾いた匂い。光はもう見えないが、紙の温度が落ちない。少女がうつむいて笑い、頬の粉が机に落ちた。

「先生、もう一回書く。ありがとう」

 彼女が書くたび、花の点は小さく明るくなり、すぐに静まった。いつまでも光りっぱなしではない。けれど、書くたびに、紙の手触りは少しずつ柔らかくなっていく。指に伝わるざらつきが減る。それは、反転の朝以降、何度も見たことのある変化だった。言葉が渡るとき、場所の手触りが変わる。

 教室の一角で動かない少年に、私は目で合図を送った。

 小さく顎を上げ、彼の机の前に立つ。彼は目を逸らす。私は筆記板に短く書いた。

 君の番。

 彼は首を振った。

「……ぼくは、書かない」

 声は硬い。背骨で出した声だ。「ありがとうなんて言っても、何も戻ってこないし」

 メリナが口を開きかけ、しかし言葉を飲み込む。子どもたちも静かになった。黙ると、外の音が入ってくる。遠くの市場の呼び声。井戸の滑車が鳴る音。馬のいななき。

 私は板に書き足す。

 戻らないものもある。

 でも、戻らない日にも、光ることはある。

 少年は笑った。笑いと言うより、鼻で短く息を吐いた。「先生は、何でも知ってるよね」

 彼は机の上のペンを握り直し、先で机の欠けた角を突いた。「ぼくの父さん、戦でいなくなった。母さんは、祈りの人だったけど、祈りがなくなってから黙って、そのまま死んだ。戻ってこなかった。ありがとうなんて言ったって、意味ない」

 メリナが立ち上がりかけ、私は手で制した。私は彼の机に自分の記録帳を開き、羽ペンで一行だけ書いた。

 いなくなった人のための、ありがとうがある。

 それは、残った人の胸を光らせる。

 光れば、前が見える。

 前が見えれば、転びにくい。

 少年は私の字を目で追い、唇の中で同じ言葉をなぞった。

「転ばないから、いいの?」

 私は首を振る。

 転んでもいい。転んでも、立ち上がれる。

 そのとき、光が役に立つ。

 少年は長く息を吐き、ペン先を紙に落とした。

 ありがとう。

 字は震えていた。震えた線が紙の目に引っかかり、ところどころで濃くなる。彼はその一語の下に、名前を書こうとして、止まった。

 名前は、書けない。

 彼はペンを置き、両手で顔を覆った。肩が一度だけ震え、静かになった。

 私は黒板に向き直り、ありがとう、ともう一度書いた。三度目は、もう少し大きく。四度目は、ゆっくり。五度目は、子どもたちの目の高さで。

 半分くらいの子が、声に出して真似をした。小さな声の連なり。声は合唱にならない。ただ隣の声に重なって、色を変える。

「先生、外でやろう」

 少女がノートを抱え、椅子から飛び降りた。メリナが頷き、扉が開く。朝の光が床を跨ぐ。靴音が重なり、笑い声に混じって泣き声が少し。泣くのを止めないで済む泣き声。私は外套を羽織り、外へ出た。

 孤児院の裏庭は広かった。風が通り、古いリンゴの木が一本立っている。枝はまだ芽吹き前なのに、幹の皮は去年より柔らかく見える。紐が張られ、便箋がいくつも洗濯物みたいに揺れていた。風の棚。どの町にも、少しずつ違う形で生まれ、増えていく。

 メリナが説明する。「ここでも続けてるの。『最後の一文』を干すやり方。子どもたちは手紙で練習して、大人は夜に来る」

 少女がノートを開き、花の絵の隣にもう一度ありがとうを書いた。便箋に写し、紐に挟む。風がそれを揺らす。

 少年は出てくるのが少し遅れ、最後の列に立った。紙をひとつ選び、紐に挟む。紙は薄く、光を透かす。

 ありがとう。

 その一語の上に、彼はゆっくりと点を打った。点は、名の代わりかもしれない。点は名前になりうる。誰かが見るとき、その点は、その人が考える名前を呼び込む。

 風が強くなり、便箋が鳴る。音は弱いが、確かにいっせいだ。鳴るたび、裏庭の空気が少しだけ明るくなる。光、というより、透明度が上がる感じ。遠くの市場の色が一つ増え、パン屋の窓のガラスに薄い青が戻る。うっすらと、まちが呼吸をする。

 私は紐の端に歩み寄り、空を見上げた。

 空には、雲が薄く散り、鳥が二羽、緩やかに交差する。学校の鐘が遅れて一打。市場の男が笑い、誰かがそれに答える。

 朝の町は、挨拶の練習をしていた。

 おはよう、と言えば、同じ強さで、おはようが返ってくる。

 ありがとう、と書けば、紙は揺れ、風がそれを読む。

 昼までの時間、私は教室と裏庭を行き来した。

 字を覚えたばかりの子には、人の形と丸の絵を教え、読み上げがうまい子には他の子の隣に座ってもらい、黙っている子には窓辺の花に水をやってもらう。言葉の練習は、椅子に座ってだけするものではない。指の動き、息の当て方、目の高さ、足音。ぜんぶが、読む力と書く力に関係がある。

 メリナは台所でスープを温め、パンを薄く切り、できた子から順に褒め、できなくても順番を変える。彼女の手は忙しいけれど、笑い方はゆっくりだ。

 少年は午後には少し変わった。ペン先の力がやわらかくなり、机の角を突く癖が一度減った。減った回数は、彼が自分で気づくより先に、隣の子が気づいた。「今日の角、無事」

 少年は照れてうつむき、しかしペンは止めない。ありがとう、の後に、すこしだけ言葉を継いだ。

 いてくれて。

 継がれたたったの四文字が、教室の空気に薄い色を加える。色は形を持たず、壁も塗らない。けれど、座っているみんなの背の筋が一度だけ伸びる。

 午後の終わり、私は便箋の束を抱えて裏庭の紐に戻った。

 紐の下で少年が待っていた。彼は私を見ると、よく磨いた石のような目で、短く頷いた。「先生。ぼく、家に帰ったら、壁に紐を張る。母さんはいないけど、父さんが帰ってくる道くらい、風に覚えさせたい」

 私は板に書いた。

 いい考え。手伝う人は、すぐ見つかる。

 彼は笑って、背中を叩いていく隣の子を振りほどかずに、そのまま走っていった。叩く手は少し乱暴で、でも痛くはない種類の乱暴だ。町が、乱暴と優しさの区別を、少し思い出している。

 夕方、孤児院の前の通りに、人が集まった。

 市場帰りの女たち。道具箱を肩にかけた男たち。学校の帰りに遠回りした子どもたち。みんな、黒板の前に立ち、今日の歌の時間を待っている。

 歌と言っても、曲はない。メリナが言った。「言葉の歌。今日覚えた言葉を、順番に言うだけ」

 私は一歩下がり、壁にもたれかかって様子を見た。喉は相変わらず静かだ。代わりに胸が忙しい。胸の中の鼓動が、外の足踏みといつの間にか合う。

 メリナが手を上げた。「はじめます」

 最初の子が前に出て、便箋を一枚読んだ。「おはよう」

 二番目の子が続ける。「ただいま」

 三番目の子。「おかえり」

 四番目。「ありがとう」

 五番目。「ごめん」

 六番目。「すき」

 七番目。「またあした」

 言葉が並び、重なり、戻り、笑いに交じり、涙に濡れ、最後は皆で「いただきます」。

 手拍子が起こり、誰かが小さく踊る。踊りは上手ではない。でも、上手じゃない踊りほど、周りが入りやすい。周りは、それぞれ自分のリズムで、足を鳴らす。足音が石畳の継ぎ目に入って、また跳ね返ってくる。

 歌の輪がほどけ、街路に挨拶が散っていく。

 すれ違う人たちが、当たり前みたいに言葉を交わす。当たり前を、もう一度覚え直している。

 私は孤児院の壁の影で、筆記板に短く書いた。

 おやすみなさい。

 メリナが覗き込み、笑った。「先生の字、今日はいつもより柔らかい。ここのご飯のせいかな」

 私は頷き、台所から漂うスープの匂いに目を細めた。メリナは私の肩に手を置き、小さな声で言った。「あなたの来た日を忘れない。たぶん、あしたには、子どもたちの中で『ありがとう』の意味がひとつ増える。増えた意味は、また別の子に渡っていく」

 私は板に書いた。

 渡るたび、世界は生き直す。

 メリナは「いい言葉」と頷き、黒板にその一行を写した。

 夜が降りる。

 灯りがひとつ、またひとつ。井戸の横、パン屋の軒、靴直しの店先。孤児院の窓にも淡い橙色がともる。

 裏庭の紐の便箋が、ゆっくり揺れる。風は昼より弱いのに、紙は夜のほうがよく鳴る。昼間より人の耳が空いているからだ。

 私は裏庭に立ち、空を見上げた。星は少ないが、雲が薄く、遠い光が地上の灯りと混ざる。遠くの別の町でも、きっと同じように紐が鳴り、紙が読む。

 胸に手を当てる。

 鼓動は穏やかだ。機械の周期ではなく、眠る前の速さ。世界のどこかで、誰かが「ありがとう」と言った時刻と、かすかに重なる。

 孤児院を出る前、少女が玄関で待っていた。

 ノートを胸に抱え、花の絵のページを開く。光はもう見えない。けれど、紙の端は昼よりやわらかい。

「先生、明日も来る?」

 私は首を横に振り、板に書いた。

 明日は、別の町。

 でも、風はつながっている。

 少女はうなずき、ノートを抱きしめた。「なら、先生のぶんまで、ありがとうって言っておく。いっぱい」

 私は笑い、彼女の頭にそっと手を置いた。

 彼女は玄関先で小さくお辞儀をし、靴を鳴らして中へ走っていった。廊下の向こうで「いただきます」の声がして、皿の触れ合う音が続く。

 門を出ると、通りの空気が少し温かかった。

 隣家の窓越しに、誰かが「おかえり」と言い、別の誰かが「ただいま」と返す。井戸端では、昼間ぶっきらぼうだった男が、両手で桶を持つ女に道を空け、「どうぞ」と言った。「ありがとう」が返り、桶の水が光る。

 私は石畳の継ぎ目を踏まないように歩き、角を曲がる。パン屋の前で、少年が店主に頭を下げていた。「今度、お金を持ってくる」

 店主は大きな手を振り、「いいから食え」と笑い、手元のパンを紙に包んで渡す。少年は「ありがとう」と言い、走り去った。包みの中のパンの白い端が、薄暗がりでもよく見えた。

 宿に着き、窓を開ける。

 通りの声が、風に乗って上がってくる。

 私は机に記録帳を開き、今日の最後の一文を書いた。

 ありがとうは、続きの合図。

 帳面を閉じる。

 灯りを消す。

 暗がりの中で、遠くの便箋の鳴る音を想像する。

 眠りが来る前に、私は確かめる。世界は、今日も、誰かの声で始まっている。

 その声は小さく、でも隣に届く。隣に届けば、もう一人に届く。届けば、書ける。書ければ、また渡る。

 子どもたちの声が、世界をもう一度、始めていた。

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