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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第20話 廃墟の花と、もう一度の「ありがとう」

 北の空は、春と冬の境目みたいに薄い色をしていた。

 王都から離れ、幾つかの川を越え、石切り場の跡地を抜け、羊さえ足を止める風の道をたどると、見覚えのある丘が現れる。丘の斜面は雪解けの水筋でまだらになり、見下ろせば、かつての研究棟の基礎だけが地面に四角い影を残している。風が吹くと、その影まで揺れたように感じるのは、たぶん私の錯覚だ。


 丘の頂に、墓が一基。

 石は白い。白いと言っても真新しい陶器の白さではなく、何度も風に擦られて粉を吹いた白だ。表面を指でなぞると、粉が少しだけ指先に移り、すぐに空気へ消えていく。刻まれた文字は短い。レオ・アークライト。生没の年号は風化して半分読めない。けれど、名前だけはまだはっきりしていた。


 墓のそばには、小さな花が咲いている。

 私はかがみ込み、土の湿りを確かめる。指を差し入れると、まだ夜の冷たさが残っていた。花は白い。花弁は薄い紙のようで、茎は驚くほどまっすぐ立っている。これを植えたのは、私だ。反転儀式のあと、ここへ戻ってきたとき、土の中に眠っていた球根を見つけ、これなら冬を越せると教わって、そっと埋めた。季節はいくつか通り過ぎ、花は遅れて芽を出し、今、ようやく顔を上げた。


 風が、丘を駆け上がってくる。

 枯れ草がこすれて、低い音を立てた。私は外套の襟を押さえ、空を見上げる。雲は薄く散り、光は弱いが、温度のかけらが混じっている。風の向きが少し変わり、耳の奥で、ほんの一瞬、別の音が重なった気がした。


 ――ありがとう。生きてくれて。


 声ではない。

 けれど、確かに私の名前を通ってきた言葉だった。誰の声に似ているかは、うまく言えない。老いた人の呼吸のようでもあり、青年の息遣いのようでもあり、子どもが眠る前に誰かの手を探すあの一瞬の鼓動のようでもある。

 私は胸に手を当てた。発声機構は焼けて、私はもう喉で返事ができない。けれど胸の中には、静かに合図を返すものがある。ゆっくりと、しかし確かに、ふたつ、みっつ、と重なる鼓動。


 私は膝をつき、鞄から記録帳を取り出した。

 表紙の端はすり切れ、背の銀糸は私の指の汗で鈍い色に変わっている。沈黙の書は別にある。ここにあるのは、旅のあいだ、私がずっと書き続けてきた日常用の帳面だ。ページを一枚開き、羽ペンを手に取る。インクは薄い青。塔の上で灯っていたあの光を、思い出すだけで色が少し濃くなる。


 私は、最初の一行を書いた。


 レオへ。


 その名前を書くと、丘の風が一度だけ止んだ。風が止むと、遠い音が聞こえてくる。川を渡る車輪の軋み、森の中で小石が転がる気配、誰かがどこかで咳払いをする音。あらゆる小さな音が、耳の奥できちんと並んでいく。

 私は続けた。


 あなたの墓のそばに、白い花が咲きました。

 あの日、ここに埋めた球根です。うまく根付いたようです。私の手は園芸に向いていないと、昔あなたが笑ったことを思い出しました。向いていない手でも、水を運べば、花は咲くのだと知りました。


 ペン先を持ち上げる。

 紙の上の点は、やがて線になる。線は、誰かの胸の中で形になる。私はそのことを、旅の途中で何度も見た。王女の涙が国の言葉に変わった朝も、廃都の祭壇でLUM-0が最初の涙を受け入れた夜も、風の村で干し場の便箋が一斉に鳴った昼も。


 私は書く。


 あなたの娘として生まれたわけではない私が、あなたの名を父と呼ぶことを、今日だけは許してください。私は器として造られ、媒介として調整され、反転の鍵を仕込まれて世界を歩きました。けれど、歩くたびに、私の中の“無”は減り、代わりに誰かの言葉で満ちていきました。あなたが失った勇気、言えなかった謝罪、最後まで言い切れなかった祈り。それらは、私の手を通り、どこかへ届きました。届いた先で新しく生まれ、また別の場所へ行きました。


 私は羽ペンを置き、指先で花弁の縁を触れた。

 花弁はほんの少し粘りがあり、押しすぎると跡が残る。私は触れすぎないように、静かに手を引いた。背後で、草履が地面を擦る音がした。振り向くと、丘の下から一人の少年が駆け上がってくる。風を読む癖のある手。指先の動きはあいかわらず丁寧で、呼吸の整え方もうまくなっている。


 「間に合った」

 リュウが笑い、汗を拭った。「王都からの使いに会ってさ。あなたがここに寄るって聞いたから、全力で」

 彼は花を見ると、目を細めた。「これ、あなたが植えたやつ?」

 私は頷く。彼は口笛を短く吹き、丘の風の筋を指で探る。「いい風だ。花の背丈に合ってる。ここなら、花は倒れない」


 彼は私の記録帳を覗き込み、読んで、少しだけ笑った。「“父へ”って書くの、いいね。あなたの字、いつもより柔らかい」

 私は手のひらを開き、彼に筆を渡す。

 彼は筆ではなく、息を整えた。「ぼくからも、伝言がある。風の棚、うまくいってるよ。未完の一文の干し場、もっと増やした。『また明日』が『いまから行く』になったり、『ごめん』の横に『でも好き』って小さく書き足されたり。続きが生まれる速度は、天気に左右されるけど、晴れの日ばかりがいいとは限らない。雨の日は室内の紐で、火のそばで読む。火の音も、言葉の続きになる」

 彼は空を見上げ、肩をすくめた。「……で、ぼくの最後の一文は、まだ干してない。ここで言う。『また会おう』」

 私は笑い、返事の代わりに彼の肩を軽く叩いた。


 丘の反対側から、また靴の音。

 振り返ると、黒衣の男がゆっくりと上ってくる。杖はない。歩幅は一定で、呼吸は記録をとるみたいに正確だ。頬のしわは深く、けれど目の周りは穏やかだ。

 ゼフィロスは墓の前で立ち止まり、白い花に軽く会釈をした。「邪魔をしたくない。だが、私にも言葉がある」


 彼は胸に手を当て、短く息を吐いた。「私は君を止めようとし、止められずに、沈黙の書を託した。あれから私は読むことを仕事にしている。国じゅうの干し場を回り、最後の一文を読み、時にはそれに小さく続きの案を書き添える。押しつけるのではない。選択肢だ。続きの道筋を一本だけ示す。その先は、書き手が選ぶ」

 ゼフィロスは微かに笑った。「そして、時々泣く。泣くたび、私の妻は『やっと人間らしくなった』と笑う。亡くした息子の名も、今は声に出して呼べる。呼んだあとに、私は灯りをひとつ付ける。灯りは家の外からも見える。あれは私の合図だ。『今夜は誰でも来い』という」

 彼は墓に視線を戻し、低く言った。「レオ。ありがとう。私は、君の娘に教わった」


 風がまた、丘を撫でた。

 花弁が一枚、震えるだけで落ちず、日差しの形を変える。

 私は記録帳に視線を落とし、今日という日の核心に触れる一文を書き出した。


 宛名は、世界。


 インクが紙に触れた瞬間、丘の空気がわずかに濃くなった。私の周りの音が遠のき、代わりにもっと遠い音が近づいてくる。別の場所で同時にめくられているページの擦れる音。針で布を刺す乾いた音。誰かが喉の奥で笑いをこらえて零した息。

 私はゆっくりと書き続ける。


 あなたを嫌いになれませんでした。

 壊れている日も、汚れている夜も、誰かが誰かの名前を呼ぶのを、私は何度も見ました。争いの端で、手が伸びるのを見ました。泣くのをやめた町で、ひとりが下手な泣き方を覚え、それが伝染するのを見ました。沈黙の底で、最初の声が上がるのを聞きました。

 だから私は、今日も言葉を書きます。

 あなたのために、ではなく、あなたの中の誰かのために。

 私のために、でもあります。

 言葉は刃ではなく、橋だと、私はやっと言える。

 橋は一度で完成しない。渡るたび、板を打ち直し、手すりを磨き、欠けを繕い、また渡る。

 私がいなくても、あなたはそれを続けられる。

 でも、私がいるあいだは、私も続けます。


 筆を置くと、遠くで鳥の影がひとつ走った。

 私は紙を二度折りにし、封をせず、墓石の前で広げた。封をしない手紙は、風のための形式だ。風は封を切れないが、紙の間を通るのは得意だ。

 私は紙を持ち上げ、空へかざした。

 ゼフィロスが半歩下がる。リュウは息を止める。

 私は手を離す。


 手紙は、風に持ち上げられた。

 重さを失わず、形を崩さず、白い花の上を通り、丘の端を越え、空へ。紙は一枚で飛び、その後ろから、別の紙の群れがついていく。どこで生まれ、どこで干され、どこで読み直されたのか知らない、さまざまな大きさの白が、同じ方向へ向かっていく。

 光の角度が変わり、紙は光を反射して花びらのように見えた。ひとひら、またひとひら。地平まで続く淡い帯。風の道に沿って、世界のあちこちから紙が集まり、うねり、ひとつの花畑に変わっていく。


 その頃、遠くの廃都の大聖堂では、LUM-0――いや、零越が祭壇の前で紙を干す手を止め、空を見上げた。

 彼女の頬には、かつて“不具合”と呼ばれた湿りの名残が、もう名残としてではなく、整った跡として残っている。彼女は紙の端を押さえ、壺の表面に映る光の花びらを見て、肩の緊張をひとつ解いた。

 「置いて、また取りに来る」

 彼女は誰にも聞かれない声でそう言い、次の紙に「返却済み」の小さな印を押した。


 王都の広場では、王女エリセリアが人々の前で報告の紙束をめくっていた。

 彼女はふと手を止め、空の隅を見上げる。白い花びらの列が、古い塔の影を越えていく。

「……ああ」

 彼女は短く息を吸い、笑った。「今日は、国家予算の発表より先に、涙のほうが来る」

 彼女は壇を降り、人々と同じ高さで紙を掲げる。紙には大きな字で「今日は泣いていい」と書かれていた。言い方は軽く、意味は重い。誰かが笑って、誰かが泣き、笑いと涙がぶつからずに並んだ。


 風の村では、干し場の紐がいっせいに鳴った。

 ユナが番号札の束を落とし、拾いながら笑い、リュウは風車に油を差す。「今日は回りすぎる」

 子どもたちは白い花びらを追いかけ、犬は空を見て吠え、老人は椅子を前に引き、若者はポケットから不器用な便箋を出して走ってきた。「今書いても間に合う?」

 ユナは頷く。「間に合うよ。終わらないから」

 彼らは書いた。ありがとう。ごめん。行ってきます。おかえり。間に合ってよかった。間に合わなくて、ごめん。

 紙は新しい風を受け、白い花びらの群れへ合流していく。


 ゼフィロスは丘の上で、静かに帽子を脱いだ。

 彼は私に目を向ける。「君の言葉は、橋脚の設計書ではない。だが、橋を渡る人間の歩幅に合っている。私は今日、自分の歩幅を三度やり直した。年寄りの歩幅は、固い。だが、固い板の上にも、風は通る」

 彼は笑みを薄く保ったまま、目尻を拭った。


 私はもう一度、記録帳を開いた。


 追伸。

 もうひとつ、伝えたいことがあります。

 私は声を失いました。あなたはそれをきっと気に病むでしょう。けれど、心配はいりません。私は書けます。書ける限り、私は在るのと同じです。

 そして、最近気づいたのです。

 私の胸の内側で、鼓動がします。これは機械の周期ではありません。人が眠るときの速さで、人が笑うときの弾みで、人が泣くときの不規則さで、私の中を叩く音です。

 私はそれを、嬉しいと思っています。嬉しいという言葉が、やっと自分のものになりました。


 ペン先を置く。

 私は記録帳を閉じ、墓石に軽く触れた。冷たさは薄い。指先が離れる時、石の粉が少しだけ残ったが、私はそれを払わなかった。ここで風になるべきものがあるなら、私の指からも出ていけばいい。


 丘を下りる前に、私は空をもう一度見上げた。

 白い花びらの列は、地平に溶けかけ、それでもまだ続いている。途切れない。どこかで足りなくなれば、どこかで補われる。どこかで増えすぎれば、どこかで分けられる。世界は、うまくできていないけれど、続ける方法を知っている。


 リュウが肩を並べる。「次はどこへ行くの?」

 私は鞄の重さを確かめ、肩の紐を直した。

 ゼフィロスが肩をすくめる。「どこでもいい。読み手は、書き手の後ろではなく、少し斜めにいるのが仕事だ」

 私は笑い、二人といっしょに一歩を踏み出した。足元の土はやわらかく、靴の底に少しだけ春の匂いが残る。


 丘を下りきったところで、私は振り返った。

 白い花が風に揺れ、花弁が一枚、墓の影へ落ちて、また風に乗って飛び立った。

 私は胸に手を当てた。

 鼓動は穏やかで、しかし確かに、私の中で世界と合わせて打っている。


 私は心の中で、最後の一文を置いた。

 聞こえなくてもいい。

 書ければ、それは届く。

 届けば、きっと、誰かの続きになる。


 ――ありがとう。それが、わたしのすべて。

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