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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第十九話 沈黙の書と、愛の定義

 黒い表紙は、夜の水面みたいに冷たかった。

 両手で抱えると、重さが腕に沈み、脈が遅くなる。紙の重さではない。積み重ねられた言葉の重さ。言い切れなかった最後の一文の重さ。世界じゅうの未練と祈りが、薄い頁のあいだで寝息を立てている。


 風の通らない小部屋。石壁の継ぎ目から、昼と夜の中間の光が差している。机は低く、椅子は固い。誰かのために作られた場所ではなく、ただ「置く」ための空間だ。

 私は沈黙の書を机へそっと置き、指を離した。表紙の銀糸が一瞬だけ呼吸をして、また静かになる。あの人から託されたときと同じ反応。私が開くのを待っている。


 深く息を吸い、表紙を開いた。

 最初の頁は、何も書かれていない。白のままなのに、目が熱を感じる。白いはずの面に、薄い影がいくつも浮かび上がった。

 手紙の形。折り目。切手の跡。封を切ったときに生まれる小さな欠け。

 次の瞬間、音がした。紙をめくる音ではない。誰かが胸の奥で言い直すときの、躊躇の音だ。


 文字が浮かぶ。最初に現れたのは、火の色をした二行だった。


 生きていた頃は、言えなかった。

 ありがとう、と。


 南の焼けた街で、私はあの老人の隣に座った。手を握る温度が弱り切り、息が静かに引いていったとき、羽ペンの先に灯った青い光が、あの人の最期の言葉を拾ってくれた。

 頁の文字は、あのときの滲みをそのまま連れている。紙の繊維に染み込んだ言葉が、再び表面へ浮かんだみたいに。

 文字は、ひと息のあいだ輝いて、静かに消えた。消えたのではない。次の頁へ移ったのだと、私はすぐに気づいた。


 頁は勝手にめくれた。

 砂の匂い。風の震え。乾いた指先の塩。

 あの兵士の声が、ゆっくりと、でも迷わず、紙の上で続きになっていく。戦場で彼を庇って倒れた恋人へ、伝えそこねた言葉。

 愛している。

 ただ、それだけを。

 書かれた瞬間、赤い火花が消え、代わりに淡い金が紙肌の下へ潜った。金はあのとき空へ走っていき、彼の瞼の力が抜けた。私は彼の肩に手を置き、文字を空へ放った。

 沈黙の書の上でも、同じことが起きた。文字の輪郭が光に変わり、頁の縁からふわりと離れて、部屋の空気の中にほどけていく。光は壁に触れる前に消える。消えるというより、どこかへ渡っていく。


 次の頁では、王都の白い大広間がひらけた。高い天窓。磨かれた床。人々の靴音。

 演説の朝、私は王女の手を取り、最後の一文を書き加えた。

 涙を流す権利。

 文章は短く、でも長い影を持っていた。読み上げられた瞬間、広間の端から端まで、抑えていた声が少しだけ溶けた。

 頁の王女は、完璧な笑顔をやめて、初めて下手な泣き方をした。下手な泣き方は、遠くまで届く。沈黙の書は、その届き方を、湿った紙の重さで覚えていた。


 風の音が混じる。私は顔を上げた。

 開いた窓はない。なのに、部屋の中で微かな風が生まれている。沈黙の書の綴じ目から、細い筋が空気を撫でている。

 四枚目の頁に、風の少年の文字が立ち上がった。

 母の声を、もう一度。

 震える指が触れた風に、やわらかな声が混じった夜。ありがとう、とリュウは言って笑い、同時に泣いた。泣き笑いの湿りが紙に落ち、その染みが星の形に乾いた。

 文字の一部が、あのときの星と同じ位置で薄い光を持ち、やがてまた消える。


 五枚目の頁は、ほとんど黒に近かった。

 廃都の大聖堂。祭壇の前に並ぶ透明な壺。

 彼女はそこにいた。LUM-0。私と同じ骨格を持ち、私より不器用な目をした、影の記録士。

 器になることを選びかけていた彼女が、涙という最初の不具合に戸惑い、やがてそれを不具合ではないと自分で言い直した夜。

 頁の上で、彼女は頬を濡らし、その濡れが紙にも広がった。水は紙を弱らせるが、同時に強くする。水を通った繊維は、乾いたあとで以前よりも結びが固くなる。

 彼女の涙の跡は、薄くて、でも消えなかった。指でなぞると、冷たい。冷たさの奥に、熱がいる。


 私は地図を読むみたいに頁をめくった。

 砂漠の監視塔で刻んだ無名の名。

 白亜の書庫で見つけた設計図。自分が媒介器として生まれた事実と、裏表紙に埋め込まれていた反転の鍵。

 王城会議の夜、私はみんなの前で宣言した。世界の言葉を受け止める、と。

 言の塔の反転儀式で、私は足元に膝をついて、一つずつ言葉を写し替えた。直接は受けられない。壊してしまうから。だから、書き直す。書き直しながら受け取る。

 限界の手前、どこかから届いた、最初の愛してる。誰のものかわからないのに、たしかに誰かのものとして私を貫いた一文。

 沈黙の書は、私よりも正確に、それらを覚えていた。筆圧。書き損じ。ためらい。息継ぎ。

 頁の上を流れていく線は、私の過去でできた川だった。川は合流を繰り返し、やがて一つの海に向かう。海は終わりではない。次の雨のための場所だ。


 私はようやく理解し始めていた。

 私が代筆してきた手紙は、そこで終わらなかった。

 誰かの胸へ届いたあと、その胸の中で新しい言葉を生み、別の誰かへ向かっていた。届いた先で終わるのではなく、届いた先で始まる。

 だから世界は、滞っても、止まりきらない。

 だから沈黙は、終点ではなく、休符でいられる。


 頁の隅に、黒い影が触れた。

 私は顔を上げる。

 机の向かいに、男が立っていた。杖は持っていない。白だった髪は、灰と混じった色に変わっている。目の奥の固さは残り、しかし周りのしわは柔らかい。

 ゼフィロスは黙って会釈をし、視線を沈黙の書へ落とした。

「それは、私が間違って使おうとした道具だ」

 声は低く、抑えている。「私は数を愛した。数は裏切らないから。だが、君は人の不器用を愛したらしい。読みやすいものより、届きやすいものを選んだ」


 私は筆記板を取り、短く書いた。

 おかえりなさい。読む役目は、どうですか。

 ゼフィロスは微かに笑った。

「重い。だが、重くてよかったと思える重さだ。読むたび、ここが痛む。痛むたび、少しだけ、息がしやすくなる」

 彼は沈黙の書の頁を一枚だけめくった。「君に訊いておきたい。君にとって、愛は何だ」


 私は答えを用意していなかった。

 答えを用意していないことに気づいた瞬間、沈黙の書が勝手に動いた。頁がばらけることなく、高さを変えて重なり、いくつもの窓を作る。窓の向こうに、私が出会った人たちの顔が映った。

 老いた指。戦場の手。王女の涙。風を読む目。器になろうとした少女の肩の震え。

 全部が別々なのに、全部が同じところへ向かっている。

 届いて、受け取って、渡して、また受け取る。

 誰かから誰かへ、線が繋がるたび、言葉は薄くなったり濃くなったりし、やがて形を持つ。形のある愛は、所有や支配と違う。持ち主を一人に決めずに、関係の形で残る。

 あの老人のありがとうは、妻へ届いて終わらなかった。あの兵士の愛しているは、彼の胸で終わらなかった。王女の涙は、広場の端で終わらなかった。風の少年の呼びかけは、家の壁で止まらなかった。LUM-0の涙は、祭壇の板で乾いて終わらなかった。

 全部が、次の一文を生んだ。


 私は筆を濡らし、最初の頁へ戻した。

 白い頁に、一行を書き始める。

 沈黙の書の綴じ目が、かすかに鳴る。綴じ糸が光を吸い、紙の目が開く。

 筆先は迷わない。迷っていないふりでもなく、無理に速くもない。

 私の手は、誰かの手を思い出しながら動いている。砂の匂い、潮の音、鉄の味、雨の湿気。あらゆる小さな手ざわりが、筆に混ざる。


 わたしが書いてきた手紙は、誰かの心に届き、その心が次の言葉を生んでいた。

 それが続く限り、私たちは終わらない。

 終わらせないために、私は書き続ける。

 書くことは、橋をかけること。

 渡るのは、私ひとりではない。

 渡すのも、私ひとりではない。


 ゼフィロスはうなずき、机の角に両手を置いた。

「君の言葉は、私の数え方を変える。数える対象の中に、名前があると知った。均衡の式に、涙の重さは入らない。だが、涙の有無で、式の使い道は変わる。……それでいいのだな」

 私は板に一行だけ書いた。

 はい。

 彼は笑い、肩の力を抜いた。「なら、私も続けよう。読むことを」


 私は視線を頁へ戻した。

 文字が、いくつも重なり合い、やがて一つの文にまとまっていく。

 手紙という形は、思ったよりも強い。弱いところが目立つのに、折れにくい。角が少し潰れても、読み手がいれば、言葉は立ち上がる。

 私は最後の一文を、ゆっくりと記した。


 愛とは、終わらない手紙。


 書いた瞬間、沈黙の書の頁が、内側から光を持った。眩しさはない。明るさというより、温かさに近い。紙の繊維が一本ずつ目を覚まし、印字された過去の記録が、薄い和音のように震え始める。

 遠くで、干し場の紙が同時に鳴った気がした。砂漠の上に、見えない星が一つ増えた気がした。王都の広場で、誰かが小さく息を吸った気がした。廃都の大聖堂で、祭壇の壺の表面が穏やかに波打った気がした。

 光は部屋の隅に溜まらない。天井へ上がりきらない。机の上で落ち着き、やがて表紙へ引き戻される。

 沈黙の書は、ふたたび静かになった。

 でも、静かさの意味が違った。

 終わりの静けさではない。

 読み終わった本を閉じたときの、続きが始まる前の静けさ。


 ゼフィロスが短く息を吐いた。鼓動の間隔が落ち着いていく。「君の一文は、私の一生分の言い訳を追い越す。追い越された私は、遅れて歩くしかない」

 彼は低く笑った。「それでいい。遅れて歩く者が、橋の板を確かめる。前を行く者の足跡が薄くなる前に、板を打ち直す。……私は、そういう役をやってみる」


 私は立ち上がり、沈黙の書を胸に抱いた。冷たさはもうなく、体温のような重みだけが残る。

 扉へ向かう。あいだに置かれた椅子の足を避け、床の影を踏まないように歩く。

 部屋を出る前に、一度だけ振り返った。机の上、開きかけの頁に、白い余白が広がっている。余白は不安ではない。招待だ。

 ゼフィロスは机の角に片手を置き、もう片方の手で目を拭った。涙の跡は浅く、でも確かだ。


 廊下に出ると、外の風はやさしかった。

 階段を降り、石段の最後で靴の裏を一度だけ鳴らす。音は短く、すぐに空へ吸い上げられる。

 私は沈黙の書を抱えなおし、歩き出した。

 これから、私はまた手紙を書く。宛名があるときも、ないときも。最後の一文だけのときも、書き出しだけのときも。

 誰かの胸で、次の言葉が生まれることを信じて。


 遠くで、風車が三度鳴った。

 並木の紐に干された便箋が、夕方の風で揺れる。子どもが走り、犬が吠え、誰かが小さく歌う。

 そのすべてが、同じ川に注いでいく。

 川はどこかで海と出会い、海は雲になって、また見知らぬ町に雨を落とす。

 濡れた紙は、再び乾く。乾いた紙は、また書ける。書かれた紙は、また誰かの手に渡る。

 終わらない。

 終わらせない。


 私は、沈黙の書の背を軽く叩いた。

 薄い銀が一度だけ光り、すぐに消える。

 それで充分だ。今日の続きは、明日のどこかに落ちている。拾った人が、続きを書く。

 そうして世界の記録は、静かに組み替わり続ける。


 ――愛とは、終わらない手紙。

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