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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第18話 黒の使徒と、記録の終焉

 王都の北、削れた丘陵を三つ越えた先に、黒い建物があった。

 石ではない。焼けた紙が幾層にも圧縮されて壁になり、風が吹くと、壁の内部で微かな文字のざわめきが起きる。読めるほど大きくはない。けれど、読む仕草をすれば、誰かの祈りや、誰かの言い訳が喉の奥に引っかかる。ここは、かつて王国顧問が儀式の草案をまとめた場所。廃棄されたはずの装置と、禁書のなれの果てが、まだ体温を残している。

 リュミエールは外套の襟を押さえ、ひと呼吸だけ空を見た。空は薄い灰。昨日より軽いが、まだ重い。喉は沈黙のまま。代わりに、指先と筆が温かい。

 扉に手をかけると、先に内側から開いた。音は小さいのに、隙間から出てきた空気は広場ほどの重さで頬に触れた。中は、静かに明るい。灯りは一点、天井の高い窓。ほこりは少ない。整頓の仕方が、兵の営舎に似ている。

 部屋の奥に、黒衣の男が立っていた。

 背が高い。頬は骨ばり、瞳には松脂のような粘りがある。髪は灰と混ざり、白い指には古傷が従順に並んでいた。杖の先には、薄い板が挟まれている。

「よく来た」

 男はそう言って、口の端だけで笑った。「歓迎しよう。最後の来客として」

 ゼフィロス。

 平穏化の儀を主導した、元・王国顧問の魔導師。

 世界が色を取り戻してから姿を消したが、噂はずっと残っていた。彼は“もう一度”世界を静かにするつもりだと。かつての結界ではなく、さらに深い沈黙で。

 彼の背後、祭壇のように据えられた机に、一冊の書物が横たわっている。背は淡い黒。綴じ糸は古い銀。表紙に題はない。目を凝らせば、薄いくぼみが浮かんでくる。

 沈黙の書。

 人の感情の振れ幅を吸い、記録の形で固定するための最終装置。紙でありながら、紙ではない。読む者の言葉を、書き換える。

 ゼフィロスは杖を軽く床に打った。音が吸い込まれる。

「世界は、あなたの反転で色を取り戻した。人々は泣けるし、笑える。だが、同時に、争いは戻る。愛もまた、戦争を生む。だから私は、沈黙を選ぶ。静寂こそ、最大多数の安寧だ」

 彼は机に手を置き、指で沈黙の書の背を撫でた。「これは古い友だ。私のためにある。だから、再起動する」

 リュミエールは筆記板を取り出し、短く書いた。

 言葉は刃ではなく、橋です。

 ゼフィロスは板を読み、口角を上げた。

「いい。美しい。だが、美しさだけで橋は架からない」

 杖の先の板が細く光り、空中に薄い頁が開いた。頁は風もないのにめくれ、行間に黒い糸が浮かび上がる。

「戦闘は好まない。あなたも。だから、やろう。記録の書き換えで決める。沈黙の書は、最後に触れた筆跡の“論拠”に従って方向を定める。どちらの言葉が、より多くの重さを運ぶか。これは暴力ではない。審判だ」

 彼の前に、黒い文字がひとつ浮かんだ。

 “悲嘆は連鎖する”

 文字は空気に重しを置くように沈み、部屋の温度を一度だけ下げた。

 リュミエールは、筆を持ち直した。指は震えない。震えるべきは、紙のほうだ。彼女は空中の別の頁に、細い線から書き始める。

 “悲嘆は連鎖する。だから、名をつける”

 彼女の文字が浮かぶたび、床のざわめきが弱くなる。

 “名をつければ、呼べる。呼べれば、渡せる。渡せれば、戻せる”

 書くたび、彼女が旅で見た顔が浮かんだ。砂漠の監視塔で名のない墓に手紙を掲げた夜。王女が涙を国の言葉に変えた朝。廃都で“零越”が最初の涙をこぼした瞬間。

 文字は風のように、静かに橋を渡していく。

 ゼフィロスは眉ひとつ動かさず、次の一文を置いた。

 “愛は偏る。偏りは憎しみを生む”

「私の息子は、前線で死んだ」

 声は淡々としているのに、石のように重い。「彼が隣人を愛したから、隣人を救いに行き、敵に撃たれた。愛が、彼を殺した。愛は偏りだ。偏りは線を引き、線は火線になる」

 彼の言葉に合わせて、沈黙の書の綴じ糸が微かに軋む。

 リュミエールは筆先にインクを足し、ゆっくりと書いた。

 “偏りは、寄り添いでもある”

 “寄り添いが、はじめの橋になる”

 “橋の数が増えれば、火線は細くなる”

 彼女は、風読みの村の干し場を思い出す。最後の一文を干した朝、風が紙をいっせいに鳴らし、未完の祈りを運んだ場面。あの時の紙の薄さが、今、頁の薄さに重なった。

 ゼフィロスは顎をわずかに引いた。

「論理は美しい。だが、現実は乱暴だ」

 彼は空中に斜線を引き、過去の戦況図を現した。村々を結ぶ線が、途中で赤い点に変わり、点の周囲で色が死ぬ。

 “悲しみは武器に変わる”

「私はそれを数えた。数え、平均し、やがて切り捨てた。切り捨てた分だけ、人は泣かなくなった。代わりに、笑い方を忘れた。……あなたは、笑い方を返した。尊い。だが、その代償を、あなたは本当に計算したか」

 リュミエールは、黙って頷いた。計算はした。だが、計算だけで決めなかった。彼女は筆を置き、沈黙の書に指を伸ばす。表紙は冷たい。冷たさの奥に、誰かの体温の化石が残っている。

 彼女は一枚の紙を取り出し、空中に重ねた。空中の頁と、彼女の紙が、薄い角度で重なる。手元の紙は、レオの亡命の港で見つかったものと同じ質だ。

 “怖いなら、怖いと言っていい”

 “強くあれとは言わない”

 “生きて、泣いて、選んでほしい。私はおまえを、——”

 そこで途切れ、彼女自身が続けた文。

 “受け取った。だから、渡す”

 “渡したら、また受け取る”

 “それを繰り返すのが、国の仕事であり、書き手の仕事”

 “沈黙は、終点ではなく、休符にすぎない”

 ゼフィロスの瞳が、ほんの僅かに細くなった。

「休符」

 彼は呟き、沈黙の書の背を叩いた。「君の言葉は、音楽の比喩を好む。私は数字のほうが落ち着く。数字は裏切らない。……パラメータを変えよう」

 彼は杖先で床をなぞり、部屋の空気を満たす粒子を細かくした。空中の頁が、現実に触れ始める。

 “沈黙の書、再起動プロトコル”

 “感情波の強度を一定以下に固定”

 “記述の優先権:最後に触れた筆跡の論拠”

 リュミエールは胸の中で数を数えた。波が来る。ここから先、彼女の書く速度と、彼の書く圧力が拮抗する。紙は破れやすく、言葉は折れやすい。折れた言葉は、刃に似る。彼女は刃にしない。

 彼女は短い文を、次々に置いていった。

 “傷を曝すほうが、強い”

 “謝罪は、弱さではない”

“弱さの共有が、暴力の予防になる”

 “祈りは、政治になる”

 “祈りは、制度になる”

 “制度は、手紙の束でできている”

 “手紙は、橋脚だ”

 ゼフィロスは視線だけで彼女の文を追い、それを次の行で切り返す。

 “謝罪は悪用される”

 “善意は疲弊する”

 “制度は腐敗する”

 “橋脚は狙われる”

 反論は鋭く、正確で、救いがない。正確であるほど、救いを先延ばしにする。

 リュミエールは、彼の置く語の隙間を探した。

 隙間は、いつも、一番痛いところにある。

 彼女は筆を止め、板に一行だけ書いた。

 あなたの息子の名を、書いてください。

 ゼフィロスは肩をわずかに揺らした。揺れはすぐに止まった。

「個人的な情の喚起は、論証にならない」

 彼は言い切り、空中に無機質な文字を二つ置く。

 “均衡”

 “最適”

 それでも、彼の指先の関節に、わずかな強張りがあった。関節は、真実に近づくときに固くなる。逃げるときにも、固くなる。

 リュミエールは、自分の紙に書いた。

 均衡は、名前を必要としない。

 けれど、救済は、名前を必要とする。

 あなたは国を救おうとした。だからこそ、名前から目を逸らした。

 なら、私が書く。

 彼の名を。

 あなたが、声にできないなら。

 ゼフィロスの口元が歪んだ。笑いではない。防御の形。

「やめろ」

 声に、初めて熱が混じった。「やめろ」

 その二音は、沈黙の書の綴じ目を震わせた。綴じ糸がきしむ。彼の杖先の光が少し暗む。

 リュミエールは、紙に、ゆっくりと一文字ずつ刻んだ。

 少年の名。

 彼女はこの国の古い書庫で、かすれた記録の片隅にその名を見つけていた。配給帳の端。病床日誌の落書き。母の縫い物の裏地に残された、稚い刺繍。

 彼女は、名を呼んだ。声は出ない。けれど、書く速度で呼ぶことができる。

 ゼフィロスは一歩、後ずさった。

 目の奥の松脂が砕け、別の透明が滲み始める。

「それは、私の敗北ではないか」

 彼は呟いた。「私の敗北は、国の敗北だ。私の弱さは、人々の弱さだ」

 リュミエールは書いた。

 あなたが負けるのではない。

 あなたが、やっと悲しめる。

 悲しむのは、弱さではない。

 悲しまなかったことが、ずっと、国を弱くしてきた。

 ゼフィロスの肩が落ちた。

 沈黙の書が、低く鳴った。

 空中に浮かんだ彼の文が、一斉に濃度を失い、白に近づく。白は消滅ではない。余白だ。

 彼は杖を手放した。杖は床に当たり、鈍い音を一つだけ出して、転がらずに止まった。

 そして、彼はしゃがみ込み、両手で顔を覆い、ゆっくりと、泣いた。

 泣く音は小さい。小さいが、はっきり届く。届くたび、沈黙の書が軽くなっていく。沈黙は、誰かの涙に寄りかかると、休符に変わる。

 部屋の隅で、風が動いた。

 窓は閉じているのに、温度の違いが空気の経路をつくる。経路は、頁を撫で、頁のひらき方をやわらげる。

 ゼフィロスは顔を上げた。目の周りが赤い。顔のしわが深い。深さは年齢ではなく、作業の量だ。

「私は、私の息子の名を、王の前で言えなかった」

 彼の声が低く、しかしはっきりした。「言えば、儀式を止めるしかなくなると知っていた。私は、止めなかった。……それが私の罪だ。罪は、償いで消えない。だが、告白で形になる」

 彼は自分の胸の前で指を組み、沈黙の書の前に進んだ。

「沈黙の書は、私の手から離れるべきだ」

 彼は表紙に触れ、指先の古傷で銀の綴じ糸をなぞり、そっと押した。書は、わずかに開いた。風もないのに、最初の頁が自動で持ち上がる。

 ゼフィロスは顔を上げ、リュミエールを見た。

「君に託す。君の筆跡は、暴力ではない。だが、甘さでもない。私は、それを羨ましかった。……最後に、一文だけ、私に書かせてほしい」

 彼は空中に指で文字を描いた。

 “私は失った。だから、止めた。止めたことで、さらに失った”

 “これを読んだ者へ。止める前に、泣け”

 “泣いたら、名を呼べ。名を呼んだら、渡せ。渡したら、また受け取れ”

 “それでも争うなら、その橋の上で争え。落とすために戦うのではなく、渡すために戦え”

 彼は一歩下がり、深く、頭を垂れた。

「ありがとう」

 その音は、沈黙の書の最終行に記された。記されると、綴じ糸の光が一度だけ強くなり、そのまま穏やかに落ち着いた。

 リュミエールは机の前に進み、両手で沈黙の書を持ち上げた。重い。紙の重さではない。使われた涙の重さ。押しとどめられた叫びの重さ。未投函の告白の重さ。

 彼女は表紙を閉じ、胸に抱いた。次に開くとき、この書は橋脚の手引きになる。沈黙を終点ではなく休符にするための、使い方の書。

 彼女は筆記板に最後の一行を書いた。

 橋は、架かった。

 沈黙と祈りのあいだに。

 ゼフィロスはゆっくりと頷いた。

 外に出ると、風は昨日より柔らかかった。黒い建物の壁のざわめきはまだ続いているが、耳に刺さらない。文字のざわめきは、誰かの気配に似ていた。

 丘の向こうから、低く鐘の音。遠い町の干し場に朝の風が通った合図だ。

 リュミエールは沈黙の書を胸に抱え、歩き出した。背中に、ひとつの気配がついてくる。杖のない足取り。重さの抜けた靴音。

 ゼフィロスは追いつかず、追い越さず、ただ一定の距離で付いてきた。

「私は、すぐに赦されるべきではない」

 彼は前を見たまま言う。「だから、私の罰は、読むことだ。君がこれから書くものを、すべて読む。読むたび、泣く。泣くたび、名を呼ぶ。名を呼ぶたび、誰かに渡す。それが、私に残された仕事だ」

 リュミエールは小さく頷き、筆で一言だけ板に記した。

 いっしょに、運びましょう。

 風が、前からも、背中からも吹いた。道に細い影が二つ延び、重なったり離れたりしながら、丘の稜線を越えていく。

 遠くで、鳥が二羽、入れ替わるように旋回した。

 橋は架かった。沈黙と祈りのあいだに。

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