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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第17話 終わらない手紙と、風の約束

 東の丘を越えると、村の並木が見えた。

 冬をはさんでいるのに、並木は折れず、葉の代わりに白い紐が結ばれている。紐には薄い紙片が吊られ、風に合わせてほんのわずかに鳴った。紙の数は、ぼくがここを去った日の倍以上。鳴り方も違う。前はばらばらだったのに、今は一息ごとにそろっている。

 村の入口には新しい掲示板が立っていた。

 読めない人のための印。今日の天気。畑の水やり。家を空ける人の置き手紙を貼る場所。風の良し悪し。全部、見やすくなっていた。

 掲示の下に、小さな風車が並んでいる。羽根は薄い金属で、風が強いと少しだけ鳴る仕組みだ。風が鳴ると、村人は耳を傾ける。鳴った回数で川の流れを推し、洗い場の順番を変える。誰かが並べた工夫の跡が、道の端々に残っている。

 広場の真ん中。あの時と同じ場所で、少年が立っていた。

 風読みのリュウ。

 背は僕の肩を越えていて、頬は日に焼け、目の奥の不安が少し薄くなっている。指先は相変わらず繊細で、風向きを確かめる癖は直らない。

 彼は僕を見つけると、走ってきて、二歩手前でちゃんと速度を落とした。

「おかえり」

 声は、前より落ち着いている。

「あなたが始めたこと、僕らが続けているんだ。村の記録は風の棚に、手紙は干し場に。届かない言葉は、ここでいったん預かるルールだよ」

 僕は頷き、手帳を取り出す。喉は静かだ。僕にできるのは、書くことだ。

 ただいま。風の棚、見せてください。

 リュウは笑って、広場の端にある小屋へ僕を連れていった。

 小屋は、前に会ったときより広く、窓が多く、光がよく回る。壁には細い棚がいくつも取り付けられていて、揃えた紙束に細い紐が通されている。棚の一番上には「今月の風」、その下には「今週の声」「今日の未練」と札が下がる。

「書庫ってほどじゃないけど、記録士の仕事場にしたんだ。もうひとり、手伝いもいる」

 リュウが顎で示すと、隣の机に座る少女が振り向いた。年は僕らより少し下。指にインクの跡をつけ、髪を布でまとめ、手元の紙を丁寧に重ねている。

「ユナ。僕の相棒」

「よろしく」

 ユナは短く会釈して、僕の手帳に視線を落とした。彼女は文字を追うのが早い。

「あなたの手紙、ここの人たち、みんな読んだよ。風の棚の最初の文だって、みんな知ってる。大事にしてる」

 褒められるために書いたわけじゃない。けれど、胸が少しだけ熱くなる。僕は手帳に書く。

 ありがとう。今日は、ひとつ相談がある。

 リュウは椅子から腰を上げ、小屋の扉を開けた。

「広場に出よう。みんなにも聞いてほしい」

 正午に近い日射しの下、広場に人が集まってくる。

 畑から泥のついた靴で来る者。洗い場から濡れた腕で来る者。子どもを背負って来る女。杖をついて歩く老人。

 それぞれが、それぞれの歩幅で輪になった。輪の真ん中に僕とリュウが立ち、ユナは輪の端で板に日時を書いた。

「きょうの話題は、言葉の止まり病のこと」

 リュウの声が広場にひろがる。「僕らの村は助かってきているけど、まだ残っている。話していて、途中で言葉が止まる。心が最後まで届かない」

 人々の視線があちこちで揺れ、いくつかの肩が小さく強張る。

 リュウは僕に目を向けた。「あなたの提案を、聞かせてほしい」

 僕は手帳に書きつけて掲げた。

 最後の一文を、手紙にして残してみてください。

 おしゃべりの続きでも、謝り損ねた言葉でも、言えなかった告白でも。

 途中で止まるなら、最後の一行だけを、紙に書いて干しておく。

 風がそれを読んで、誰かに運ぶ場所を作りたい。

 ざわめきは、最初は戸惑いから。すぐに、安堵と警戒が混ざる。

 「書けるかねえ」「最後だけって、ずるくないか」「最後だけなら、書ける」「終わりを先に決めるのは、怖い」

 声が交差すると、止まる人も出る。老いも若きも、言葉の途中で息が途切れ、目だけ僕に助けを求めた。示し合わせたみたいに、みんな同じところで詰まる。

 ユナが輪を回り、手を挙げた人に薄い便箋を配った。「短くていいよ。うまくなくていい。字が苦手なら、誰かに書いてもらうか、絵でもいい」

 彼女は笑って、配る手を止めない。「『それで、また明日』だけでも、すごくいい」

 僕は人々の前に立ち、手帳にゆっくり書いてみせる。

 例をいくつか。

 家の裏木戸に挟むなら。

 夕飯の大皿に添えるなら。

 作業場の釘にかけるなら。

 僕の手は止まらない。言えない代わりに、書く筋肉が勝手に働く。

 その中年の男は、最初に顔を上げ、口を開いた。

「わ、私は……あの、その、最近、妻に要らないことを言いすぎて……」

 言葉が土砂崩れみたいに止まった。周りが息を詰める。

 ユナがそっと便箋を差し出す。男は筆を取り、手の震えを隠さずに書く。

 ごめん。

 書き終えて、彼は顔を上げ、半分照れながら笑った。「最後の一文、これじゃ短いかな」

 ユナは首を振る。「じゅうぶん。干し場は短いのが風をよく通すんだよ」

 輪の裏から、少年が手を挙げる。

 「ぼく、父さんに、『来年の祭りに一緒に行こう』って言いたい。でも、言う途中で止まる。笑われる気がして」

 ユナが笑って便箋を渡す。

 少年は舌を噛まないように丁寧に書く。

 来年の祭り、いっしょに。

 彼はそれを両手で掲げ、恥ずかしさで顔を赤くし、でも逃げなかった。

 老人が杖を鳴らした。

 「言いたいことはある。誰が聞くかは、風まかせでいいのか」

 僕は頷いて、手帳に書く。

 風は届け先を探すのが得意です。

 老人はふっと笑い、便箋に、ひらがなで大きく書いた。

 いきてくれて、ありがとう。

 それは誰の顔にも届きうる文で、広場の空気が少し柔らかく変わった。

 午後が傾くころには、広場の紐に新しい便箋が並びはじめた。

 表側だけでなく、裏にも小さな書き足し。二つ折りにして真ん中で止めるもの。角をちぎって花の形にするもの。紙と紙の間に花の種を挟んだものもあった。

 紐は足りなくなり、子どもたちが棒と紐で新しい干し場を作る。男たちはうまく縛れない結び目を笑いながら何度もやり直し、女たちは手を貸し、老人は座って見守り、ユナはぜんぶの紙の端に小さな番号を振っていく。

 リュウは風向きを読み、干す高さを変えた。「川からの風が強いから、低い場所に重い文を。高いところは軽いの。若いのは高くていい。遠くへ飛ぶから」

 彼の指示は、気象の説明みたいで、少しおかしくて、でも誰も笑わなかった。みんな、その通りに動いた。

 夕暮れ、村の端に虹のような薄い色が出た。

 虹と呼ぶには淡く、けれど伝わる色だ。子どもが歓声を上げ、犬が尻尾を振り、誰かが拍手をして、その音が別の誰かの肩の力を抜く。

 僕はリュウに手帳を見せる。

 今日は、もう充分です。あとは風に任せましょう。

 リュウは頷いた。「夜の風は、よく運ぶから」

 夜の始まり。

 干し場の紙は、昼よりゆっくり揺れる。冷えた空気が少し重たく、紙の角がわずかに膨らみ、句点の丸が乾く音が聞こえそうだ。

 村の人たちは家へ戻り、広場は静かになった。火の気は少ない。かわりに星が増え、川の音が近くなる。

 僕とリュウとユナは干し場のそばに座り、膝を抱えて紙を見上げた。

 ユナが指で空をなぞる。「ねえ、あなたが前にここで書いた一文、覚えてる? 言葉は風みたいに届くって」

 僕は頷く。

 彼女は笑い、紙切れを取り出して何かを書いた。

 迷ったら、風の強い方へ。

 ユナは自分で読み上げて、照れた。「座右の銘、みたいなやつ。いつか、この村の看板にしたいな」

 リュウは寝転がり、両手で風の筋を探す。昔からの癖だ。

「風はさ、前は怖かった。戦場の声とか、泣き声とか、嫌でも聞こえてきたから。今も時々そうだけど、前ほど嫌じゃない。聞くと、誰かの名前が先に浮かぶことが増えた。名前が先だと、聞くのが、楽になる」

 彼は横目で僕を見る。「ねえ、あなたの声、今どこにあると思う?」

 僕は空の紙の群れを見て、手帳に書いた。

 ここにいる。

 リュウは笑った。「うん。風はあなたの声だね」

 夜は長いようで、短い。

 日付が変わる前、川の向こうから違う匂いの風が来た。少し生ぬるく、土と草と、遠い街の煤が混ざった風。干し場の紙が一度だけ、同じ方向へ傾く。

 紙の影が地面に重なり、ユナの頬にかかる。彼女はそれを指先で払った。「明日の朝、起こしに来るね。あなたは工房の倉で休んで」

 夜明け前の村は、音が少ない。

 起きる前の家の息遣い。遠くで鶏が一声。川の石の音。

 僕は横になりながら、胸の上に記録帳を置いて目を閉じた。眠りに落ちる直前、耳の奥で、誰かの小さな声がした。ありがとう。ごめん。行ってきます。またね。おやすみ。

 声は名前を持たず、でも確かに、誰かのものだった。

 朝。

 東の空が薄く白くなる。風車が最初に鳴る。二度、三度。紐がわずかに揺れ、紙が呼吸を思い出す。

 広場へ向かうと、もう人が集まっていた。子どもが先頭で跳ね、ユナは紐の結び目を点検し、リュウは風向きを指で示す。

 干し場の紙は、昨日よりも白く、昨日よりも軽い。表面に小さな皺が増え、それぞれの最後の一文が、ほんの少しだけ明るくなって見える。

 ユナが一枚を取って、声にした。

 いまは言えない。でも思ってる。

 別の一枚。

 来年の祭り、いっしょに。

 もう一枚。

 いきてくれて、ありがとう。

 人々の顔が、文に合わせて動く。泣く人。笑う人。腕を組む人。遠くを見る人。

 リュウは僕の肩を軽く叩いた。「今日は読み上げ番が足りない。手伝って」

 僕は手帳に書く。

 僕は声が出せない。

 リュウは首を振る。「声は、みんなで持ち寄るんだよ」

 代わりに、僕は紙を選んで回った。今読むべき紙。今はまだ早い紙。パッと見て躊躇が消える紙。手つきだけで、輪のリズムが変わる。

 読み上げが進むうち、言葉の止まり病の人たちが、少しずつ輪に混じっていった。最初は紙の陰に隠れ、次に小さく頷き、最後に自分の声で短く続ける。

 ごめん、の後に、好き。

 またね、の後に、今日の夕飯は何。

 大丈夫、の後に、大丈夫じゃない。

 どの続きも、完全ではない。でも、続きが生まれた。

 リュウはその都度、紙の端に小さなしるしをつけていく。「続きが出た紙には点。二つ出たら丸。三つ出たら、干し場の上段だ」

 陽が高くなる頃、川の方から一陣の風が吹いた。

 その風は、干し場の紙をいっせいに鳴らした。音と言うには弱く、でも確かに、同じ方向へ流れる気配。

 子どもが指さし、誰かが「あ」と短く声を上げる。

 紙が鳴るのに合わせて、広場の端から端まで、小さな声が連なった。

 ありがとう。

 ごめん。

 好き。

 またね。

 いってきます。

 おかえり。

 声の主は見えない。紙が風に翻るたびに、言い損ねていた最後の一文が、どこかへ渡っていく。

 リュウが僕の横に立った。

 「見える?」

 僕は頷く。見える。紙の向こうに、宛てのない祈りの形が。名前のない涙の軌道が。僕らが干しているのは、単なる紙じゃない。世界の続きだ。

 ユナが笑った。「風は、今日の読み上げ番もしてくれるんだね」

 リュウはうなずいた。「僕らが眠っている間も」

 午前の終わり。

 輪はほどけ、しかし人々はすぐには帰らなかった。干し場の紐の下で、誰かと誰かが顔を見合わせ、頷き、短く何かを言い合う。それが一つの家の扉を開け、また別の家の食卓を整え、洗い場の順番を譲り、畑の水やりの手を貸す。

 僕は手帳を開き、ゆっくりと一文を書く。

 手紙が終わらない限り、世界は終わらない。

 書いてから、気づく。これは、前に書いた文の続きだ。言葉は風みたいに届く、の、続き。

 リュウは僕の肩越しにその文を読み、笑う。「じゃあ、僕らは終わらせない役目だね」

 ユナが親指を立てる。「役目というより、癖にしよう。癖は毎日やるから、忘れにくい」

 午後、村の道で小さな騒ぎが起きた。

 干し場の端の紙が、一枚、風に外されて飛んでいく。

 子どもが追いかけ、犬が吠え、大人が笑って見守る。紙は川の向こうへふわりと渡り、畑の低い垣根に引っかかった。

 追いついた子どもが紙を外し、声に出して読んだ。

 待ってる。

 子どもは真剣に紙を胸に当て、それから走って戻ってくる。

 広場で見ていた男が、咄嗟に片手を挙げた。「それ、俺のだ」

 子どもは笑って渡し、男は顔を伏せて照れ、でも誰にも言い訳をしなかった。紙の角は、風に読まれて少しだけ濃くなっていた。

 日が傾く。

 村の端の大木の枝先で、小鳥がさえずりを試す。昨日までは濁っていた鳴き方が、今日はすっきりしている。洗い場には笑い声が戻り、遅れて来た人の分の桶が自然に空けられている。畑の脇には、新しい干し場が二つ増えた。

 リュウは風車の鳴りを確かめ、ユナは番号の控えをまとめ、僕は紙の端のほつれを結び直した。

 村の真ん中で、誰かが短く歌う。歌はうまくない。けれど、うまくない歌が、今は一番遠くまで届く。

 夕暮れ、リュウが静かに言った。

 「行くんだよね」

 僕は頷く。

 「結界の名残は、まだ他の町にもある。宛名のない便箋も、まだ山ほどある。あなたが始めたことを、僕らが続ける。あなたがいない間も」

 僕は手帳に書く。

 戻ってくる。風の季節が変わったら。

 リュウは笑ってうなずく。「じゃあ、それまでに看板を作っておく。迷ったら、風の強い方へ、ってやつ」

 ユナが手を振る。「気をつけて。途中で止まったら、便箋を干して。誰かが読むから」

 村を出る道は、朝より軽かった。

 背に受ける風が、紙の鳴りを連れてくる。

 ありがとう。

 またね。

 待ってる。

 おかえり。

 名前がついていない声が、名前を探しながら流れていく。

 丘を登る途中、振り返る。

 干し場の白が、夕焼けの色を薄く拾っている。紐がゆっくり揺れ、紙が一枚また一枚、風に向かってたわむ。

 僕は最後にもう一度、手帳を開いた。

 今日の終わりに、風を読む。

 紙の群れを読む。

 声のない僕の代わりに、世界が少しだけ声を思い出していく。

 丘の上の風車が、一度、二度、三度、鳴った。

 風が、未完の祈りを運び続けていた。

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