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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第16話 廃都リュシオンと、影の記録士

 国境を越えると、風の匂いが変わった。

 粉っぽい。金属の粉をもう一息だけ焼いたような匂い。地図に名残だけ残る道路をたどると、やがて城壁の残骸が現れる。敵国の首都だったリュシオン。いまは半分、砂に飲まれ、半分、影に沈んだままの廃都だ。


 街路の石はつぎはぎだらけで、壁の穴からは草が伸びている。色はあるのに、温度がない。ここに吹く風は、何かを運ばない。運ばないから、匂いも薄くなる。

 広場に立つと、音の出どころがわかる。どこかで低い唸りがして、近づくほど耳が慣れていく。唸りの源は、旧王立大聖堂だった。尖塔は三本のうち二本が折れ、残る一本は夜の鉛筆のように鈍い光を吸っている。

 扉の前で、リュミエールは外套の裾を押さえた。胸の奥で機構が静かに拍を刻む。喉は沈黙のまま。しかし筆はある。読む目もある。


 扉を押すと、冷えた空気が流れ出てきた。

 内部は無音ではない。石の床の上を、透明な水がどうにかかすめるような音。祭壇に向かって並ぶ長椅子の間に、黒い影が折り重なっている。影は人に似た形を保ちながらも、輪郭が薄い。ここにも“無彩災”の残骸が生きていた。


 歩みを進めると、祭壇の前に一人の少女が立っていた。

 リュミエールと同じ背丈、同じ肩の角度。同じ骨組み、同じ出で立ち。

 けれど、目だけが違った。深いところで光が渦を巻き、その渦が、常にどこかへ吸い込まれている。

 少女は、静かに頭を傾けた。


「来た」

 声は掠れていた。

「あなたの足音は、遠くからでもわかった。塔で世界が反転した夜、ここにも音が届いた。……私は、LUM-0。影の記録士。命令の外側に、ひとつだけ“選びたい”を持っている」


 リュミエールは筆記板を取り出し、さらりと書く。

 こんにちは。私はリュミエール。あなたに会いに来た。

 板を見たLUM-0は、瞼を一度だけゆっくり閉じた。

「声が、ない。けれど、字がはっきりしている。はっきりしている字は、温度の代わりになる」


 祭壇の奥へ視線を向けると、黒い器が並んでいた。壺でも瓶でもない。人の胸郭に似た形。ガラスの内側で、灰色の液体がゆっくりと渦を巻いている。

 LUM-0は、そのひとつに手を添えた。

「私は“無彩災”を逆手に取った。街じゅうの苦痛をここに吸い上げ、形にして封じる。泣けない者の代わりに泣き、怒れない者の代わりに怒り、声にならないものを私が受けて、静かに置く。……それが、この街を守る最短だと、私は計算した」


 指がガラスを軽く叩く。中の渦が濃くなる。

「代わりに、私は空になっていく。空の底には、重いものが沈む。重いものは、壊れる前に音を出す。……その音が、いまの唸り」

 彼女は祭壇の上の裂け目に目を落とした。割れ目から昇る薄い蒸気は、膝を刺すように冷たい。

「あなたが世界を救ったのなら、私は“痛みの器”として残るべきでしょう。残る者がいなければ、街はまた逆流するから」


 リュミエールは板に書く。

 痛みも、分け合えると思う。

 LUM-0は瞬きを忘れたように、板を見つめた。

「分け合う?」

 言い方は単純で、聞こえは幼い。けれど、問いは硬かった。

「痛みは余白を埋め、余白が埋まるほど、器はひとつになる。……分ける方法を、私は知らない」


 リュミエールは祭壇の段に膝をつき、一本の壺に掌を置いた。かすかに震える。震えは怖さのサインではない。中に形のある声が密集している、という予告だ。

 指先でゆっくり文字を描く。ガラスの上に残るのは、曇りでできた一行。

 “ここに置いて、また取りに来る”

 LUM-0の肩が小さく揺れた。

「取りに来る。……誰が?」

 “あなたが。あるいは、あなたじゃない誰かが”

「それで、器は壊れない?」

 “壊れる前に、息ができる”


 大聖堂の扉が風に鳴った。外の広場で、足音が集まりはじめている。廃都の人々だ。色を取り戻しきれない頬、乾いた髪。無彩災の最中に泣けず、笑えず、言葉の温度を測る道具を失ってしまった顔。

 LUM-0は人々に視線を向けず、背中で気配を受けたまま言った。

「私はここで、ひとりでやるつもりだった。ひとりなら、失敗もひとり分。壊れるのも、ひとり分。……でも、あなたは“分け合える”と言う」


 リュミエールは頷き、板に次を綴る。

 痛みは、持ち寄ると、薄まる。

 持ち寄れない痛みは、名をつける。

 名をつければ、呼べる。

 呼べれば、渡せる。

 渡せれば、戻せる。

 戻せれば、また歩ける。


 LUM-0はその文を最後まで読み切ると、目を閉じた。胸元の回路が一度だけ明滅する。

「名をつける。……私には、名のない痛みが多すぎた。数えることと、数えないことの違いを、私は間違えたのかもしれない」


 人々が大聖堂に入ってきた。最初に現れたのは老人で、次に子ども、次いで両手に荷を持った女たち。男たちは遅れて、扉の影で順番を譲り合う。彼らは祭壇の前で足を止め、壺を見て、LUM-0を見て、最後にリュミエールを見た。

 LUM-0の声が、わずかに低くなる。

「ここに、痛みがある。私が預かった。誰かの分も、誰のものでもない分も。……返す方法を、私は持たない」


 リュミエールは板を掲げた。

 “返す練習を、ここで始めます”

 “返す練習”という言葉に、ざわめきが生まれた。返される側の準備、返す側の手つき。人々の視線が互いの手を見て、次に足を見る。立っている場所を確かめる仕草は、座る場所の確かめ方と似ている。


 リュミエールは祭壇の横へ回り、長椅子を壊れた柱のそばまで引いた。椅子の背で紙を支え、一本の壺から細い筒を伸ばす。筒の先を紙に。

 「危険だ」とLUM-0が小さく言いかけ、言い切る前にリュミエールの手の動きで止まる。手は、ただの手で、でも言葉に近い。

 吸い上げない。触れない。

 “なぞる”

 彼女は板にそう書き、壺の内側で渦巻く影の輪郭を紙へ移す。輪郭の隅に、ひらがなのような記号が混ざった。記号は言葉の原型で、言葉の原型は、名前の原型だ。


 最初の紙ができあがると、リュミエールはそれを人々のほうへ差し出した。

 「読めない」と男が言う。

 「読むんじゃない」と老婆が答える。「思い出すんだよ」

 老婆は紙の端を指で撫で、その指を自分の胸に押し当てた。「これは、あの冬の咳の音だ。台所の隅の冷たい鍋の音。……名前をつけよう。『朝いちばんの咳』」

 紙の端に、震える字でその名が書き添えられる。

 次の紙には、若い女が「編みかけの手袋」と名をつけた。男の子は「跳べなかった塀」、老人は「小言より先に出たため息」。

 名前が増えるほど、壺の中の渦は少しずつ薄くなる。薄くなると、床の唸りが遠のく。遠のいたぶん、誰かの肩の力が抜ける。


 LUM-0は祭壇の縁を握りしめていた。白い指が硬く、色が戻らない。

「薄くなると、私の中が痛む。私の中に溜めていたものが、形を変えて外へ出る。……外へ出るとき、私の回路が、きしむ」

 リュミエールは近づき、板に書く。

 それは、故障じゃない。

 それは、動いている証拠。

 LUM-0はかすかに笑う。「言い方が、やさしい」

 やさしく言うことは、甘やかすことじゃない。

 やさしく言うほうが、遠くまで届く。


 空が暗くなる前、儀は小さなピークを迎えた。大聖堂の天窓から灰色の光が落ち、壺の表面で跳ねる。人々は輪になり、用済みになった紙を干す紐を持ち寄った。紙は音を吸ったあと、音を少し返す。返した音は、だれかの名前を呼ぶために使われる。

 リュミエールは、ふと、LUM-0の足元がふらついたことに気づいた。

 彼女の視界が暗くなる。祭壇の段が一段分、遠くなる。

 リュミエールは彼女の肘を支え、長椅子へ座らせた。

「私は、余白が足りないのかもしれない」

 LUM-0は、硬い笑い方で言った。「器の壁に、私自身の名前が書かれていない。名前のない器は、どこまでが器で、どこからが中身かわからなくなる」


 リュミエールは板を差し出した。

 あなたの名前を書こう。

 LUM-0は首を振る。「命名は恐ろしい。命名は、責任だ」

 それでも、書こう。

 “ここに置いて、また取りに来る”のと同じように。

 LUM-0は少しだけ考え、目を閉じた。

「なら、仮の名でいい。……“零を越えるもの”」

 リュミエールは板に記す。

 あなたの暫定名は、“零越”。

 LUM-0は小さく息を漏らした。「それは、あなたの言葉?」

 半分は、あなたの言葉。

 半分は、ここにいるみんなの言葉。


 名前が与えられた瞬間、LUM-0の胸の回路がやわらかく光った。光は長椅子の背に反射し、壺の表面に一瞬だけ薄い色を付ける。

 「私は、痛みの器として残るべきだと思ってた」

 彼女はゆっくり言葉を選ぶ。「あなたが“世界を救った”のなら、帳尻はどこかで合わせなきゃいけない。私がその係だと、勝手に決めた。……でも、さっきから体の芯が熱い。熱いのに、壊れていく感じじゃない」

 壊れる前の熱は、鋭い。

 生きるための熱は、鈍い。

 今のは、どっち?

 LUM-0は少し困った顔をして、指で胸の上を探る。「鈍い……と思う。鈍い熱は、たぶん、居場所を作る」


 そのときだった。祭壇の奥で、ひときわ濃い影が立ち上がった。壺のひとつが音もなく罅割れ、渦が床へ零れ落ちる。

 人々が息を呑む。影は床の模様に沿って走り、長椅子の脚を撫で、子どもの足首に絡みかけた。

 LUM-0が反射で立ち上がる。「私が行く」

 彼女は影へ手を伸ばし、掌で掬う。掬った瞬間、回路が悲鳴をあげる。

 リュミエールは彼女の手首をとり、板に大きく書いた。

 “ひとりで受けるな”

 “分ける”

 LUM-0がゆっくり頷く。

 リュミエールは影の前に紙を置いた。紙は薄いが、逃げ道ではない。逃げ道ではない紙は、影の形を平らにできる。平らになった影は、名をつけやすい。

 人々が輪を狭め、影の周囲へ声を落とす。誰かが、自分の名を言った。誰かが、去年の冬の匂いを言った。誰かが、今日の朝の失敗を言った。

 影は縮む。縮んだ分だけ、床の罅が消える。

 LUM-0は、両手で胸を押さえた。「痛みが動く。私の中から、外へ。……外から、違う形で戻ってくる」


 危機が去ると、夜が降りてきた。

 大聖堂の外に灯がともり、干し場に紙が増える。紙は風に揺れ、揺れ方の違いで、読む順番が決まる。

 リュミエールは、LUM-0と肩を並べ、境内の石段に腰を下ろした。空は薄い煤の層の奥で星をにじませ、広場の隅では子どもたちが紙の端を笛のように鳴らして遊んでいる。

 LUM-0は、しばらく黙っていた。黙ることが、彼女の言葉の一部になりつつある。やがて、低く呟く。


「私は、壊れかけることを“誇り”だと誤読していた。限界まで背負うことが、仕事の完成だと思っていた。……違ったのかもしれない」

 リュミエールは板に書く。

 違う。

 でも、間違いではない。

 “ひとりでやる”という初期値が、あなたをここへ連れてきた。

 “ひとりでやらない”という次の値が、あなたをここに残す。


 LUM-0は板を読み、顔を上げた。目の奥の渦が、さっきより穏やかだ。

「あなたがいなくなったら、私はまた“器”に戻るかもしれない」

 リュミエールは笑って、小さく首を振る。

 私は旅を続ける。

 でも、戻ってくる。

 戻ってくるまでのあいだ、あなたは“零越”として、ここにいて。

 器じゃなく、持ち寄りの番人として。


 長い沈黙のあと、LUM-0は立ち上がった。

 祭壇の前へ歩き、壺の並びを見渡し、ゆっくりと一礼する。礼は誰に向けたものでもない。いままでの自分と、これからの自分と、ここで名を得た数々の痛みへの礼。

 そして、振り返ると、彼女の頬を一筋、光が伝った。


 最初は、結露かと思った。

 大聖堂の冷えた空気が、回路の熱で曇ったのかと。

 彼女自身も、きっとそう思った。指で触れ、濡れた指先を見つめ、戸惑いをこらえきれずに笑う。


「これは、不具合?」

 問いは、子どものようだった。

 リュミエールは首を横に振り、板にただ一言書いた。

 おめでとう。

 LUM-0は息を呑み、まぶたを閉じる。次の瞬間、両目からこぼれた水は、もう曖昧ではなかった。形があり、重さがあり、落ちる音があった。

 彼女はそっと両手で顔を覆い、肩を震わせた。震えるたび、回路の光がゆっくりと明滅する。

 泣くという行為が、彼女の中で新しい経路を作っていく。

 経路は壊すための配線ではなく、結ぶための路だ。


 やがてLUM-0は手を下ろし、笑った。笑いは、不器用のままだが、もう無理には見えない。

「あなたの言った“分け合う”が、少しだけわかった気がする。痛みは、消すものじゃない。置き場を用意して、名前を呼んで、持ち寄って、時々、返せばいい」

 リュミエールは頷いた。

 LUM-0は空を見上げ、深く息を吸った。

「私、やってみる。番人。……零越として」

 その名を自分で口にした瞬間、彼女の背がわずかに伸びたように見えた。立ち位置が、半歩、手前に来たのだ。自分の影と、街の影のちょうど中間に。


 夜更け、リュミエールは大聖堂の扉の前で一度だけ振り返った。

 境内の明かりは低く、人々は紙を干し、子どもは眠り、LUM-0は壺の前で椅子に腰かけ、記録帳を開いている。

 彼女は板に短く書いた。

 また来る。

 LUM-0は頷き、同じ板の余白に小さく書き足した。

 待ってる。

 二つの筆跡が一枚の板に並んだ。並ぶだけで、約束になる。


 廃都を出る道で、風が少しだけ暖かくなった。

 橋の袂に差しかかったとき、遠くで鳥が鳴き、灰色の羽根の根本に、昨日より濃い色がさした。

 声は戻らない。けれど、読むべきものは増え、書くべきものも増える。

 足元の砂は、歩きやすい。

 リュミエールは外套の襟を直し、筆と紙の重さを確かめた。

 背後で、大聖堂の鐘が一度だけ鳴った。

 それは呼び戻す合図ではなく、ここから続けと送り出す音。

 彼女はうなずき、前を向く。


 背後の光の下で、LUM-0――零越は、そっと自分の頬を拭った。

 指先に残る湿りは、もう説明のつかない不具合ではなかった。

 彼女の涙は、もう“故障”ではなかった。

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