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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第15話 灰の郵便局と、宛名のない便箋

 灰色の風が、建物の角で向きを変えた。

 町は半分だけ生きていて、もう半分は過去の片づけを諦めていた。焼けた壁、抜けた窓、絡まった電線。石畳の継ぎ目には、昨日の雨の名残りが薄い鏡のように残っていて、空の鈍い色をそのまま映している。

 道の先に、郵便局の跡があった。歪んだ屋号の文字。割れた硝子。郵便の看板に描かれた赤い鳥は、片翼だけが辛うじて残り、もう片方は煤に紛れて消えている。

 引き戸を押すと、埃の匂いが喉の奥に広がった。長椅子、仕切り、番号札の箱。どれも色を失い、音だけがかすかに残っている。カウンターの奥、広い作業場には木枠の棚が壁一面に積まれ、そこに紙の山が無造作に眠っていた。封蝋が溶けて固まった痕。古い切手。宛名の上を曇らせた薄い膜。

 どれもが、途中で止まったまま、その続きを待っている。

「誰か、来たのか」

 低い声が、積まれた箱の陰から落ちてきた。

 出てきたのは、二十代の半ばに見える青年だった。煤けた制服の袖を肘までまくり、指先にはインクの染み。胸には錆びかけの徽章。髪はよく乾かされているが、その乾き方が簡素で、丁寧さと疲れが同居していた。

「ここは今、局じゃない。けど、まだ局でもある。そんな場所だ」

 青年は肩をすくめ、床に広がる紙を避けるように歩いた。「俺はカイル。郵便士の端くれ。こいつらは、宛名を失くしたまま百年眠ってる。天井が落ちても、まだ眠ってる。俺が勝手に、起こしてる」

 リュミエールは外套の内ポケットから薄い筆記板を取り出し、さらりと書く。

 こんにちは。通りすがりの代筆屋です。手伝わせてください。

 カイルは板を読み、意外そうに眉を上げた。

「あなた、声を……」

 リュミエールは首を軽く振る。彼女の喉は、もう音を持たない。かわりに、彼女の目は紙と同じ速度で話す。

「まあ、いい。ここでは、声より字のほうが役に立つ」

 作業場の中央に大きな木箱があり、蓋は半分開いていた。中は仕分け途中の手紙で満ちている。カイルはそのうちの一通を手に取り、封筒の角を指で弾いた。

「宛名不明、住所不明、差出人不明。三重苦の子たちだ。受け取ってくれる誰かに届くまで、何十回も棚を移動する。移動してるうちに、誰も読めなくなる。紙は縮むし、切手の糊は風にやられて剥がれる。百年前の“あなたへ”が、いまここで、ずっと“あなたへ”のままなんだ」

 リュミエールは木箱の縁に腰を下ろし、一通、また一通と封筒を手にとった。

 名前の書き間違い。番地の書き足し。雨に滲んだ筆跡。切手の代わりに花びらが貼られた封。封筒の裏に刻まれた癖のある折り皺。誰かが長い夜に何度も開け、また閉めた跡。

 紙を持つ角度を変えるたびに、差出人の生活の重みが指先へ移った。言葉の匂いが、薄い温度を持って立ち上がる。

 カイルは棚から別の箱を降ろしてきて、作業台に置いた。

「ここにあるのは、国境を越えるはずだったやつ。戦時封鎖で止められ、そのまま。俺は最近、宛名を探すことに、やっと慣れ始めた。慣れるまでは、全部が自分に怒ってる気がして、手が震えてたけど」

 彼は照れくさそうに笑い、すぐ真面目な顔に戻る。「あなたの目は、読みが早い。手伝ってくれるなら、棚の“灰十七”から。そこは、古いけど、匂いがまだ残ってる」

 灰十七の木札がついた棚には、茶色く変色した封筒が多かった。古い蝋の色ははげ、紙は薄い皮のようにしなっている。リュミエールは一枚ずつ表裏を確かめ、宛名のわずかな手掛かり——地名の綴りの癖、差出印の欠け、封筒の端に押された小さな文様——から、時代と出所を推した。

 そのなかに、見慣れた癖が混ざっていた。

 筆記の最初の入りが深く、払いが一定、止めの力が不器用に抜ける。

 彼女の指が止まる。呼吸が二度、浅くなる。

 封筒の裏に、細い英字で署名があった。

 レオ・アークライト。

 視界が狭くなり、彼の声の高さ、机の軋み、夜の工房の明かりを覚えている部分だけが、急に鮮明になる。封は開けられていない。蝋はひび割れ、でも割れてはいない。封緘の印は、彼の工房で使っていた小さな星の形。

 リュミエールはカイルを見る。彼はすぐに察して、頷いた。「開けよう。宛名を見ないと、眠っている理由がわからない」

 蝋が割れるとき、薄い音がした。その音は、ここに積まれた百年の時間より、ずっと短くて、形があった。

 封を切り、便箋を広げる。

 文字は丁寧で、急いでいた。線の途切れがいつもより多く、ところどころにインクの濃淡。最後の段に、挿入の線で控えめな言葉が挟まれている。

 宛名は、敵国の名を持つ研究者。彼の昔の友。今は反対派に名を連ね、その後の戦乱でどこかの墓に眠ると伝えられている名前だった。

 便箋の冒頭は謝罪から始まっていた。

 自分が王国の命令に従い、平穏化の儀の設計に加担したこと。心が色を失い、人々の言葉が薄くなっていくと知りながら、止まらなかったこと。

 だからこそ、儀を止められなかった自分の弱さを、せめて誰かに正確に渡したいと願ったこと。

 最後の段に、短い一文があった。

 いつか、世界が思い出せるとき、君の研究と私の誤りが、同じ地図に載るように。

 リュミエールは便箋を持つ手を、作業台の縁に置いた。椅子の脚が小さく鳴る。喉が痛まない代わりに、胸が狭くなった。

 カイルは便箋を覗き込むことはせず、封筒の表を指で撫でる。「差出印は亡命中の港だ。消印は押されてない。戦が激しくなる前夜、走って届かなかったんだろう。俺たちの仕事は、今さらかもしれない。でも、今こそなのかもしれない」

 彼はわざと軽く笑ってみせる。「難しいのは、宛名の墓がどこにあるかだ。敵国側の記録は失われやすい。だが、道が完全に消えることはない。誰かが覚えている」

 棚の隅で眠っていた古い地図が、いつの間にか作業台に広げられていた。線は途切れ、川は違う場所を流れ、国境は何度も描き直されている。

 リュミエールは便箋の端に指を置いた。紙は薄く、熱を吸う。彼女は筆記板に短い文を走らせる。

 この手紙を、わたしが届けます。

 宛名がなくても、想いは届く。

 カイルはリュミエールを見た。何度か口を開き、それから閉じた。

「あなた、喉を焼いたって聞いた。声がなくても、走るのか」

 リュミエールは頷く。走る速さのことではない。歩く長さのことだ。彼女が失ったのは声で、失われなかったのは筆と足と、読む目だ。

 カイルはポケットから古い徽章を外し、封筒の上に置いた。「道を開ける札だ。国境で効くかは賭けだが、ないよりいい。俺も行きたいが、ここを離れられない。この山を起こす役は、俺がやる。あなたの足跡のために、ここから風を送る」

 午後、局にいた人々が少しずつ増えた。道の掃除をする老人、縫い針を持った女たち、壊れた木枠を直す職人、子どもたち。誰の手にも、古い紙の感触が乗っていた。

 作業台の端に、小さな掲示が貼られた。カイルの字だ。

 宛名のない手紙を探しています。心当たりのある人は、指の跡でも構いません。紙に触れてください。紙は覚えています。

 それからの数時間、リュミエールは紙を介してたくさんの人と会話した。

 百年前、婚礼の前夜に届くはずだった祝詞。疫病の町から持ち出された未練の記録。戦地へ送る予定だった料理のレシピ。

 どれも時間を挟んで枯れてしまっているようで、その中にまだ、自分の名前を探していた。

 リュミエールは、読み、書き、渡した。

 彼女が書いたのは、偉い言葉ではない。すぐに役に立つ言い方でもない。

 ただ、もう一度呼びかけるための一行。

 紙を見て、息を吸って、名前を読んで、それから歩き出すための一行。

 夕方、局の天窓から冷たい光が落ちた。風が変わる。遠くで鳥が鳴き、灰色の空に小さな群れが走る。

 カイルが古い仕分け機を叩いた。鉄の歯車がぎこちなく動き出し、レールの上に載せられたトレイが一段だけ滑る。

「これ、まだ動くんだ。みんな一小節だけ歌って、すぐ黙るけど」

 レールの先で、宛名のない束が揺れ、その揺れがリュミエールの胸に小さく波を立てる。

 彼女は便箋を懐に収め、外套の襟を立てた。立て方は静かで、躊躇いはない。

 扉の前で、カイルが呼び止める。「待って。道中、これは持っていってくれ」

 彼が手渡したのは、小さな木箱だった。蓋の内側に、短い説明が書いてある。手回しの印字機。気圧や湿度にかかわらず一定の濃さの字を出せる古い機械だ。封筒の表へ、消えない宛名を書くための道具。

 カイルは言う。「宛名を探す旅に、宛名を書く道具がいる。宛名がはっきりしていないとき、あなたの手は震えるかもしれない。震えるなら、それも字になる。震えた字は、読んだ人が震えを想像できる」

 扉を開けると、風が顔にあたり、灰の匂いが薄く変わった。

 局の外は、別の町のように明るいわけではなかった。でも、見上げた鳥の一群は、ちゃんと羽を畳んで、また広げていた。羽の根元に、本当に少しだけ、色が戻っている。

 敷居をまたぐと、背後でカイルの声がした。

「戻ってきたら、ここに座って、宛名を書き続けよう。俺はその間、運び続ける。眠ってるやつらを全部起こすのは、きっと俺たちの時代じゃ終わらない。けど、始めるのは、どうしても俺たちだ」

 リュミエールは振り返り、薄い板に一行書いた。

 始まりは、ここで拾いました。

 カイルはうなずき、笑った。笑い方は短く、長い疲れを少しだけ運び出す。

 町を抜ける道は、かつての国境へ続いている。標識は書き換えられた跡が幾度も重なり、誰かが上から新しい矢印を描いていた。夜になる前に、川を一本越える必要がある。

 道の脇で、ひとりの老婆が腰を下ろしていた。膝から上の布が濡れている。手に抱えた籠は空で、目だけがやけに若い。

 リュミエールが足を止めると、老婆は言った。「わたしの家はもうない。けれど、あの橋の名前は覚えてる。橋の名前を覚えていれば、道はひとつは残るものだよ」

 老婆は古い橋の名を口にして、彼女の掲げる封筒を見た。

「その人の友は、川向こうの小さな丘に眠ってる。丘の名前は変わったけど、川はあの頃のままだ」

 老婆の指が震えた。震えは寒さだけではない。

 リュミエールは短い礼を紙にして渡し、老婆はそれを声にした。

「どういたしまして。あんたの字は、暖かい。声みたいだ」

 宵の口、川にかかる古い橋に着いた。板はところどころ欠け、手すりの鉄は錆びている。それでも渡れる。渡る速度を一定にすれば、足場の悪さは怖くない。

 橋の真ん中で、風が強くなった。袖口から入った冷たさに、胸の奥が張り詰める。

 懐で、便箋の角がかすかに温かい。手回し印字機の金属が、掌の熱を少しずつ吸っていく。

 対岸に、暗く低い丘が見えた。墓標の影が、不揃いに並んでいる。

 丘に上がると、草の匂いが湿っていた。古い墓は土に飲まれ、名の刻みは風に削られている。名を呼ぼうとして、喉は動かない。喉の代わりに、指が動いた。

 彼女は土の上に膝をつき、便箋をそっと取り出した。

 宛名のない封筒に、印字機でゆっくりと文字を載せる。

 彼の名を、彼女の手で書く。震えは少しある。震えた部分は濃くなり、ところどころ点がはねる。

 書き終えて、リュミエールは封筒に小さな手の熱を押し当てた。

 言葉が、遠回りの果てに、今ここに乗っている。

 夜風の隙間で、鳥の羽音がした。

 灰色の空に、人影は少ない。代わりに、音がある。草を踏む足音。小川の薄いせせらぎ。石と石が擦れる音。

 リュミエールは封筒を胸に当て、短い文を心の中で読む。声にはならないが、読むことはできる。読むことは、渡すことの半分だ。

 足元の草に、薄い光が宿った。

 それは魔法でも儀式でもない。夜露に街の灯りが映っただけだ。けれど、そのささやかな反射の粒を見ていると、彼女の中の何かが、少しだけほどけた。

 風が背を押す。

 彼女は封筒を抱えたまま、丘を下りる。

 遠くで、鳥たちが羽ばたいた。灰色の羽の根に、ほんの少し色が混ざる。

 彼女は歩きながら、筆記板に一行だけ書いた。

 宛名を探す旅は、わたし自身を探す旅になる。

 その文字は、誰かに見せるためだけではなかった。自分に読み聞かせるための一行。

 紙に残った ink の匂いが、冷たい夜気に混じって、細く広がっていく。

 橋を渡り、道を行く。足跡はやがて風に消える。それでも、彼女が書いた宛名は、紙の上で消えない。

 今夜、世界のどこかで、ひとつの手紙が百年の眠りから目を覚ます。

 そして、まだ眠っている無数の「あなたへ」に、微かに風が通う。

 リュミエールは胸の前で封筒を持ち直し、次の足場を確かめた。

 空は変わらず灰色だが、読むべき文字がたくさんある。

 彼女は、それらすべてを読みに行くつもりだった。

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