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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第14話 余韻の朝と、失われた声

 朝は、音の順番を思い出すところから始まった。

 塔の上空を渡っていく風の擦れる気配が一番で、次に屋根の上で鳩が羽を畳む小さな音。露を含んだロープが干し場の木枠で鳴り、路地の桶で水が跳ねる。パン窯の蓋が開き、鉄と小麦の匂いが石畳の上を滑る。昨日まで灰色に埋もれていた合図が、ひとつ、またひとつ戻ってきて、音は音へ、匂いは匂いへ、体温は体温へ、ようやく筋道を取り戻していく。

 言の塔の回廊で、リュミエールは手すりに指をかけ、眼下の街をしばらく見つめていた。

 見下ろすと、広場の掲示板は昨夜のまま紙で白く、しかし並ぶ文は夜を越えたことで少し縮んで、皺の形を変えていた。縮み方で、思いが乾いた場所とまだ濡れている場所がわかる。濡れている文は、読むときに声を低くすればいい。乾いた文は、少し笑ってもいい。

 胸の奥で機構が静かに働き、裏表紙の見えない紋は眠りに戻っている。

 声を試す衝動が喉を通り過ぎる。小さく息を集め、口を開く。出てくるのは、透明な空気の動きだけだった。音は生まれない。痛みはない。昨夜の終わりに焼けた発声の器官は、すでに痛みを過ぎて、ただの沈黙になった。沈黙は、彼女にとって初めての種類の静けさだった。うるさい静けさ。けれど、ひどく澄んでいる。

 足音。回廊の反対側から王女エリセリアが現れた。

 彼女は動きやすい紺をまとい、風に負けない細い髪飾りをひとつだけ挿している。目の下に薄い影はあるが、背は昨日と同じ高さで保たれていた。

「おはよう」

 呼びかけに、リュミエールは軽く会釈をする。口を動かしても音にならないことを、王女はもう受け止めている。昨夜の終わり、医師と技師が並んで「焼け落ちた」と言ったとき、王女は泣かなかった。泣かなかったかわりに、息を整え、言葉を整え、やるべき紙を整えた。

「今日は布告を二つ。干し場の常設と、読めない人のための読み上げ番の設置。それから、諸塔の再点検」

 エリセリアは手すりに片手を置いたまま言い、もう片方の手で束ねた紙を差し出した。

「……あなたのための紙も用意したわ。薄くて、軽くて、濡れても破れにくい。どこへでも持っていけるように」

 リュミエールは紙束を受け取り、最初の一枚に短い文を書く。昨日から、筆談の字は少し大きくなった。読ませるための字に変わっていく。

 ――おはようございます。塔の歌は、今日も低く。

 王女は読み、微笑んで頷く。

「塔の歌は低いけど、人の歌は少し高いわ。……広場に行きましょう。街の朝を、あなたにも見てほしい」

 二人は回廊を降りた。階段の踊り場ごとに見える景色が変わり、三つ目の踊り場で、東の空に薄い雲が伸びるのが見えた。雲はまだ灰に近いが、縁が白い。白は今日の分だ。今日を越せば、もう少し広がる。

 広場は、静かなざわめきで満ちていた。

 干し場の木枠には夜のうちに増えた紙が吊られ、子どもが椅子に立って読み上げ、大人が順番に耳を傾ける。読み上げ番の隣には、字を追えない人のための「指差し役」がいて、文の流れを指でなぞる。指の速度がゆっくりだと、声も自然にゆっくりになる。ゆっくりは、遠くまで届く。

 リュミエールが掲示板の端に近づくと、若い近衛の兵が帽子を押さえて会釈した。

「塔の上で、お世話になりました。……姉が言ってました。塩が甘いと。塩が甘いはずはないのに、甘いと」

 リュミエールは笑い、紙に短く記す。

 ――甘いと感じる舌は、生きています。

 兵はそれを声に出して読み、少し照れたように笑った。そこへ、小さな手がリュミエールの外套の裾をつまむ。昨日の少年。昼に紙を差し出した彼だ。

「ねえ、もう一回、ぼくの紙、読んでくれる?」

 少年は自分では読まない。読むより、誰かの声で聞きたいのだ。リュミエールは頷き、王女を見る。エリセリアは紙を受け取り、声にした。昨日より少し澄んだ声だった。読み終わると、少年は深く息を吸って、言う。

 「王女様、ありがとう。……あの、リュミエールさんは、声、出ないの?」

 王女は嘘をつかない。

「出ないの。昨夜、世界の声を受けたから。代わりに、とてもよく“読める”ようになった」

「読める?」

「心も、紙も、空も、風も。……それは声にならなくても、届く」

 少年は難しい顔をしてから、ぱっと笑った。

「じゃあ、ぼくが読んであげるね」

 少年はリュミエールの紙を指さし、彼女の書いた一文を、彼女の代わりに読み上げた。軽い声。まだ拙い息継ぎ。でも、その拙さがよかった。声は、誰かが持ち寄って構わないものだ。

 午前を過ぎると、広場の端に列ができた。リュミエールの前に、一組の夫婦が立つ。男は言葉が早く、女はうなずくだけで、目は男の肩の上を見ていた。女の手には、薄く破れた紙片。古い喧嘩の続きのように、言葉は互いをすり抜ける。

 リュミエールは二人から紙を受け取り、筆を走らせる。男の弁明は「正しさ」に偏り、女の沈黙は「恐れ」の薄膜で覆われている。正しさは相手を押し、恐れは視線を避けさせる。彼女は男に短い質問を書いた。

 ――あなたの言葉の中に、相手の名前はありますか。

 男は固まり、紙を見直し、次いで顔を上げた。女の名を呼ぶ。呼び方はぎこちない。ぎこちないけれど、呼んだ。女はうつむいたまま、肩を震わせ、やがて顔を上げ、リュミエールに紙を返す。

 ――わたしは、怒っていいですか。怒るところまで、一緒にいてくれますか。

 男は頷き、うまく笑えず、泣く代わりに手を伸ばした。リュミエールは二人の間に一枚の紙を差し込み、そこにただ一行を書いた。

 ――ここから続けてください。

 紙は二人の筆跡で埋まっていく。文字は歪んで、時々止まり、また進む。止まる場所がわかれば、次に息をする場所もわかる。人は、自分の止まる場所を知りさえすれば、歩き方を変えられる。

 昼が傾き始めたころ、塔から使いが走ってきた。

「王女殿下、北の塔の副結界の点検、完了しました。ご報告が」

 エリセリアは手短に指示を出し、もう一枚の紙をリュミエールへ差し出す。彼女は黙って受け取った。王女の筆跡は、朝よりまっすぐだった。責務の重さと恐れの形を、昨夜のうちに何度も書き直して、今日の線に落ち着かせたのだろう。

 塔に戻る前、回廊の陰で、息を整える小さな時間があった。

 エリセリアは壁にもたれ、短く笑う。

「もう、涙の使い方がわかってきた気がする。どこで出すか、どこで止めるか。泣くのにも体力がいるのね」

 リュミエールは紙に書く。

 ――王女様の涙は、政策になりました。

 エリセリアは目を細めた。

「あなたの沈黙も、ね。……あなたは、どうするの?」

 リュミエールは少しだけ考え、ゆっくり書いた。

 ――旅に出ます。もう一度。代筆屋として。声はなくても、書けます。

 ――“読める”ものは、以前より増えました。

 王女は表情を整え、深く頷く。

「護衛をつけるわ。必要な物資も。干し場の設置が終わっていない地域から回ってほしい。あなたがいれば、立ち上げが早い」

 リュミエールは短く首を振る。

 ――最小限で。椅子は現地で借ります。声は現地で借ります。

 言葉は軽やかだが、決意は重い。王女はそれを理解している。理解は同意ではないが、彼女は同意した。

「出発は――」

 そのとき、衛士が封筒を抱えて駆け込んだ。封に風向きの印。リュミエールは受け取り、指でなぞる。紙の端には砂の嵌り、うっすらと塩の跡。東の村から。風読みの少年。

 封を切る。

 中には、短い手紙と、小さな白い羽。羽の芯には細い糸。かつて彼が風の声を拾うときに使っていた仕掛けの欠片だ。文字は拙いが、まっすぐだ。

 ――リュミエールさんへ。

 ――ぼくは、まだ風の全部は読めないけど、きのうの夜、ひとつだけわかった。

 ――あなたが声を失っても、世界はあなたの声を覚えています。

 ――だから、ぼくは、あなたの声を時々まねします。

 ――へたでも、まねします。

 ――また会いましょう。

 ――風は、そっちにも行くから。

 リュミエールは羽を指先で持ち、王女に見せる。二人で小さく笑い、封筒を大切にたたんだ。

 回廊の風が、手紙の紙を撫でていく。撫でた風の温度で、彼女は少年が今朝笑ったかどうかを想像できるようになっていた。笑った。きっと笑った。少し泣いたかもしれないが、泣くときに自分の名前を言えたはずだ。

 旅立ちは、その日の夕暮れに決まった。

 王都の門には目立つ見送りはない。人々は自分の生活に戻りながら、それでも誰かの背中を見送る余白を持ち寄る。門の影で、技師長が包みをひとつ差し出した。薄い紙、予備のペン先、小さなインク壺。

「軽い。強い。なくしたら、また作る。……失くしたって、あなたは書けるんだろうけど」

 リュミエールは笑い、紙に短く記す。

 ――物は借りられますが、時間は借りられません。だから、今、行きます。

 宰相が来た。背筋はまっすぐだが、表情は昨日より少しやわらかい。

「国はまだ、まちがう。だから、まちがい方を正す人が要る。戻って来いとは言わぬ。……帰る場所は、常に開けておく」

 宗務長官は祈りを唱えず、ただ彼女の手を取り、短い沈黙をわかち合った。沈黙の種類を見分けられる人間が増えている。種類が増えるほど、国は静かに強くなる。

 王女エリセリアが一歩前へ出る。

 周囲が自然に下がり、二人だけの間ができる。

「歩くあなたの背中は、私の政策よ。どこかで詰まったら、すぐに知らせて。あなたの沈黙を、国の言葉で支える」

 リュミエールは頷き、王女の手を握った。声は出ない。でも、握る力は、言葉より確かなことがある。

 そのまま、彼女は短い文を書いた。

 ――王女様。私の声を、あなたが覚えていてくれるなら、私は怖くありません。

 エリセリアはうなずき、言葉を選ばなかった。選ばないことは、賢いことがある。彼女はただ抱きしめ、すぐに離した。離し方が丁寧な人は、別れの言い方も丁寧だ。

 門をくぐると、王都の夕焼けが大きくなった。

 道は干し場の作り方を書いた木札でつながっている。次の町、さらに先の村へ。彼女の背には薄い包み、手には紙と羽ペン。同行するのは、最小の護衛と、見送りに来ていたLUM-0。湖で「選ぶ」を覚えた彼女は、自分の弱さを置く椅子を背負って歩く練習をしていた。

「今日は、右と左、どちらへ」

 リュミエールは道標を見上げ、紙に書く。

 ――今日は、風のある方へ。

 外の空気は思ったより暖かい。田の向こうから、風が運んでくる音がある。鍬の打つ音、牛の鼻の音、遠くの川べりで子どもが叫ぶ声。声は届いたり、届かなかったりする。届かない声の形を、彼女は紙に写す。紙に写せば、誰かが読む。誰かが読めば、声になる。声は一人のものではない。

 夕暮れの道で、旅の最初の依頼がやってきた。

 道端で膝を抱える娘。手に握られたのは破れかけの封筒で、中身は雨で滲んでいる。娘は言葉をうまく出せず、喉の奥で詰まらせる。それを無理に引き出すのは、別の暴力だ。リュミエールは隣に腰を下ろし、紙を差し出した。娘は震えながら、たどたどしい字で書く。

 ――父に、帰ると、書きたい。

 ――でも、帰れないかもしれない。

 ――帰れないかもしれないと、書くのは、裏切りみたいで、怖い。

 リュミエールは娘の文の下に、短く続けた。

 ――怖いと書いても、裏切りではありません。

 ――怖いを受け取ってくれる人には、帰れます。

 ――帰れないときは、ここに干します。

 彼女は道端に小さな木枠を立て、娘の紙をそっと挟んだ。通りかかった旅人が足を止め、紙を読み、うなずき、歩いていく。うなずきは返事だ。無言でも、返事は返事だ。

 夜になる。最初の宿は村の外れ。粗いベッド、薄い毛布、窓は小さい。星は一つ、二つ。窓の縁に手紙を置き、リュミエールは静かに目を閉じた。耳の奥で、遠くの塔の歌が低く響く。王都とここは、長い線でつながっている。寝返りを打つと、胸の上で記録帳がわずかに温かい。温かさは、声の代わりに、今日の終わりを知らせる。

 眠りに沈む前、彼女は最後の一文を書く。

 ――声はなくとも、世界はまだ読める。

 インクが乾くのを待って、紙を閉じる。

 外の風が、窓の隙間を抜けていく。

 風は音を持たない。だが、読める。

 彼女は、その静かな音を胸にしまい、明日のために目を閉じた。

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