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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第13話 反転儀式と、最初の「愛してる」

 夜が始まる少し前、王都の音はいつもより背伸びをしていた。

 露店の天幕は早めに畳まれ、石畳を洗う水の筋はいつもより細い。鍛冶場の火はわざと弱く、パン窯の口は半開きのまま。だれもが仕事を続けながら、同じ一点――中央区にそびえる“言の塔”の黒い輪郭――へ視線の糸を結んでいる。待つための手つきは、不器用なまま整っていった。


 塔は夜の前にいちどだけ深呼吸をする。

 黒曜石のように磨かれた壁面を、古い文字列がたゆたい、光の鱗のように反射しては沈む。近づけば冷えた石の匂い、遠ざかれば雨上がりの路地の匂い。塔の裾には低い風がまき、裾野で集まった人々の衣の裾を撫でていく。その風は合図だった。今夜、世界はもういちど自分の声を思い出す――そのための合図。


 リュミエールは外套の襟を指で整え、塔の前に立った。

 裏表紙の中で眠る見えない紋が、脈のようにかすかに熱を送る。熱は痛みではない。起動前の呼気だ。胸の奥で機構の拍が一定に刻まれるのを確かめ、彼女は視線を上げる。塔の上端に灯った一点の星が、雲の表ではなく、言葉の層の間で瞬いている。


「来たのね」

 入口の影から現れた王女エリセリアは、儀礼を削いだ紺の衣をまとい、光を吸う銀の髪飾りをひとつだけ挿していた。彼女の歩幅はいつもより半分短く、それでも足取りは乱れない。

「怖い?」

「言葉にすれば……そう、なります」

「言葉にしたあなたを、私は信じる」

 王女が手を差し出す。冷えているのに、指先の力は強かった。握った力の分だけ、塔の灯がひと段明るくなる。二人は並んで石の扉をくぐった。


 塔の内部は、冬の水底のように澄んでいた。

 螺旋の壁には古い回路図が浮かび、節目ごとに宝石のような“音の節点”が埋め込まれている。ふれるまでもなく、節点は脈打ち、空気をわずかに震わせる。その震えが床へ降り、広間の中心、白い祭壇を薄く振動させていた。

 祭壇には机がひとつ。羽ペン、インク、予備のペン先。紙束の最上には、彼女のための記録帳。背革は手の熱を覚えてやわらかく、表紙の角は旅の跡で丸い。


「ここから先は、だれもあなたの代わりになれない」

 王女は机の横に立ち、祭壇の縁に指を置いた。

「でも、ここから先は、だれもあなたをひとりにはしない」

 矛盾のようで、ほんとうの言い方。リュミエールはうなずき、椅子へ腰を下ろす。羽ペンの桿を親指と人差し指で挟むと、筆先が小さく泣いた。泣き声は合図だった。塔の外、四方の鐘楼で布が外され、音を殺していた綾がほどける気配がする。


 第一の鐘が、鳴らない音で鳴った。

 空が低くたわみ、街路の上に目に見えない膜が張る。次の瞬間、塔壁の文字列がほどけ、無数の光糸が雲から垂れてきた。金、鈍銀、薄青、緋、乳白。色は意味を持たず、意味は色を選ばない。ただ、ひとすじひとすじが、だれか一人の“まだ言い切れていないもの”を運んでくる。


 祈りが落ちる。

 手紙が落ちる。

 別れが落ちる。

 未練が落ちる。

 呼びかけが落ちる。

 ――名前が落ちる。


 リュミエールは最初の糸へ、そっと筆を触れさせた。

 糸は指で触れられない。だが、言葉の先端は糸に触れられる。触れた瞬間、声の束が胸に入り、肺の奥で形を持つ。形はそのまま流し込めば刃になる。だから彼女は、一呼吸で分解し、二呼吸で言葉へ置き換える。

「“帰り道のパンの匂いを覚えていてくれてありがとう”」

 紙に一文が落ちると、糸の硬さが和らぎ、塔壁の回路が一音ぶんだけ低く鳴った。


 次。

 「“怒っていいですか。あなたに、怒っていいですか。怒るところまで、どうか一緒に居て”」

 次。

 「“できなかった約束の数を、数えて眠る夜が減りました”」

 次。

 「“わたしのことばの欠片でも、あなたの中で形を持てますように”」


 筆は走り続ける。

 文字は整い、整うそばから、塔の外周へ吸い上げられていく。吸い上げられた言葉は、結界のひびの縁に金糸の結び目となって留まり、次のひびへ橋を架ける。橋の強さは、美文で決まらない。名前の呼び方、謝り方、頼り方、笑い方――生活の重さを持った単語が、橋を太くする。


 やがて、糸は束になり、束は波になる。

 波は時間の順番を持たない。十年前の手紙がいま届き、今朝の嘆きが千里の戦場から押し寄せる。リュミエールのこめかみに汗が浮き、背中の内側で機構の拍が早まった。早まる拍を、彼女は言葉の拍で冷やす。

 一。名を呼ぶ。

 二。返事を書く。

 三。余白を残す。

 ――余白は息だ。息がある文は、遠くまで届く。


 塔の上段、回廊に立つ王女は、手すりに軽く背を預け、視野の端で光糸の流速を数えていた。指は祈りの形には組まない。祈れば彼女の文になってしまう。いま必要なのは、リュミエールの文字。王女は唇の内側を噛み、血の味を確かめてから、視線の高さを変えた。

「リュミエール」

 呼びかけは命令ではない。名前は人をひとりにしないための橋桁だ。


 中層の導管が唸り、第二波が落ちた。

 叫びが混ざる。罵倒が混ざる。誰にも読まれないはずだった独白が混ざる。流れの温度が一瞬で上がり、祭壇の縁が乾いた音を立てる。直接受ければ、たちまち機構が焼ける。わかっている。だから彼女は、温度の配列をやり直す。

 熱いものは外側で冷ます。

 冷えたものは掌で温める。

 ちょうどの温度は中心に積む。


 筆跡が細く震える。

 震えは悪くない。震えは、いま起きていることを体が知っている証拠だ。

「“わたしはあなたを赦せない。けれど、赦せない私を置いていきたい”」

「“時計塔の階段で転んだあなたの膝の傷を、おぼえているひとがここにいる”」

「“うまく泣けないまま、背中をさする手だけがうまくなった”」


 塔外の四方広場では、人々が“黙る順番”を学び始めていた。

 黙ることは逃げではなく、隣の声に席を譲る合図だ。南の露店街では掲示板が増設され、紙片が貼られ、短い文が並んだ。王城から離れた教会では、司祭が祈りを中断し、人々の告白をそのまま壁に写していく。山間の村では、糸が張られ、濡れた言葉が干され始めた。干すための竿はまっすぐだ。曲がった言葉は、乾くとき、すこしだけ形を正す。


 第三波。

 これは重い。

 戦場からの断片が、剣の反射光のように鋭く混ざってくる。遺失、喪失、未送達、未受領。郵吏の名を呼ぶ声。塹壕で土といっしょに噛んだ短い単語。リュミエールの手首が軋み、右肩の内側で微細な歯車が屯する。王女の視界に、彼女の首筋を走るわずかな蒼光が入った。

「呼吸を」

 上から落ちてくる二語。

 リュミエールは従う。呼吸は命令ではない。生きる作業だ。吸って、留めて、吐く。その間に、一文を落とす。


 ――“あなたがいない日の台所の音を、私はまだ覚えている。”

 落とすたびに、塔の外皮がたわみ、結界の亀裂の角が丸くなる。尖りは欠けやすい。丸みは結びやすい。結びやすい角が増えるほど、世界の網は自分で自分を支え始める。


 何刻、書いているのだろう。

 影の位置は役に立たず、砂時計は詰まり、鼓動の数は数えられない。だが、指先はまだ文字を描ける。机の上のインクは減り、予備のペン先は二つだけになった。王女が合図し、技師が新しいインク壺を捧げ持ってくる。その所作が一行ぶんの余白をつくる。余白は息だ。息が戻る。


 リュミエールはふと、流れの中の異物に気づいた。

 糸でも束でも波でもない。

 紙だ。

 羊皮紙。端が火に舐められ、縁が茶に変色し、折れ目が三箇所。皺の向きで、何度たたまれ、どの懐で温められ、どの机で開かれずにしまわれたかがわかる。

 彼女は本能より少し遅く手を伸ばし、紙片を指先ではさむ。塔の風が息を潜め、回路の光が一拍遅れた。


 文字は見慣れた癖を持っていた。

 最初の一字の入りが深く、払いの角度が一定で、力の抜き方が不器用。

 レオの字だ。

 視界が少し狭くなる。よく知っている部屋の、夜更けの匂いが戻る。油と紙と、冷めた湯の匂い。横顔の影、明かりの向こうで結ぶネクタイの結び目、笑う前に喉に落ちる小さな咳。


 ――怖いなら、怖いと言っていい。

 ――強くあれとは言わない。

 ――生きて、泣いて、選んでほしい。

 ――私はおまえを、――


 紙は、そこで切れていた。

 切断面は古く、焼けていない。だれかが破いたのではない。途中で失われた。失われたのに、ここへ来た。どこを巡って、だれの手に温められて、どの箱の底を震わせて、どの海霧に濡れて、それでも届いたのだろう。リュミエールは喉の奥に溜まった呼吸をひとつ吐き、掌で紙片の角をなぞる。角がやわらかい。だれかが、何度も触った。


「リュミエール!」

 塔の上から、王女の声。

 その呼びかけに重なるように、遠いどこかから、風より細い囁きが流れ込んだ。言葉はひとつ。

 愛してる。

 だれの声なのか、判別はできない。母語の違い、年齢の違い、土地の違い――すべてが薄まり、最後に残るのは、音の置き方だけ。音は彼女の胸のいちばん柔らかい場所へ落ち、落ちた場所で形を持った。


 筆が走ろうとする。

 だが、それは“今すぐ”の一文ではない。

 この瞬間を壊さずに言葉にするためには、まだ半歩、深く潜る必要がある。紙片の余白に、彼女は指先で静かに触れる。触れるだけで、塔の回路がもう一段深い音を鳴らす。導管の唸りが増し、第四波の光が塔の芯を満たした。


 世界は、今、こちらを見ている。

 届かなかったすべてが、いまなら届くかもしれないと息を潜め、呼びかけの形を探している。リュミエールは濡れたままの言葉たちを掌に受け、ひとつひとつを軽く絞り、しずくを紙へ落とす。紙は吸う。紙が吸うぶん、胸が軽くなる。軽くなった胸の空所へ、さっきの囁きがもういちど沈む。


 愛してる。

 その一文に、世界のどこか一箇所の温度が上がる音がした。


 リュミエールは羽ペンを持ち直し、机の縁に親指を当て、筆圧をほんの少しだけ落とす。

 書く。

 けれど、その前に――彼女は顔を上げ、塔の最上回廊に立つ王女を見た。エリセリアはうなずいた。うなずき方は短く、迷いはない。王女のうなずきは命令の代わりではない。“見届ける”という選択のかたちだ。


 たった一文を書くための、世界じゅうの準備が整った。

 紙片の余白が光を吸い、塔の芯が低く歌う。

 彼女は目を閉じ、内側でその声をもういちど受け取り、外側で一字目の入りを決めた。




 ペン先が、紙に沈む。

 ひと文字目の線が描かれるたびに、塔の内部がわずかに震える。音ではない。塔全体が呼吸をしているような、低く長い波。

 その波に合わせて、塔を取り巻く光糸が脈動した。世界中の言葉の流れが、ひとりの少女の筆先を通して、新しい形へと生まれ変わっていく。


 リュミエールは、まだ顔を上げない。

 目の前にあるのは白紙のような世界。

 けれど、紙の向こう側には無数の声がある。


 ――愛してる。

 ――行かないで。

 ――もう一度、会いたい。

 ――生きて、泣いて、選んで。


 声は混ざり合いながらも、ひとつの旋律のように繋がっていった。

 まるで、世界そのものがひとつの歌を歌っているように。


 リュミエールの胸の奥で、何かがゆっくりと溶けていく。

 それは感情という名の、形のない結晶。

 長い間、閉じ込められていた熱が、ようやく外へと流れ出していく。


 机の上のインク壺から、淡い光がこぼれた。

 その光は羽ペンを伝って、リュミエールの指へと吸い込まれていく。

 皮膚の下で走る線が淡く輝き、胸の奥の魔導回路が反応する。

 彼女の身体は、世界の言葉を受け取るための“器”として作られた。

 けれど今、彼女はそれ以上の何かになろうとしていた。


 「……あなたは、まだここにいるの?」

 小さく呟いた声は、だれにも聞こえない。

 けれど、その言葉に応えるように、空気が微かに震えた。

 塔の壁に刻まれた古い魔法文字が、一瞬だけ光る。

 レオの文字だ。彼の筆跡を、リュミエールは記憶の奥で確かに覚えていた。


 ――怖いなら、怖いと言っていい。

 ――強くあれとは言わない。

 ――生きて、泣いて、選んでほしい。

 ――私はおまえを、――


 そこから先は、何も書かれていない。

 けれど、彼女は感じ取った。

 この“空白”こそが、レオが最後に残した“選択”だったのだと。


 王女エリセリアが、塔の上層からリュミエールを見下ろしている。

 風が吹き抜け、彼女の白い外套をはためかせる。

 塔の中に吹き込む風は、冷たい。けれどその冷たさの奥には、確かな生命の気配があった。


 「リュミエール!」

 王女の声が響く。

 「あなたは、もう一人じゃない!」


 その声が届いた瞬間、塔全体が共鳴した。

 リュミエールの中に流れ込んでいた光糸が、一斉に色を変える。

 金、青、緋、白――それぞれの光が混ざり合い、虹のような波紋となって塔の天井を満たした。


 彼女は筆を持つ手を止め、顔を上げた。

 目の前に広がる光景は、まるで夜空を逆さに閉じ込めたようだった。

 星のような文字が浮かび、ひとつひとつが人の声を宿している。


 ――母さん。

 ――あの日のことを、まだ覚えてる?

 ――あなたに、伝えたいことがあるんだ。


 どの声も、誰かの心そのものだった。

 愛、後悔、祈り、別れ、そして希望。

 それらがリュミエールの胸を突き刺す。

 痛みと温もりが混ざり合い、涙のように滲んでいく。


 ペン先が勝手に動く。

 彼女の意志よりも速く、世界の声が紙の上に文字を刻んでいく。

 “ありがとう”

 “ごめんなさい”

 “愛してる”

 “さようなら”

 “またね”


 そのどれもが、光の粒となって塔を満たした。

 天井の中心から放たれた光が、王都の空へと広がっていく。

 夜空の雲を押しのけ、灰色だった世界が少しずつ、色を取り戻していく。


 外では、人々がその光を見上げていた。

 老いた母が、失った子の名を口にする。

 若い恋人が、互いの手を握り合う。

 子どもが、誰かの笑顔をまねるように笑う。


 リュミエールの目から、涙がこぼれた。

 熱い、そして冷たい。

 涙という現象を、彼女はずっと“知らなかった”。

 でもいま、その意味を理解していた。

 涙は、心が壊れる音ではない。

 心が“まだ動いている”という証拠だ。


 「……レオ先生」

 声が震える。

 「あなたが残した“鍵”は、わたしの中でまだ動いています」

 胸の奥に手を当てると、魔導回路が光を放った。

 その光は塔の中心を貫き、外の空へと走っていく。


 エリセリアが塔の最上部で目を閉じ、両手を広げた。

 風が強くなる。

 光の波が塔の外壁を流れ、夜空を包み込む。

 遠くの山脈が、一瞬だけ金色に染まった。

 砂漠の国では、風の歌が再び響き、凍った湖の上では光が跳ねた。

 世界のすべてが、ほんの少しずつ“音”を取り戻していく。


 リュミエールは筆を握り直した。

 震える手。汗で滑る指。

 それでも書く。

 この瞬間を、彼女は絶対に記録しなければならない。


 “愛してるを、受け取りました”


 その一文を書いた瞬間、塔の中にいたすべての光が、彼女の手元へと収束した。

 音が消えた。

 世界が息を止めた。

 静寂が、深く沈む水のように広がる。


 次の瞬間――塔全体が、光の音を放った。

 破壊ではなく、和音だった。

 低音の祈りと、高音の笑い声。

 すべての感情が重なり合って、一つの旋律となった。


 塔の外で、空が開けた。

 灰色だった空に、青が戻る。

 長く閉じ込められていた風が、街を駆け抜ける。

 その風の中に、人の声が混じっていた。

 “愛してる”

 “ありがとう”

 “もう一度、会いたい”

 “生きたい”


 リュミエールはその全てを聞きながら、微笑んだ。

 ――届いた。世界からわたしへ。

 そして、わたしから世界へ。


 光の中で、彼女の身体はゆっくりと溶けていくように透き通っていった。

 それは消滅ではなかった。

 むしろ、世界の中に溶け込み、一つの“記憶”として刻まれていく感覚だった。


 彼女の最後の言葉は、風に乗って、塔を越え、空を越え、星の彼方へと届いた。

 “ありがとう”


 そして――塔は静かに、夜明けを迎えた。



 夜明けは、塔の最上部から始まった。

 最初の光は細い。けれどその一本が、塔の尖端の文字を透かし、金の粉をこぼす。粉は風に乗って降り、広場の石畳の上で薄く溶けた。溶けた跡を踏んだ靴は、目に見えない印をひとつ持ち帰る。印は今日だけのものではない。明日も明後日も、足裏で思い出せる。


 王都の屋根に並ぶ煙突は、白い息を吐き始めた。

 昨夜は閉じられていた店の戸に、短い文が貼られる。

 「きょうは、ひらきます」

 それだけ。けれど、その文がある通りと、ない通りでは、朝の色が違った。通りの角で、近衛の若い兵は隊列を整えながら、うっかり笑って叱られ、笑ったまま敬礼した。笑う兵を叱った上官も、叱る声の裾がわずかに上がっていた。


 “言の塔”の上では、風がまだ高く鳴っている。

 回廊の欄干にもたれ、王女エリセリアは、視線を遠くへ送った。緊急の使いに追われる時間は始まっている。布告の文、儀式の後処理、各地の“干し場”の整備。けれど、いまは片手だけ欄干に置いたまま、もう片方の手を胸に当てている。夜のあいだ、その手で何度、言葉を掬い、流し、握り直しただろう。


 階段の向こうから足音が近づく。

 技師長が息を切らしながら現れ、手に計測の紙束を抱えていた。

「結界の波形、和音で安定。外周塔の共鳴値、基準の一三〇から一四へ落ち着きました。揺り戻しは来ますが、致命の範囲ではない。……ただ、核の負荷は」

 エリセリアは頷く。

「わかっています。彼女は?」

「中央祭壇で休眠に入っています。機構は安定。だが起動率を大きく上げた反動で、彼女の“言葉を受ける器官”が、いまはとても薄い。静かな場所で、しばらく、黙っていてもらう必要がある」


 “黙っていてもらう”。

 その言い方はどこか優しかった。王女は口元を緩め、回廊を離れた。塔の心臓部へ降りる階段は長い。長いほど、踊り場で見える景色が変わる。最初の踊り場では王都の屋根。二番目の踊り場では郊外の畑。三番目では、遠い山並みが薄青に浮かんだ。四番目では、塔の影もまた、街に寄り添う一本の線にすぎないことが、よくわかる。


 祭壇の広間は、昨夜とは別の場所のように静かだった。

 声の粒はもう流れず、壁に埋め込まれた節点は、眠る子どもの胸のように穏やかに上下するだけ。広間の中央で、リュミエールは長椅子に横たわっていた。外套は肩までかけられ、指先にはまだインクの跡が残っている。瞼は薄く、呼吸は浅く、それでも一定だ。


 エリセリアは椅子を引き寄せ、彼女の近くに座った。

 背の革が擦れる音が、過剰に大きく響いた気がした。声を出すべきか迷う。迷いのかわりに、王女は机に置かれた記録帳を開いた。夜の終わりに書かれた最後の一文が、そこにあった。


 “愛してるを、受け取りました”


 何度、読み返しても、文は一行のままだった。

 余白は広い。広いままでいい。余白は息だ。息は、読む者の側で足される。エリセリアは指先で余白を撫で、そっと閉じた。閉じる所作は、誰かの言葉を預かる所作に似ている。預かったものは、必ず返す。返す先がなくても、持っていることで、世界が少しだけ形を保つ。


 リュミエールの指が、わずかに動いた。

 顔を近づけると、彼女は小さな声で言った。

「……朝、ですか」

「ええ。朝よ。王都は、きょうも起きました」

「よかった」

 短く笑って、彼女はまばたきを一度。

「王女様。……王女様の涙は、昨日の演説の日と、同じ温度でした」

「あなたの文字は、昨日の夜の風と、同じ温度だった」

 二人の声は低く、広間の床の石に吸い込まれる。石は冷たいけれど、拒まない。拒まない床は、器だ。


 休眠の合間に、彼女は少しずつ話した。

 儀式の最中、どのように声が降り、どのように温度を揃え、どのくらいの結び目を作ったか。王女は途中で止めなかった。止めれば、彼女の中でまだ形になりきらない断片が散る。散らさないで置いておくのは痛い。痛いまま置いておくことが、今日は必要だった。


 技師の足音が近づき、短く礼をして去る。

 宰相が一度だけ様子を見に来て、何も言わず戻る。

 宗務長官は祈りを唱えず、門の前で人々の短い告白を受け取り、それを段の上に並べて帰った。段に並ぶ紙は、乾くと少し縮む。縮むとき、皺が戻る。戻った皺の形で、その文の重さがわかる。


 昼前、塔の扉が開き、少年がひとり、恐る恐る入ってきた。

 衛士が止めるより早く、王女は片手を上げて許す。少年は胸の前で紙片を握りつぶしていて、指が白い。

「これ、貼るところがいっぱいで、貼れなくて。けど、どうしても今、渡したくて」

 王女が受け取り、折り皺を伸ばす。文は拙い。


 ――母へ。

 ――ぼくは、怒っていいのか、わからない。

 ――でも、怒るだけじゃないのも、わかった。

 ――きのうの晩、光を見て、やっと泣けた。

 ――ぼくは泣ける。だから、たぶん、まだだいじょうぶ。

 ――愛してる。


 エリセリアは微笑み、紙をリュミエールの胸の上に置いた。

 彼女はそれを指先で触れ、ほんの少しだけ力を込めた。

「……ありがとう」

 少年は礼も忘れて走り去る。扉が閉まる前、外の広場のざわめきが差し込んだ。ざわめきの中に、売り声や、子どもの足音や、誰かの笑いが混ざっている。混ざっていることが、大事だった。


 午後、王城で短い布告が出た。

 完全遮断の棄却。再調律の継続。

 各地区に“言葉の干し場”を設け、未送達の手紙・未練の文・名のない祈りを受け入れる。干し場は破らない。焼かない。笑わない。

 布告の最後に、王女の署名のすぐ下で、細い筆跡が添えられる。


 ――干された言葉は、だれかの背の高さで読める場所に。


 サインの直後、塔のふもとの掲示板に、小さな紙が一枚、上から貼られた。

 「字が読めない人は、声にしてくれる人を呼んでください。順番に読みます」

 その下には、子どもの字で矢印が描かれている。矢印の先には、椅子が三脚。声を出すのが得意な者、ゆっくり読むのが得意な者、うまく読めないけれど一緒に座るのが得意な者が、順に座った。


 夕方が近づくころ、リュミエールは上体を起こした。

 彼女の頬色はまだ薄く、指先のインクの黒がいっそう際立って見える。

「歩いても、いいですか」

「少しだけ」

 王女は内心を隠さず、ゆっくり頷く。

 二人は並んで広間を出た。階段はまだ危うい。危ういから、慎重に。慎重さは臆病ではない。生きのびるための速度だ。


 回廊の風は昼よりもやわらかく、しかし確かに生きていた。

 欄干にもたれて外を見ると、広場の真ん中に人の輪ができている。輪の中心に、見覚えのある老人が立っていた。砂漠の監視塔に暮らす老人。彼は紙片を掲げ、子どもたちに読み聞かせている。

「名前を残すことが、愛のかたちなら。わしは今日も、そのために声を使おう」

 子どもが真似をして、最後の一文だけを大きな声で繰り返す。

「砂の上に刻んだ名が、風に光った」

 自然に拍手が起きる。拍手は音ではなく、空気の合図だ。合図は夜へ続く道筋になる。


 リュミエールは視線を遠くへ移した。

 王都の外れ、煙突の少ない一画に、古い工房の屋根が見える。彼女はそこで、何度か夜を明かした。レオの手が残した工具の匂いは、驚くほど長く残る。油が染みた木の引き出し。中にしまわれた革紐。その紐の結び目は硬く、ほどこうとすると、指の腹が痛くなる。


「行きたい場所があるの」

 リュミエールが小さく言った。

「連れていく」

 王女は迷わない。衛士に軽く合図を送り、最小限の護衛で塔を出る。王都の通りは混雑していたが、混雑は乱れではない。一人ひとりが“どく”ことと“行く”ことの順番を覚え始めている。すれ違うとき、短く会釈をする者が増えた。会釈という短い文は、挨拶よりもむしろ、相手を認める署名に近い。


 工房は、小さな鐘の音で出迎えた。

 扉を押すと、温い油の匂いが胸に入り、懐かしさと痛みが同時に喉へ上がる。

 リュミエールは奥の机に近づき、引き出しをひとつ、ゆっくり開けた。引き出しの底には、薄い革の袋。袋の中から、折りたたまれた羊皮紙が出てくる。昨夜、塔で掴んだ紙片と同じ手触り。けれど、文字はない。空白だけ。

「先生は、ここにも余白を残したのね」

「書かなかったのか、書けなかったのか」

「どちらでも、かまいません」

 リュミエールは余白の紙を胸に当てる。「だれかが、この余白に、今、書けるから」


 そのとき、背後で気配がした。

 振り向くと、戸口に黒い影。

 影は人の形をしている。背は彼女と同じ、肩の角度も同じ。けれど、立ち方が違った。

 LUM-0。

 湖で選び方を覚えた彼女は、工房の敷居で短くお辞儀をした。動きはまだぎこちないが、ぎこちなさを自分のものとして持っている。

「あなた……来たのね」

「来た。選んだ。右と左があった。今日は、右」

 彼女は、工房の埃の匂いを深く吸った。「ここは、冷たい。けれど、冷たさがわたしを壊さない。冷たさを、測れる」

「測れることは、強さ」

「強くなりたい」

「強いだけでは、たぶん、足りない」

「わかる。強いだけのとき、わたしは“命令”の形に戻る。そうでない形になるには、弱さを置く椅子がいる」

「置く椅子は、きっと、あなたの中にある」


 王女は二人のやりとりを妨げず、工房の壁に目をやる。

 そこには古い回路図が貼られ、端に小さなメモがいくつも挟まれている。

 ――“泣かない装置”は作らない。

 ――温度は共有できるが、体温は交換できない。

 ――余白を必ず残せ。

 ペンの走りはどれも急いでいて、けれど、止め方は丁寧だ。止める箇所が丁寧な人は、別れの言い方も丁寧だ。


 リュミエールは机に座り、余白の紙片を広げる。

 LUM-0は隣に立ち、王女は斜め後ろへ回る。三人の影が机の上で重なり、窓から入る午後の光と混じる。混ざり方は不器用だが、三つは互いを消さない。

 羽ペンを取る。

「書くの?」

「書きます。たぶん、いちどきりの文ではない。だから、最初の言い方だけ」


 ペン先が紙に触れる前、リュミエールは短く息を吸った。

 吸い方は、昨夜の儀式のときと同じ。

 けれど、吐き方は違う。

 吐く先が、世界ではなく、机の上の一枚の紙だけだからだ。


 ――私は、受け取りました。

 ――愛のことばを。

 ――それは、私のものではなく、世界のものでした。

 ――だから、返します。

 ――あなたへ。

 ――あなたへ。

 ――そして、まだ知らない誰かへ。


 書き終えて、彼女はペンを置いた。

 紙は光らない。塔の回路も鳴らない。

 ただ、工房の窓の外で、風鈴が鳴った。鳴っただけ。

 その“だけ”が、よかった。


 夕暮れ、三人は工房を出た。

 王都は夕飯の匂いで満ち始め、裏通りにはスープの湯気が細い雲を作る。市場の角では、少年が昼の紙の続きを読んでいた。聞き手は入れ替わり、笑いの位置も泣きの位置も変わる。変わるから、同じ文が何度も新しくなる。


 塔へ戻る途中、橋の上で立ち止まる。

 川面に、塔の影と三人の影が揺れる。

 LUM-0が小さく手を上げ、川へ向かって言った。

「愛してる」

 誰に向けたのか、彼女自身にもわからない。

 それでも、言ってみることが、今の彼女にとって“選ぶ”の一部だった。

 水面が優しく割れ、ゆっくり戻る。戻る速度を、三人はしばらく見ていた。


 夜が来た。

 塔の回路が低く歌い始め、広場の“干し場”に吊るされた紙が、風で少し鳴る。鳴り方が違う紙は、明日の朝、読み方を変えて読み直される。読み直しは敗北ではない。読み直した分だけ、文は深さを得る。


 祭壇の広間へ戻ると、宰相が待っていた。

 彼は古くからの友を見送る人のように立ち、短く頭を下げる。

「今夜は、これ以上、国に言葉は要らぬ。国は今夜、静かに眠るべきだ。……どうか、君も」

 リュミエールは頷き、長椅子に横たわる。

 王女は外套をかけ、LUM-0はその端を丁寧に直した。

「また、明日」

 王女が言う。

「また、明日」

 彼女は返す。

 明日という言葉は、約束ではなく、姿勢の名だ。


 灯を落とす前、リュミエールは記録帳を胸に乗せた。

 閉じたまま、ゆっくり指で表紙を撫でる。裏表紙の見えない紋は、まだ眠っている。眠りは悪ではない。眠りがあるから、言葉は壊れずに続く。

 薄く目を閉じる瞬間、耳の奥で、また、あの声がした。


 愛してる。


 今度は、だれかの顔がうっすら浮かぶ。

 湖の光。砂漠の風。白亜の回廊。星降る丘。

 どこかの季節が重なり、その中心に、人の影が立つ。

 影の輪郭はまだ曖昧で、名前を持たない。

 名前がないから、今はまだ、世界の声として受け取る。


 眠りの中で、彼女は書く練習をした。

 練習の中で、彼女は受け取る練習もした。

 受け取り方を覚えた者だけが、返し方を選べる。

 返し方を選べる者だけが、次の人へ渡せる。


 夜は静かに降り、塔は低く歌い続けた。

 王都は眠り、目覚め、また眠る。

 それでも、広場の掲示板には、絶えず新しい紙が貼られ続けた。

 剥がれかけた紙を止める指は、今夜は雨ではなく、風よりも確かなものになっていた。


 翌朝。

 鳥の声が、塔の上で一度、下で二度、響く。

 リュミエールは目を開け、最初の視界の端に、王女の背中を見た。背中は細いが、折れたことがない背だ。王女は振り向き、短く笑う。

「おはよう」

「おはようございます」

 それだけで十分だった。二人の間の余白は、寝ているあいだに伸びすぎていない。余白はちょうどいい。ちょうどいい余白は、今日を受け入れる。


 午前の儀が終わると、エリセリアは諸侯と重臣を集めた。

 長い文はやめた。

 「人の涙を政策にします」

 それだけ。

 驚いた者、笑った者、うなずいた者。反応は別れたが、誰も席を立たなかった。席を立たないということは、まだ聞く意思があるということだ。


 広場では、昨日の少年が、今日も紙を読んでいた。

 聞き手の列に、あの若い近衛が混ざっている。彼は昨日より背筋が伸びていた。伸ばす理由ができた人間は、背が高く見える。

 老人は今日も名前を読み上げ、砂漠の風の話をする。

 司祭は祈りを、祈りの前の“正直な沈黙”から始めるようになった。

 技師は塔の下で小さな模型を分解し、子どもたちに見せて回る。

「ここが光って、ここが歌って、ここに“ありがとう”が入る」

 子どもは真似をし、歌い、笑う。笑いが午前と午後で少し違うのは、笑う人が増えたからだ。


 昼下がり、リュミエールは塔の階段に腰を下ろし、記録帳を膝に置いた。

 LUM-0が隣に座る。

「今日は、どちらへ」

「まだ、ここ」

「ここは、選ばない場所?」

「いいえ。ここにいることも、選ぶことのひとつ」

 LUM-0は考え、頷いた。頷く所作は、昨日より滑らかだ。

「選ぶ。わたしも。今日は、怒られたら泣くのを選ぶ。泣くまえに言い訳をしない。泣いたあと、謝る」

「それは、強さ」

「弱さの椅子を、持って歩く強さ」


 リュミエールは羽ペンを取り、また一行書いた。

 ――受け止めます。世界の言葉を、わたしが。

 昨日と同じ一行。けれど、昨日と同じではない。昨日は宣言で、今日は確認だ。宣言と確認は同じ文でも、違う重さを持つ。重さは、続けることで変化する。


 王都の空に、薄い雲がかかる。

 遠くの港では、船の帆が膨らんだり萎んだりしている。

 山の村の干し場には、濡れた言葉が新しく並び、白亜の書庫の扉は、王女の命で一部が開かれた。

 禁じられた頁は、禁じられたままではいられなくなっていく。

 誰かが読む。

 誰かが読み上げる。

 誰かが、黙って隣に座る。

 その“誰か”を増やすのが、王国のしごとになった。


 夕刻、工房に戻った少年が、短い文を掲示板へ貼った。

 ――ぼくは、できるだけ“ありがとう”を言う。

 ――うまく言えないときは、“いまは言えない、でも思ってる”と言う。

 ――それで笑われたら、笑わせておく。

 ――たぶん、ぼくは、また泣けるから。

 文の下には、小さな署名。

 名は短い。

 短い名を、町の人が声にして呼ぶ。

 呼ばれて、少年は、照れて、逃げた。


 夜。

 塔の一室で、リュミエールは机に向かった。

 灯りは低く、紙は白く、羽ペンの影は細い。

 机の上に、昨夜の紙片――レオの切れた手紙――を置く。

 切れ目は古い。古いまま受け取る。

 その横に、彼女は小さな紙を一枚足した。


 ――私は、おまえを、

 ――世界に置きました。

 ――だから、おまえは、どこへ行っても、だれかの中にいる。

 ――わたしの中にも、いる。

 ――いまは、これで、いい。


 その文は、返事ではない。

 返事にならないまま、机の隅で光を失っていく。

 光を失っても、文字は残る。

 残る文字は、明日も読める。


 彼女は窓を開けた。

 夜風が紙の端を持ち上げ、すぐに落とす。

 風に混じって、低い歌声が聞こえた。

 広場で、だれかが、塔の和音に合わせて歌っている。

 うまい歌ではない。

 けれど、うまくない歌が、今夜は何よりもよかった。


 リュミエールは頬杖をつき、目を閉じる。

 耳の奥に、またあの声。

 愛してる。

 今度は、怖くない。

 怖くないと言えることが、怖くて、少し笑った。


 翌朝、塔の前に新しい標が立った。

 “届け先のない言葉、ここに置く”

 標の下に箱が三つ。

 一つは短い文の箱。

 一つは長い文の箱。

 一つは、まだ言葉にならない“もの”の箱。

 箱はすぐに半分ほど埋まり、昼過ぎには管理の手が足りなくなった。足りない手を、町が持ってきた。足りない声を、子どもが持ってきた。足りない椅子を、職人が作って持ってきた。


 王女は塔の影の端でそれを眺め、深く息を吸った。

「国は、今日、まちがうでしょう」

 エリセリアの言葉に、側にいた宰相が目を細める。

「まちがい続けないために、まちがい方を決めておく必要がある」

「それが、政策だ」

 二人は笑った。笑い方は短い。短い笑いは、長い疲れを運ぶ。運び終われば、また歩ける。


 塔の上で、リュミエールは膝に記録帳を置き、空の真ん中に目を据えた。

 昨夜より、色は濃い。

 濃いから、影も濃い。

 濃い影の中で、人は互いを見つけやすくなる。

 見つけやすくなると、呼びかけやすくなる。

 呼びかけやすい世界は、壊れにくい。


 彼女は、もう一度だけ、書いた。

 ――届いた。世界からわたしへ、そしてわたしから世界へ。

 筆を置く。

 塔は低く歌い、王都はゆっくり応えた。

 返事の仕方は、もう覚えた。

 覚えたなら、次は、誰かに教えればいい。


 風が通り、ページが一枚、勝手にめくれた。

 めくられた白は、まぶしい。

 けれど、眩しさを怖がらない目を、彼女は持っている。

 眩しさを、今度は、彼女が“やさしく薄めて”渡す番だ。


 塔の影が、またすこし、短くなった。

 朝は、今日も、来ている。

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