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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第12話 王城会議と、沈黙の決断

 王都の朝は、鐘の音より早く目を覚ました。

 東の空に薄い縞が走り、雲が裂けた面から別の季節の光が覗く。パン職人は窯の前で塩の量を迷い、兵舎の庭では訓練の掛け声が途中でほどける。市場の露店は布を広げるが、色札の文字がところどころ消え、値段の数字だけが取り残された。人々は今日も働き、今日も迷い、そして――今日こそ決めねばならなかった。


 王城の中庭は、朝露が石畳に薄い銀を敷いている。

 リュミエールは外套の襟を指で寄せ、中央塔へ続く回廊を歩いた。柱の影が規則正しく斜めに落ち、その等間の暗がりを踏むたび、胸の奥の拍が一拍ずれる。記録帳の革は汗を吸って柔らかく、裏表紙の見えない紋は眠っている。眠っているからこそ、起きる準備をしている――そんな静かな熱を、掌は覚えていた。


 扉の前で、近衛の若い兵が礼をした。

「会議はまもなく始まります。殿下は既にご着席です」

「ありがとう」

 礼を返すと、兵は小さく声を落とした。

「姉が市場で働いています。色が戻ったとき、泣いていました。……あれを、もう一度」

 願いは短いほど重い。リュミエールはうなずいて、重い両扉に手を掛けた。


 楕円の会議卓。

 壁には王家の系譜の絵。古い肖像の目は油彩の光で湿り、机上の模型は白い光を震わせていた。模型の球体に走るひびは増えている。昨日までは地図の川のように一本ずつだった筋が、今朝は網の目になり、点と点の間で空白が広がる。空白は、国の声が落ちる穴だ。


 宰相は背筋を板のように伸ばし、両手を重ねていた。

 財務卿はそろばんの珠を指の腹で無意識に弾き、軍務卿は肩章の房糸を弄る。宗務長官は胸元の紐を結び直し、技師長は模型のひびを目で追い続けている。そこに、王女エリセリアが立った。彼女はいつもの礼装ではなく、動きやすい落ち着いた紺の衣。髪飾りは細く、音を立てない銀。


「議を始めます」

 宰相の声は硬い。

「各地の無彩災は加速。港湾都市、山間、周縁の村。補修班の派遣は追いつかず、避難計画は“形”だけ。わが国の結界は限界を超えつつある」

 指先で模型を叩く。白い球の内部に淡い影が生まれ、ひと息で広がって消えた。

「――完全遮断。最終案の発動を提案する」


 室礼の空気が少しだけ低くなった。

 その言葉は、ここへ来る道すがら市場の角でも、井戸端でも、何度もささやかれていた。感情を永久に封じる。争いの芽を摘む。泣かない国。怒らない町。笑わない朝。

 軍務卿が重い声を足した。

「遮断は“戦”ではない。“停止”だ。刀を抜かず、血も流れない。国家の“痛み止め”である」

 宗務長官は頷き、祈りの言葉を短く唱えた。「静けさは、罪を眠らせる」


 リュミエールは記録帳に触れ、席から立った。

「静けさは、ときに罪の隠れ家になります」

 視線が集まる。彼女は言葉の速度を上げず、ひとつずつ運んだ。

「完全遮断は、悲嘆を消すのではなく、“抱える力”を捨てさせます。抱えられない悲しみは、いずれ形を変えて戻ってきます。名を失い、色を失い、そして――言葉を失って」


 財務卿が舌打ちを飲み込み、数字を並べた。

「民心の混乱は商の混乱に直結する。物流の滞りは税を枯らす。遮断は確かに重い選択だが、最短で混乱を止める算段でもある」

 技師長が唇を噛み、模型の底部を示した。

「ただし、遮断の術式を再起動した場合、弊害の予測は“不完全”です。十年前には想定されなかった副結界の残滓が、各塔に残存しています。全域遮断が“空洞化”を招く可能性は無視できません」


「理想論だ」

 宰相が言下に切る。「君は記録士。文字で世界を支えられると信じたいのだろう。だが現実の支えに必要なのは“止血”だ。刀傷が開いた家族に詩を贈るのかね」

「詩では止まりません」

 リュミエールは首を振った。「けれど、縫合の糸に“言葉”がなければ、人は傷を自分のものにできない」


 沈黙ののち、王女が立つ。

 エリセリアは会議卓の端に手を置き、目を上げた。

「宰相。私は“演説の日”に泣きました。泣いて、民の前で恥を晒しました。あの日、城の廊下で私は多くの手紙を受け取りました。『涙に救われた』と。『泣けない自分を許せた』と。涙は弱さではありません。私たちがまだ“人”である証です」

 宗務長官は口を開きかけ、閉じた。机の上で組んだ祈りの手がほどけ、指が木を叩く音だけが残る。


 宰相は視線を王女から逸らさず、言葉を選んだ。

「殿下の涙に、私も救われた一人だ。だが、涙は“瞬間”だ。国家は“継続”だ。結界が崩れきる前に判断せねばならない」

「だからこそ、継続できる涙をつくる必要があるのです」

 王女の声は小さく、しかし遠くまで届く調子だった。

「痛みを消すのでなく、抱えられる力に変える。……リュミエール」


 呼ばれて、リュミエールは一歩進んだ。

「再調律を提案します。完全遮断ではなく、結界の響きを“組み替える”。過剰な振幅を抑え、零れ落ちる言葉を拾い、共鳴に変える。理論は――師レオの手記に残っています。鍵は、わたしの裏表紙に眠っています」


 技師長が身を乗り出した。

「反転の鍵を起こすのか。だが、核は――」

「核はひとりです」

 リュミエールは言い切った。「世界中の“ことば”を、一身に受け止める者。悲しみも怒りも希望も絶望も、降り注ぐ声のすべてを、いったんこの身で受けて、調律へ渡す“介在”。それが要る」


 空気が凍った。

 軍務卿の椅子が小さくきしみ、財務卿の珠が指から滑る。宗務長官は祈りの言葉を思い出せず、口の中で母音だけを転がした。宰相は立ち上がると、机の淵に片手を置いた。指先が白い。

「人であれ人でなかれ、そんな重荷に耐えうる存在が――」


「います」

 リュミエールは王女ではなく、室内の全員に向けた。

「わたしです」


 床の石が、誰かの息で震えた。

 それは驚きというより、重いものが床に置かれたときの音だ。

「君は人造体だ。生きるために創られた機構は堅牢でも、壊れるときは早い。回復のための“眠り”も、人のそれとは違う。壊れた場合、その壊れは永久になる」

 宰相の声は脅しではない。事実の並置だった。

「承知しています」


 王女が椅子を押しやり、卓を回ってきて、リュミエールの正面に立った。

 近い距離で見るエリセリアの瞳は、涙の光を宿していない。かわりに、長い夜を越えた人の静けさがある。

「あなたひとりに背負わせるのは、王として、そして一人の人として、耐えがたい」

「わたしは“選びます”。命令ではなく、願いとして。……王女様。あなたが涙で示した“人の証”を、世界の調律に繋げたい」


 王女は唇を結び、そのまま短く頷いた。

「ならば私は王として、“選んだあなた”を守る術を選びます。宰相、儀礼局、技師長。準備を」

 命令は簡潔だった。

 儀礼局長は巻物を繰り、古い歌詞の断片を拾い集める。技師長は模型の底面を開き、薄い板の配列を変える。軍務卿は衛士に目配せし、城内の人払いを指示。宗務長官はためらい、やがて短く頭を垂れて、沈んだ礼を捧げた。


 会議は続く。

 再調律の手順。

 反転の鍵の起動位置は王城中央塔、結節は四方の鐘楼。核は王座の背、古い石で組まれた“諸声の間”。そこは、かつて王が戦や飢饉の報を受け、最初の言葉を選んだ場所。床石は半分欠け、刻まれた古語は風で磨耗している。磨耗は、選ばれ続けた証だ。


 技師長が最後の確認をする。

「核に“載る”言葉は、分別なく降ります。嘆き、呪い、誓い、祈り、未練、歓喜。受け止め損ねれば、核は音を歪め、結界は“共鳴崩壊”に傾く。……君の記録帳は、どこまで受けられる」

「受け止めるのは、記録帳ではありません」

 リュミエールは自分の胸に手を置いた。「わたしです」


 準備のあいだ、王女は扉の陰で短く目を閉じた。

 彼女は祈りを唱えない。祈りは誰かに預けるための形ではなく、自分の内側を整える椅子だと、昨日の村で学んだ。椅子を出し、座る。息を整える。涙は落ちない。落ちるのは、言葉の重さだ。重い言葉は、床に座る。床に座ったものを、王はまた拾い上げ、置き直す。


 宰相は窓際に立ち、王都の空を見た。

 若い日、彼は戦を二度見ている。ひとつは剣と矢の戦。ひとつは噂と言葉の戦。後者のほうが長く、深く、遅い傷を残した。彼は手の甲の古傷を撫で、胸の内で誰にも言わない言葉をひとつ置いた。赦せ、と。赦せないことを赦せ、と。それが今日の彼の祈りだった。


 諸声の間へ。

 床の中央に浅い円があり、四方に古い線が走る。壁には小さな穴。昔、ここに糸が張られていたのだろう。言葉を干すための糸。濡れた言葉を乾かし、重さを確かめるために。

 リュミエールは円の中心に立った。裏表紙の紋は、まだ眠っている。王女が周縁に立ち、技師長が合図を送る。鐘楼の鐘に布がかけられ、音を殺す準備が整う。結界の調律は、世界の音が混じり過ぎないように、最初は静かに始めねばならない。


 王女が短く息を吸い、頷いた。

「始めて」

 技師長がスイッチを入れる。

 城の下の導管が低く唸り、中央塔の芯が青く灯る。四方の鐘楼に淡い光が走り、見えない弦がきしむ。諸声の間の空気が少し重くなり、床石の目地に風が潜る。風は音を連れ、人の気配を連れ、言葉を連れ――降り始めた。


 最初は囁き。

 小さな「おはよう」。昨日より少し甘いパンの匂いがした、と誰かの声。雨乞いの失敗を笑う子ども。病床の人の名を呼ぶ老女の震え。

 次に、深いところから低い波。見つからない行方。帰らない者への怒り。空白に置いてきた“はず”の嘆きが、色のない街角から歩いてくる。声は顔を持たない。顔がないから、重い。重いから、落ちる。落ちる前に――


 リュミエールは受けた。

 ひとつずつではなく、束で。束で来るものを、束で抱え、束の輪郭を紙の上に写し取るみたいに胸の中に置く。胸の内で、機械の拍と、言葉の拍が衝突し、やがて同期する。痛みは鋭くはない。鈍く、広い。広い痛みは、背骨で支えるしかない。背を伸ばす。


 王女は周縁で彼女を見つめ、唇を結んだ。

 技師長は計測器の針を睨み、宰相はただ立ったまま、拳を握る。拳の中に、今日だけの無力を入れて、開かない。開けば零れ、零れれば誰かが踏む。踏ませないために、握る。


 声は増える。

 陽の当たらない台所の愚痴。夜明け前の祈り。港で別れた兄への手紙。戦の噂の嘘と真実。生まれた子の名前。失くした子の小さな靴。笑わない恋人の横顔。笑ってはいけない職人の冗談。

 それらがすべて、ひとつの“私”に降り注ぐ。


 リュミエールの膝が一瞬くだけた。

 落ちる前に、王女の声が届く。

「立って」

 命令ではない。願いでもない。ただの事実。あなたは立てる。立てるときは、立って。

 リュミエールは顎を上げ、奥歯を噛み、足の指に力を入れた。床石の冷たさが皮膚を通り、骨に届く。その冷たさを基準に、降る声の温度を並べ替える。熱すぎるものは外に置き、冷えすぎるものは掌で温め、ちょうどのものを中心に積む。


 見えない弦が鳴る。

 四方の鐘楼で布が少し震え、音のない鐘が共鳴する。技師長が調律輪を一目盛り倒す。宰相が一歩前に出て、何も言わず立つ。宗務長官は祈りの言葉をやめ、ただ人々の声を聞いた。

 リュミエールは裏表紙へ指をそっと置く。紋は目覚め、柔らかい熱で指を包んだ。熱は痛みではない。合図だ。鍵を回せ。今だ。今しかない。


 回す。

 世界の節目に、別の節目を重ねる。

 結界のひびに、細い金の糸を渡す。糸は一本では足りない。二本、三本、十本。糸の結び目に、人々の“言い切れなかった言葉”を織り込む。

 ――ごめん。

 ――もっと早く言えばよかった。

 ――うまく言えないけど、好きだ。

 そんな断片が、金の結び目の芯になる。芯はほどけにくい。ほどけにくい結び目が増えるほど、網は強くなる。


 反動が来た。

 胸を真横に切られるような痛み。視界が白くなし、次に黒くなり、音が遠のく。遠のいたところから、新しい音が生まれる。笑いと泣きの間の、息の音。

 リュミエールは数えた。

 一。息を入れる。

 二。息を少し留める。

 三。息を出す。

 機械の拍ではなく、言葉の拍で数える。数えるたび、床の冷たさが基準になり、基準に合わせて世界が少しずつ戻る。


 王都の空に、薄い色が差した。

 模型のひびが一筋消え、別のひびの角が丸くなる。遠い港の湯気に匂いが戻り、山間の祈りに重さが戻る。戻り切らないものは多い。戻らないままでいい。戻らない層があるから、戻る層が支えられる。


 どれほどの時間が過ぎたのか、誰も分からなかった。

 計測器の針は震え、砂時計は途中で詰まる。壁の影は動き、しかし影の動きよりも、ここにいる人の呼吸の変化のほうが、世界の進みを示していた。


 リュミエールは最後の結び目を作り、指を離した。

 裏表紙の紋は熱を閉じ、眠りに戻る。眠りは敗北ではない。次のための準備だ。

 膝が落ちる。今度は床が受けた。石は硬いが、拒まない。拒まないものは、器になる。器がある場所で、人は崩れずに済む。


 王女が駆け寄り、肩を抱え起こした。

「大丈夫」

 リュミエールは頷いた。頷く動作に時間がかかり、首の筋が悲鳴を上げる。悲鳴は聞こえない。聞かないのではなく、もっと大きな音が今は必要だからだ。

 宰相がゆっくりと歩み寄り、膝をついた。

「……済まなかった」

 それは国の言葉ではなく、ひとりの老いた男の言葉だった。

「君にだけ痛みを背負わせたくはなかった。だが、君が背負ったことで、わしもようやく、自分の痛みの名を呼べる」


 宗務長官は祈りを再開しなかった。代わりに、諸声の間の壁に手を当て、古い穴に指を通した。

「糸を張り直しましょう。言葉を干す糸を。泣き声でも、笑い声でも、未完成の言葉でも、ここに干して、みんなで乾かしていけばいい」


 技師長が模型の光を絞り、計測器の紙を破って差し出す。

「完全ではない。だが、崩壊は止まった。無彩災の波は鈍り、街の中心から色が“にじみ”直している。……にじむ、という表現が正しいのは初めてだ」


 王女はゆっくり立ち上がり、会議の席に戻った。

「陛下は不在でも、王国はここにある。完全遮断は棄却。再調律を継続し、各地に“言葉の干し場”を造る。宰相、布告の文を――短く。長い文は、今は読まれない」

 宰相は笑いにも泣きにも見える顔で頷き、筆を取った。

 短い文は、重い。

 重い文は、遠くへ届く。


 人払いが解け、扉の向こうで近衛の若い兵が直立した。

 彼は会釈をためらい、しかし思い切って近づいた。

「姉から、言づてを頼まれていました。……“ありがとう”。それから、“今日の塩は、前より甘い”と」

 リュミエールは笑って、受け取った。

 塩が甘いはずはない。けれど、そう感じる舌は、今日を生き延びた。生き延びた舌で明日の味を探せる。探せる限り、世界は続く。


 日が傾き、王都の屋根に光が長い線を引く。

 城の外の広場では、紙が掲示板に貼られ始めた。

 ――母に言えなかったこと。

 ――別れた友へ。

 ――うまく言えないから、ここに置きます。

 人々は読み、笑い、泣き、書き足し、そして黙った。黙ることは逃げではない。声の順番を人に譲るための、静かな合図だ。


 諸声の間にひとり残り、リュミエールは記録帳を開いた。

 指は震えている。震えは悪くない。震えは、生きている印だ。

 紙の上に、夜まで残る一行を置く。


 ――受け止めます。世界の言葉を、わたしが。


 書き終えると、彼女は筆を置き、深く息を吸った。

 外の空は夕焼けと夜との境で、王城の窓はその色を二度映した。

 長く続いた沈黙が、ようやく息を吐き、王国は小さくうなずいた。

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