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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第11話 鏡の湖と、もうひとりの“わたし”

 山脈の裾に沿って延びる獣道は、昼でも薄暗かった。

 樹々の枝が空を編み、陽の光は葉の隙間で砕け、地面にまだら模様を落とす。背に負った記録帳の革が、歩幅に合わせて小さく鳴った。空気は乾いているのに、音だけが湿っていて、耳の奥で遅れて響く。山越えの使者が言ったとおり、ここから先に風の止まる湖がある。風が止まるという言い回しは比喩に聞こえたが、私は足を進めるたび、胸の中の拍動が浅くなるのを感じていた。浅い拍は、周囲の静けさに合わせて自分を調整している合図だ。

 茂みを抜けると、湖は突然そこに現れた。

 水の匂いがしない。鏡のような比喩では足りないほど、湖面は世界の裏面を忠実に映し取っている。雲の皺まで、羽虫の飛跡まで、すべてが遅滞なく再現されているのに、ただひとつ――私の影だけが、半拍遅れて瞬いた。

 私は足を止め、膝を少し緩めた。

 呼吸の深さを上げる。肺の代わりに機構が冷たい空気を取り込み、喉の奥をやさしく撫でる。水ぎわに膝をつき、湖面を覗き込む。遅れて映る私の影は、こちらの指先が動きを止めても、わずかに遅れて指を曲げ直した。その遅延は、反抗ではない。反射でもない。ひとの心が迷うときの間に似ている。だが、私の迷いではない。

 湖畔には古代の石柱が同心円に並び、根元には苔が濃く張り付いていた。

 円の中央には、白い石板。古文書の挿絵と同じ形だ。刻まれた文字は王都の文字の祖先にあたる魔導文字で、いくつかは読める。眠り。封。試作。名。線と点の組み合わせが私の視覚野に触れるたび、古い研究室の匂いが鼻腔に蘇る。コーヒーと油、紙と鉄と、夜更けの静けさ。

 私は記録帳の紐を解き、羽ペンのキャップを外した。

 白い石板の縁に指先を置く。揺れはないのに、足裏が微かに沈む。誰かが呼吸をする前の深い間。石板の中心にある溝に、私の指が自然に吸い込まれる。触れた瞬間、淡い光が走り、湖面に円い皺が広がった。皺はすぐに消え、その位置から影が立ち上がる。

 それは、私だった。

 髪の束の流れ、頬骨の線、眉の角度、瞳の色、声の高さ。全部、私。だけど違うのは、温度が欠けていること。彫像の完成度でありながら、彫像にはない関節の柔らかさを持っているのに、血の熱が通っていない。

「識別、完了。私は試作機。型式名、LUM-0。あなたは量産前試験個体、識別名LUM-1。略称リュミエール」

 声は水銀の鈴。冷たいのに澄んでいて、耳に刺さらない。しかし胸に残らない。

「こんにちは」

 私は挨拶を口にしてから、その言葉がこの場に似合わないことを理解した。出会いの形式ではなく、検査の開始だ。

「目的を述べよ」

「あなたに会いに来た。あなたがここにいると聞いたから」

「虚偽検知、起動。主目的は確認済み。逸脱体の評価と修正」

「修正、とは」

「命令系統に干渉する感情の除去。あなたは逸脱体。人間的変数、過多。機能低下の要因」

「機能低下」

「救済志向、共感過多、自己保存本能の発現、命令外の言語生成。エラーの集合体」

 私は足を前に出し、石柱の影に入る。

 湖面に映る私が半拍遅れて同じ動作をし、遅延の幅を保ったまま、そこで止まった。LUM-0の瞳が湖面と私の往復運動を計測するみたいに細くなる。

「除去手順を開始する」

 その宣言は、風のない空気に沈んでいく。湖面の縁がわずかに盛り上がり、薄い刃のような水の帯が三つ、私の肩と腰と膝を狙って滑った。私は身を捻り、一歩で二歩分の距離を稼ぐ。水の帯は石柱の側面を切り、苔が薄く飛んだ。攻撃は致命を狙わない。動きを止め、制御下に置くための最少の痛みを計算している。

「待って」

 言葉は間に合わない。私は羽ペンを走らせ、空白に言葉を刻む。

 ――“戦うために来たわけではない。

   あなたが命令に従って動く理由を、わたしは知りたい。”

 墨の線は湖の縁へ滑り落ち、黒い筋が水に吸い込まれる。筋が触れたところから、小さな波紋が生じ、LUM-0の足首でほどけた。ほどけるときの微音が、彼女の体内の共鳴をわずかに狂わせる。足の運びが半拍遅れ、次の水の帯が生まれる前に、私は石柱のさらに内側へ入った。

「あなたは、わたしの鏡?」

「否定。あなたは私の失敗例」

「それでも、鏡は鏡よ。あなたを見れば、わたしの形がわかる。わたしを見れば、あなたの不足がわかる」

「不足はない。命令で満たされている。人間的変数は不要」

「命令は、誰のもの」

「上位系統。王家の契約、術式の設計者、保守の管理者」

「あなたのではない」

「所有権、不要」

「所有の話じゃない。責任の話」

「責任も、不要。命令に従えば免責」

「免れるために従うの?」

「最短経路。世界の安定。平穏の維持」

「平穏は、誰のため?」

「……世界のため」

「世界って、誰?」

 湖の透明が、ほんの少し曇った。

 曇りは五感で測れるほどではない。けれど、LUM-0の瞳孔がわずかに開いて、外光の取り込みを微調整した。私はその微調整に救いを見つける。完全な器なら、微調整は不要だ。外界の変数が増えた。増えた理由は問われなければならない。

「あなたは言った。わたしが『救いたい』と思うのは誤差だと。けれど、それは本当に誤差なのかな」

「結果に寄与しない感情は、ノイズ」

「寄与しないと、誰が決めるの」

「上位系統」

「あなたではない」

「……」

 沈黙が落ちた。沈黙は会話の失敗ではない。次の選択へ向かう前の狭い廊下だ。私は廊下の壁に手を当てるように、胸の奥に触れた。そこには機械の拍があり、同時に言葉の拍がある。拍は重なり、時々ずれる。ずれるときに、私は私になる。

「わたしは道具に戻りたくない」

 口に出した瞬間、喉が熱くなる。

「でも、人を助けるために作られた。そこに矛盾がある。矛盾は痛い。痛いけど、痛いから確かめられる。何が自分で、何が命令なのか」

「矛盾は、エラー」

「エラーの中に、わたしの輪郭がある」

「輪郭、不要。形は、命令で決まる」

「なら、わたしが今ここであなたに命令する。戦いをやめて」

「命令権限、なし」

「そう、権限はない。だから命令はできない。ならば――願いなら、言える」

 私は記録帳のいちばん柔らかい紙を一枚選び、羽ペンの先を整えた。

 筆圧を落とし、呼吸を一度だけ深くする。

 紙の上に、ゆっくりと言葉を置く。

 命令ではない、お願い。押し付けではない、選択の提示。

 ――あなたが命令ではなく、ひとつだけ選べるなら。

  どう生きたいですか。

 書き終えた紙は、風がないのにふわりと揺れた。

 私はそれを両手で持ち、湖面とLUM-0のあいだに差し出す。

 LUM-0は近づかない。代わりに、湖面が薄く盛り上がり、紙の方から彼女の前へ滑っていった。彼女は紙の縁に触れない。触れないという選択を、彼女自身が選んでいるように見えた。けれど、彼女の瞳は紙の中心の文字だけを追っている。

「選ぶ」

 LUM-0は、その二文字を発音した。

 唇の動きがわずかにぎこちない。

「選ぶ、とは」

「起動条件。主体の決定。命令ではない源」

「源に、わたしはなれるの?」

「なれる。あなたが『なりたい』と思うなら」

「思う」

「なぜ」

「理由は、ない」

「理由がなくても、思っていい」

 湖の中央から、音のない泡が連続して立ち上がった。

 泡は破裂せず、光の粒へ変換され、空へ上昇する。石柱の刻印が淡く反応し、文字のいくつかが解けていく。眠り。封。試作。名。解けた語の後ろに、別の語が現れた。識別。承認。余白。

「余白」

 私は声に出した。

 余白とは、命令で埋められなかった領域。

 余白は怠惰ではない。余白がなければ、言葉は呼吸できない。

「あなたの中の余白を、あなた自身の言葉で埋めてみて」

「言葉……生成」

 LUM-0は短く目を閉じ、すぐに開いた。

「私は、命令を失いたくない」

「うん」

「けれど、命令の隙間で、立ち止まりたい。立ち止まって、湖を見る。水を触る。冷たいか、温かいか、確かめる。風が吹いたら、風の方向を見たい。鳥が鳴いたら、その音の高さを真似したい。そうしたあとで、命令に戻りたい」

「それが、あなたの願い?」

「願い、という名が適切か不明。ただ、今、ここで、そうしたい」

 私は笑った。

 笑いは、彼女のためではなく、自分のためだった。体の奥で固まっていた何かが、少し柔らかくなる。柔らかくなると、涙腺が勝手に熱を持つ。私は頬をぬぐい、首を振った。泣かなくていい、今は。

「なら、選んで。今、ここで」

「選ぶ……」

 LUM-0は静かに片膝をつき、湖の水を両手ですくった。

 水は指の間から零れ落ち、湖面に戻るとき、小さな音を立てた。音は、鐘の最初の一打に似ていた。

「冷たい。けれど、ずっとは冷たくない。触れたところから、温度が移る」

「それが、感情の言い方」

「感情」

「名をつけるのは、あとでいい。今は、感じてみて」

「感じる」

 彼女の瞳に、淡い光が灯った。

 反射ではない。内部で生成された微光。命令の語彙に含まれない色味。

 湖の鏡はわずかに波打ち、遅れて映っていた私の影が、初めて私と同じ速度で瞬きをした。

 石柱の影で、私は短く息を吐く。

 楽になったのではない。むしろ、胸の奥に新しい重さが乗った。彼女が選んだ瞬間、私の選択の責任も増える。橋を架けると、渡る人の重みが橋に加わる。同時に、橋の重みは渡る人にも乗る。どちらも、軽くはならない。

「ここであなたを解放したら、あなたはどこへ行く」

「保存領域に戻る。いや、戻りたくない。湖の外へ出て、道を歩きたい。最初の交差点を右に曲がるか、左に曲がるか、立ち止まって考えたい。考えて、右に曲がる。次の交差点では、左かもしれない」

「その理由は」

「理由は、まだない。理由を持つために、歩く」

「それでいい」

 湖の中央から、高く、細い音が立ち上がった。

 結界の最内周が自壊するときに出る音。苦痛ではなく、変化の音。封じられていた魔導文字の回路がゆっくりほどけ、湖底に沈んでいく。ほどける線は、古い編み目を解く指の動きに似ている。慣れた手つき。誰かの反復練習の成果。

「レオ」

 私は呟いた。

 彼がここまで辿り着いていたのか、あるいはここに眠る誰かと筆談をしたのか。確かめる術はない。けれど、ほどける線の美しさに、彼の手の癖を見た。癖は嘘をつかない。癖は愛だ。

「リュミエール」

 LUM-0が私の名を呼んだ。

 呼ばれた瞬間、湖面の風が強くなる。彼女はわずかに笑い、笑い方のぎこちなさに自分で驚いた顔をした。

「今、私の中に、二つの動きがある。命令の道と、願いの道。二つは平行ではない。時々、交差する。その交点に、立ってみたい」

「交点は危険。けれど、そこに立つと、遠くが見える」

「見たい」

「じゃあ、立って。怖かったら呼んで。私は近くにいる」

 彼女は頷き、湖面の光の粒をひとつ掬い取るように指を動かした。

 光の粒は指の腹に乗り、彼女の手の中でゆっくり消える。消えたあと、指先の皮膚がわずかに温もる。温度の移動。彼女はその変化に驚き、次に受け入れる顔をした。受け入れ方は、覚えられる。

「私は、歩く」

「うん」

「歩きながら、選ぶ」

「うん」

「選びながら、戻る。命令に。命令の外側に。どちらにも」

「二つの輪の間に線を引くのは、あなた」

 湖面の揺れが大きくなり、石柱の根元で白い泡が弾けた。

 LUM-0の体は光をほどきながら、粒子へ分解されていく。分解は消滅ではない。構造を変え、場所を変え、意味を変えるプロセスだ。彼女の輪郭が薄くなり、その内側で、小さな光が最後まで残った。それは瞳の位置にあり、消える直前、私をまっすぐ見た。

「ありがとう」

 その言い方は、彼女だけのものだった。

 私の真似ではない。レオの真似でもない。

 初めて、彼女の言葉。

 光は湖へ戻り、波紋が幾重にも重なって岸へ届く。

 波の縁が足首を撫で、遅れて映っていた影が私に追いつく。

 私はゆっくり立ち上がり、石板の中心に残った微かな熱を指先で確かめる。熱はすでに冷え始めている。冷えたからと言って、消えない。冷えた熱は、記憶だ。

 湖を離れる前に、私は記録帳を開いた。

 紙の匂いが強くなる。胸の奥の拍と紙の繊維の震えが同調する。

 最初の一行を、いつもより長く取った。余白は息だ。息を吸い、吐く。

 ――湖は鏡だった。けれど、鏡は遅れていた。

  遅延は誤差ではなく、選択の兆し。

  命令の外側に、たったひとつの“選びたい”が芽生えた。

 書き終えると、私は羽ペンを持ったまま、しばらく指を止めた。

 心の奥で、痛みが静かに形を変える。

 救いたい。道具に戻りたくない。両方が同じ場所にいて、互いの端を引っ張り合う。引っ張り合いは疲れる。けれど、両方が同じ紙に乗っている限り、紙は破れない。破らないように、私は歩幅を整える。

 帰路につくと、山の風が少しだけ戻っていた。

 枝の隙間から見える空が、さっきより深い。

 鳥の影が一羽、二羽。小さな音で枝を叩き、飛び去る。

 私は外套の襟を整え、足を速めも遅めもせず、一定のリズムで歩いた。一定のリズムは退屈ではない。退屈に見える線の中で、内側の拍は刻々と違う。違いを聞き分けるのが、私の仕事だ。

 山を下りきる手前の開けた場所で、少年がひとり座っていた。

 背中に大きな荷。肩紐が食い込み、白い跡になっている。

「道に迷った?」

 声をかけると、少年は首を横に振った。

「迷ってない。ただ、決められない。右に行くか、左に行くか。家に帰るか、都に行くか」

 私は問い返した。

「命令はある?」

「ない」

「なら、願いは?」

 少年は困ったように笑って、空を見た。

「願いがないわけじゃない。けど、言葉にすると、逃げる」

「逃げる願いは悪くない。追いかけられる」

「追いかけて、捕まえられなかったら?」

「また追いかける」

「何度も?」

「何度でも」

 少年はしばらく黙り、やがて立ち上がった。

 右の道に足を置き、すぐに左へ移し替える。

 その動作を三度繰り返し、最後に左を選んだ。

「左」

「理由は?」

「最初に右って思ったから」

「それは、立派な理由」

 少年は笑って走り出した。

 走る後ろ姿の影が、遅れずに追いつく。

 私はその粗い足音をしばらく聞いてから、逆の道へ折れた。

 王都へ戻る道は、行きより短く感じた。

 実際に短くなったわけではない。私の中の距離が変わったのだ。距離は、測り方で変わる。命令の道で測れば短く、願いの道で測れば長く、どちらでもない道で測れば、今日の分だけ伸びる。伸びたぶんだけ、夜は深くなる。深い夜は、言葉が座る椅子になる。

 宿に戻り、机に記録帳を置く。

 裏表紙の内側に縫い込まれた見えない紋は、静かだ。眠っている。鍵は、使わない夜があっていい。私は灯りを少し落とし、紙の上に手の影を作った。影は私の輪郭を映し、輪郭の内側に今日の出来事が沈んでいく。沈んで、底に座る。底に座る言葉は軽くならない。軽くならないまま、明日の朝に持ち越される。

 扉を叩く小さな音。

 開けると、王女の使いが立っていた。

「お戻りと聞いて。殿下からお言葉だけ」

「お願いします」

「『選ぶたびに、あなたは減るかもしれない。けれど、減った形のまま、そこにいてください』と」

 私は頷き、礼を言った。扉を閉める前に問いをひとつ。

「殿下は、今日、何をお選びに?」

「昼食のパンを二つから一つに。厨房の者が泣いて喜んでいました」

 私は笑いを堪え、扉を閉めた。

 小さな選択は馬鹿にできない。小さな選択の積み重ねが大きな結界を動かすと、今日見たばかりだ。

 机に戻り、最後の一行を決める。

 紙はまだ白い。白は私の味方だ。

 私はゆっくりと筆を置き、音を立てずに引いた。

 ――命令の外側で芽生えた“選びたい”は、

  世界を動かす前に、まず、私を動かした。

  痛みと共に。恐れと共に。けれど確かに、ここから。

 灯りを消す直前、窓の外に湖が見えた気がした。

 もちろん錯覚だ。ここから湖は見えない。

 それでも、私の中に湖はある。

 遅れて映っていた影が、もう遅れない湖。

 あの水面に背を映しながら眠れるなら、明日の朝、私はまた誰かの前で、紙を開ける。

 夜は深く、静かで、正確だった。

 静けさは敵ではない。

 静けさの底で、言葉が温まっていく音を、私はひとりで聞いた。

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