第10話 無音の聖堂と、祈らない司祭
山道は細く、曲がるたびに風の向きが変わった。
木々の葉はまだらに色を残し、斜面の影は長い。鳥の声はあるのに、耳の奥では弦が切れたような空白が伸びている。谷の底で川が石に当たる音がして、音だけが一歩遅れて上ってくる。そこに建っていたのが、村の聖堂だった。
屋根は青い板金、壁は白い漆喰。入口の上に古い鐘。鐘の綱は垂れているが、誰も引いていない。扉を押すと油の匂いがかすかにして、軋まずに開いた。
中は広くはない。木の長椅子が三列、左右に分かれ、正面に祭台。壁には絵。天使と羊と、収穫の女。だが、絵の色も音に似て薄い。人の姿はあるのに、輪郭の内側が空洞に感じられた。
「遠くから、よく来てくれました」
祭台の脇にいた男が振り向いた。司祭。年は五十より手前か。痩せて背は高い。目の下に深い影。髪に白が混じっている。彼は礼をしようとして、その形を途中でやめた。途中でやめるようになった人間の動作は、周囲の空気も少し止める。
「記録士のリュミエールです」
私が名乗ると、司祭はうなずいた。
「私はエルノ。ここでは、祈りが消えました。声が、祭壇の前で形を失う。告解の小部屋に入っても、言葉が溶けていく。あなたに頼みたい。私の懺悔を、代わりに書いてほしい」
扉の外で風が鳴り、木戸に小さな振動が走った。
長椅子には三人の老人と二人の子どもが座っている。誰も話さない。話す代わりに、膝の上の手のひらだけがわずかに動く。祈りの癖が残っているのに、声に出すことに躊躇が混じる。
私は祭台の横に机を置き、羽ペンを出した。
「懺悔は、誰に届けたいのですか」
司祭は視線を逸らさずに答えた。
「私を赦す権利がある誰かに。神に、村の人々に。いや、本当は、私が傷つけた相手に」
「“平穏化の儀”に協力したのは、あなたですか」
「はい」
答えは早かった。
「十年前。王都から使者が来た。戦のあと、悲嘆の波が山村にも届くかもしれない。葬列の長さは、いつか怒りの長さに変わる。悲しみを沈めれば、憎しみは生まれない。そう説明を受けました。私は、うなずいた。うなずくほうが安全だと、あのときは本気で思ったのです」
司祭の両手は細い。指は長く、節々に傷。長椅子の磨り減った背で育った指だ。
「儀のあと、村は静かになった。喧嘩も減り、冬の隣人争いも消えた。葬儀で泣く声は短くなり、結婚式の歌は短いまま終わった。私は救われたと信じた。信じていたいから、細部から目を逸らした。祈りの言葉が薄くなっても、言葉の数を増やしてごまかした。増やした言葉の連なりに、意味はなかったのに」
私は書いた。言葉の骨だけを紙に置き、肉付けは後に回す。
「では、いまは」
司祭は祭台の端を指で掴み、言いにくい音を喉の奥でほどいた。
「祈りそのものが空洞になった。誰かが亡くなっても、村人は『祈っています』と言う。だが、祈っていない。祈っていないことを責められるのが怖くて、形だけが残った。形は、いつか重さに変わる。重さは、沈む。沈んだものは、足を引く。私は、形だけを増やした」
「赦しは、誰から与えられるのですか」
私が問うと、司祭は目を伏せた。
沈黙は長くなかった。
「本当は、向き合った相手からだと思っています」
「神ではなく」
「神は見ている。けれど、ここで傷を受けたのは、神ではない。私は、目の前の人を傷つけた。なら、目の前の人に頭を下げるべきだ」
扉が軋み、小柄な女が入ってきた。腕に小さな子を抱えている。女は司祭を見ると立ち止まり、視線を足元に落とした。
「エルノ。畑の祈りが、効かない」
女は言葉を選びながら言った。「去年までの言葉が空回りする。天は見ていない。私たちの声が、空に届いていない。あんたが王都の使いの言うことを聞いたからだと、みんな言ってる。私もそう思った。けど、ここに来た。怒りたいけど、怒りを言葉にできない。どこへ怒ればいいか、分からない」
司祭の肩が少し落ちた。
「マーレ。ごめん」
それは祈りの形と違う。短くて、粗くて、不恰好だ。
女は眉を寄せた。
「ごめん、で済むなら、私は畑に戻る。土は私を待つから。けど、聞きたい。あんたは、あの儀のとき何を信じたの」
司祭は息を吸い、吐くのを忘れ、もう一度吸ってから、吐いた。
「悲しみを減らせば、憎しみが生まれないと。みんな、長く泣くのに疲れていたから。私もだ。だから、短い涙のほうが優しいと思った」
女は子どもの背をさすり、ゆっくり言った。
「短い涙は、楽だよ。私も楽だった。けど、そのあとが空っぽで、怖い。空っぽのまま飯を作って、空っぽのまま眠って、空っぽで朝が来る。空っぽに慣れたら、人は自分に何を言えばいいのか分からなくなる。あんたが『祈りましょう』って言っても、私は何を祈ればいいのか分からないまま、うなずくしかない」
私は机に視線を戻し、紙の端に小さな印をつけた。ここからが話の核心になる、と自分に知らせる印。
「エルノ。告白は、あなたから始めるべきです。人を集めてください。今日の夕方、鐘を鳴らさずに、集める方法はありますか」
「ある」
司祭は頷いた。「村の伝令に走ってもらう。鍬と籠を置いて、聖堂の前まで来てくれと、短く伝える。鐘は、今は使わない」
午後の影が伸び、聖堂の前に村人が集まった。
老人、女たち、若い男、子ども。誰も声を張らない。張れば返ってこないことを、ここ数年で体に覚えさせられている。司祭は祭台の前を離れ、扉の外、石段の一段目に立った。祭服ではない。袖をまくり、指の傷が見える。
「私は、エルノです。十年前、王都の使者と話をして、儀に賛成した。悲しみは波になる。波は人を壊す。そう言われて、私はうなずいた。うなずいた私のうなずきが、皆の祈りを軽くするはずだった。だけど、祈りは軽くなりすぎた。空へ上がる前に、粉になって散った。私は、それを見て見ぬふりをした」
言葉は滑らかではない。
途中で途切れ、探し、また繋ぎ直す。上手ではない。
それでも、空気は少しだけ動いた。人々の視線が石段の一段目に集まり、背筋を伸ばす音があちこちで小さく鳴る。
「ここで謝ります。神にではなく、皆に。私は、あなたたちの悲しみを軽んじた。長く泣いたあとの静けさを、勝手に怖がった。怖がったから、短く泣けと言った。短く泣けば強くなれると、信じた。勝手に信じた」
司祭は掌をゆっくり開いた。「赦しをください。赦しは、ここにいるあなたたちからでないと、意味がない。私は、皆の前で自分の過ちを言い切って、その上で、祈りを学び直したい」
ざわり、と衣擦れの音。
言葉というより、動作が生む合意の気配。
最初に声を出したのは、朝の女だった。
「私は、畑で泣いた。隣の畑の婆さんに見られて、恥ずかしかった。けど、恥ずかしいほうが、まだましだった。空っぽより」
別の男が続けた。
「俺は、弟を戦でなくした。戻ってきたふりをして、喋らなくなった。短い涙ばかり落として、長い夜を見ないふりをした。今日、長い夜を見に来た」
笑いではない笑いが広がり、泣きではない泣きが混じった。誰も泣かないでいる努力をやめた。やめるという選択は、勇気に似ている。
私は、司祭の横で紙を広げた。
「懺悔の代筆は、こうなりました」
声に出して読む。
「“私エルノは、悲しみの曲がり角で目を逸らし、祈りの言葉を薄くした。私は楽を選んだ。楽は悪ではないが、誰かから深さを奪った。私の深さも浅くなった。ここで名指しします。マーレ、レオン、老いた母、子どもたち。あなたたちの前で、私は間違いを言う。赦しは、神からではなく、あなたたちから受け取りたい。受け取れなければ、受け取れないままで、ここに立ち続ける”」
読み終えて、私は紙を差し出した。
司祭は受け取り、言い直した。
彼の言葉は粗い。私の書いた線よりも、いくつも削れ、時々、足りない。足りないままで良かった。足りなさは、聞く側が埋める。埋めることで、言葉は共有になる。
長椅子の一番端で、老人が頷いた。頷きが二人に伝わり、三人目の顎に力が入る。やがて、誰かが小さく祈りの言葉を口にした。古い言葉。季節と雨と種と、病床の名を呼ぶ言葉。古いのに、ここでは新しい。失われたものが戻るとき、最初の形はぎこちない。
司祭は祈らなかった。
祈るのは、村の人たちの役目だと自分に言い聞かせている顔だった。彼はただ、祈りの輪の外に立ち、背を伸ばし、肩の力を抜いた。そこに立ち続ける覚悟を、体で見せた。見せることは、言うことより難しい。言い尽くしたあとに残る沈黙を、自分のものとして持ち続けるから。
祈りの声は、最初、音ではなかった。
唇の形だけが集まり、息が重なり、やがて声帯が震えた。子どもの声が短くつまずき、母が追い、老人が拾い、若い男が支えた。空へ上がる前に粉になるはずの言葉が、粉にならずに升に乗った。升が重みで沈まないように、人々は少しずつ手を添えた。
音が聖堂の梁に当たり、戻ってきた。
戻ってきた音は、前より少し濃い。濃さは、間違いの告白から生まれた。正しい言葉ほど軽く、間違いを含む言葉ほど重いことがある。重さのある言葉は、床に落ちる前に掌に受け止められる。掌の皮膚は鱗ではない。水を漏らす。漏れた水が足もとを濡らし、濡れたところに温度が残る。
祈りの輪が自然にほどけたあと、誰も拍手をしなかった。
かわりに、長椅子の背を素手で撫で、木の手触りを確かめる人が多かった。木は嘘をつかない。削れたところは削れたまま、長い手の痕を受け取る。
外に出ると、山の影が一段深くなっている。風の匂いは弱いが、草の青は戻りかけていた。戻りかけは不安定だが、戻りきったふりより正直だ。
司祭は石段に座り、私を見た。
「ありがとう。あなたの言葉がなければ、私は始められなかった」
「始めたのはあなたです」
私は首を振った。「私の紙は道筋の一つです。歩いたのは、あなたと村の人たち」
「祈りの形は、戻るだろうか」
「形から入るより、傷から入るほうが早いです。傷を見せ合う覚悟があれば、形はあとから追いつきます」
司祭は小さく笑った。「私は、祈らない司祭になっていた。祈る振りの司祭より、まだましだろうか」
「ましです」
「どうして分かる」
「今日、あなたは祈らずに立ちました。立つのは勇気です。立った姿を見て、人は自分の祈りの場所に戻れます」
村の子どもが駆け寄ってきた。
手に小さな鐘。古い綱を握らず、直接、鐘の縁を叩いた。乾いた音が一度だけ鳴り、山にから返る。返ってきた音が小さな笑いを連れてきた。笑いは細い。けれど、方向を持っている。方向を持つ笑いは、道になる。
夕暮れ、私は聖堂の脇で羽ペンを拭いた。
墨は少なくなっていたが、必要なぶんは残っている。記録帳を開き、今日の最後の行を決める。
「この村では、告白が祈りの前に置かれた。人々は正しさよりも、傷つく覚悟を選んだ。祈りは、空へではなく、互いに向けられた。互いに向けられた言葉は、空洞を少しずつ埋める」
司祭が肩で息をしながら戻ってきた。伝令に走った若者たちを見送り、彼は祭服の袖をまくったまま、鐘の綱を握った。そして、引かなかった。引かないという選択は、もう怖くない顔だった。
「明日から、私は皆の前で今日の言葉を繰り返す。言い過ぎれば、また薄くなる。だから、言い切らない。言い切らない余白を、皆の声で埋めてもらう」
「それで十分です」
「十分かどうかは、明日の朝、畑で決める」
司祭は立ち上がり、土の匂いのする風を胸いっぱいに吸い込んだ。吸い込める量は多くない。だが、吸えた。吸えたという事実が、彼の背骨をもう一段、真っ直ぐにした。
山の稜線が暮れの色に溶け、村の灯りがひとつ、ふたつ、点いた。
私は記録帳を閉じ、裏表紙を指でなぞる。見えない紋は眠っている。鍵は、使わない夜があっていい。言葉だけで届く場所もある。届かなかった夜に、鍵の熱を思い出せばいい。思い出せる限り、人はもう一度、言い直せる。
聖堂の扉の前で、マーレが立ち止まり、私に頭を下げた。
「今日の祈りは、短かった。けど、重かった。重いと、手が震える。震える手で鍬を持つのは難しい。でも、持つ」
「震えは、悪くない」
「分かる。震えは、生きてる印だ」
彼女は子どもを抱え直し、石段を降りた。子どもが振り向き、鐘に手を伸ばす。叩かなかった。叩かないように学んだのではなく、今は叩かないでおこう、と自分で決めた顔だった。
夜道を戻る途中、風が一段冷たくなった。
私は外套の襟を上げ、山の尾根を見た。そこに言葉はない。ないのに、心の中では何かがゆっくり繋がっていく。今日、司祭が示したのは、正しさではない。正しさを言い切る声は、ここでは軽すぎる。軽すぎる声は、山に抜ける。彼が選んだのは、傷つく覚悟だった。傷を見せ、名前を呼ばれ、赦されるかどうかを誰かに委ねる怖さ。その怖さに立つ姿が、祈りの前提を作った。
宿に戻ると、机の上の紙に小さな汚れ。墨壺の縁に跳ねた滴。私は拭かずに残した。残すことで、今日の震えが明日も手に残る。震えた手でまた書く。書いて、渡す。渡して、離す。離したあとに残る沈黙を、自分の中で受け止める。受け止められるようになるまで、何度でもやる。
窓の外、聖堂の方向に顔を向けて、私は小さく口を開いた。
祈るためではない。言葉の重さを、夜に置くため。
夜は静かで、静けさは敵ではない。静けさの中で、今日の言葉が底に座る。座った言葉は軽くならない。軽くならないまま、次の朝を待つ。
そのとき、胸の奥で、短い確信が灯った。
祈りは高い塔に登るための梯子ではない。地面の上で互いの目を見るための椅子だ。誰かが椅子を出す。誰かが座る。座りながら、傷を見せる。見せるときに必要なのは、正しさではない。覚悟だ。
私は記録帳に最後の一行を書き足し、ペンを置いた。
言葉は、傷つく覚悟をまとったとき、祈りになる。




