恋を読む~完璧王子の秘密の昼寝~
初夏、昼下がりの陽射しは強かったが、木陰を吹き抜ける風は爽やかだ。
私は王宮を抜け出し、石畳の道を辿って裏手に回った。
そちらは隣接した王立図書館の敷地で、緑が繁茂して見通しが悪く、人はあまり来ない。
私は木陰のベンチにそっと腰を下ろした。
上着を脱いで頭に被り、寝転ぶ。
そうして、人の監視の目から逃れた私はようやく、一人の人間に立ち戻るのだ。
昨日も今日も私は、『完璧な王子』であり続けた。
礼儀正しく、隙を見せず、どんなことを言われても動揺は一切見せない。
美しい銀の髪、深い碧の瞳、美麗なご尊顔などと誰かに賞賛されれば、静かに微笑んで礼を述べる。
人々の模範、貴族の希望であることを常に意識して振る舞った。
絶え間ない努力と研鑽は当たり前。
未来の国王として、国の基盤を支えるために我が身はある。
──疲れないと言えば嘘になる。
だが、自身への不平や不安が、国の安寧を脅かす元になるのだと思えば、頑張らざるを得ない。
国の人々が幸せに生きていくために、これは必要なことなのだ。
目を閉じて、身体を撫でていく風に心地良さを感じているうちに、いつの間にかまどろんでいた。
ピチュピチュと甲高く響く鳥の鳴き声に交じって、微かに、すすり泣く声が聞こえくる。
(誰だ……?)
目を覚ました私はそっと、上着を持ち上げて辺りを窺う。
ベンチは道の端にある。
その道を挟んで向かい側には、木々に埋もれるようにして、四阿が建っている。
四本の支柱には蔦が巻き付いており、全体に生い茂る葉が立体の装飾品のように見えた。
その四阿に設えられたテーブルセットに、一人の少女がいた。
落ち着いた色のワンピースを着た彼女は俯いて、ハンカチーフをそっと目に当てた。
茶色の髪を硬く編み込んでおり、後れ毛が風に揺れている。
その服装と上品な仕草から、貴族の子女であることは察しがついた。
彼女の表情から、悲しくて泣いているのではないとわかる。
手元には、赤い装丁の本があった。
(本に感動して泣いているのか……?)
常に心を平坦に保ち、泣くことなどないようにという教育を受けた私には、信じられない光景だ。
泣くという行為は、弱点を晒すことだと母に教えられた。
王子たるもの、安易に感情を見せてはいけないと教師たちも言った。
良かった、本当に良かった、と独り言まで呟く彼女を、私は興味深く見守る。
やがて微笑んで、ほっと息を吐くと、本を閉じる彼女。
一応整った顔立ちではあるが、華やかではない。
優しげに垂れた目の縁は、泣いたせいで赤くなっている。
茶色の瞳の色は平凡だ。
柔らかく穏やかな心の動きが、その瞳にはあった。
着飾って目立つ化粧をした貴族令嬢たちの中に立てばきっと、地味に映るだろう。
そんな彼女から、私は目が離せない。
彼女は立ち上がり、そっと足音を忍ばせながら、歩く。
(何をしているんだ……?)
彼女が通り過ぎるまで私は気づかなかった。
遠ざかった彼女は、普通に歩いている。
昼寝をしている私を起こさないように、あんな歩き方をしていたのか。
胸の奥に、妙に温かい、見知らぬ感情が忍び寄ったのはその時だ。
私の知る令嬢たちならば、わざと足音を立てたり、声をかけてきたりして、好奇心の赴くままに行動し、ベンチに寝ている男が誰なのか知ろうとしただろう。
婚約者候補リストに挙がっている彼女たちは、何事にも非常に積極的なのだ。
そして私だと気づくと、甘ったるい声を上げて「これを機に」などと言いつつ会う約束を取り付けようとする……。
私は、自分から女性の名前を尋ねたことがなかった。
彼女の姿が見えなくなってから、ようやく私は少女が何者なのか知らず、次に会う機会があるのかどうかもわからないことに気づいた。
(これが夜会の場なら、あとで調べることもできたのに……)
年若く見えたから、まだ社交界にデビューはしていないのかもしれない。
少なくとも、婚約者候補リストに載っていないことは確かだ。
(親が王太子候補にすることを嫌がったのか、あるいはもう婚約者のいるご令嬢なのか……それなら、顔を知らないのも仕方がない)
幼くして婚約者のいる令嬢は多い。
急に胸の辺りを、ザワザワしたとても嫌な感触が走る。
私はその原因に思いを巡らせながら、しばらくそのままベンチに寝転んでいたが。
ふと気づいた。
一生誰にも心を寄せることなく、政略結婚して子どもをもうけ、国に捧げるだけの人生を送るものと思っていた自分が、彼女のためにひどく心を悩ませていることに。
私は立ち上がった。
(これは……正しいことなのだろうか?)
しばらく迷った後で、王立図書館へと急いだ。
そこにはもう令嬢の姿はなかった。『今日返却された本』の棚に、返却されたばかりの赤い装丁の本があることに私は気づく。
手に取ってみるとそれは、一人の冒険家が未開の地で遭難し、大勢の仲間を失いながらも最後には無事帰還を果たし、その地を封じられて辺境伯になるという物語だった。
まだ名前も知らない、四阿の文学少女。
あの日から私は、天候の良い日には必ずこの場所で昼休憩を取っている。
また会えたら……私は彼女に対しても、完璧な王子として振る舞えるだろうか?
できれば、あの本に書かれていた仲間たちとの別れや、それぞれの決断、ラストの感動的な場面について語り合いたい。
……その前に、なぜ彼女がその本を読んだと知っているのか、告白しなくてはならないが。
盗み見ていたなんて言ったら、不快な思いをさせるかもしれない。
婚約者がいるかどうかも、声をかける前に確認したかった。
……どうやって?
悶々としながら私は、今日も上着を被って、彼女と会った時のために、かけるべき言葉をあれこれと模索するのだった。
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