9. Other side 1
「先生の所にこれを届けてね」
そう言って母親に渡されたのは、お手製のチーズケーキだった。
「何これ」
「先生ね、ケーキ好きなんだって」
男一人でケーキは中々買えないですよと言うから、今度作ってあげるという約束をしたのだそうな。
母親と先生の会話は、基本的に出迎える時と見送る時くらいしかないはずなのに、いつそんな雑談をしたのやら。
自分の知らない「ケーキが好きな先生」像を母親が知っている事に対して、心がもやっとする。
先生との出会いは、普通では中々味わえないスリルのあるものだった。
吊橋で立ち竦んだ時、恐怖のドキドキと一生懸命励ましてくれた人に対してのドキドキを錯覚し、高い確率で恋に落ちると聞いた事がある。
それに似た感覚だったのかもしれない。
つまらない毎日を送り、やりたいことも特になく近場で通いやすい推薦の大学を希望したら、今の成績だと無理だし合格しても付いていけないからワンランク落とせと担任に脅され、母親に嘆かれ、投げやりになっていたその日。
何と無く書店へと赴き、何を探すでもなく棚の間を縫って歩いて、ふと思ったのだ。
万引きし放題じゃないの、この本屋。大丈夫か?
客に注意を向けているとは到底思えない、眠そうな店員が二人だけ。
欲しい本があったわけじゃないし、どうしてもやってみたかったわけでもなかったけど、運試しみたいな気持ちで、脇に抱えた鞄に手近にあった本を差し込み、店を出た。
簡単じゃん。
そう鼻で笑った瞬間。
惰性で閉まりかけていたドアが勢いよく開き、店員が一人飛び出して来た。
左肩を掴まれ引き戻される。よろめき掛けたが踏ん張って体勢を整え、店員を見る。
見付かってしまったという焦りとは逆に頭は意外と冷めていて、優秀な店員だなと冷静に考える妙な余裕があった。これで「大学に合格しても付いていけない」ではなく、「警察に突き出されて推薦取り消し」は決定的だと思ったのだけど。
店員は俺の目を凝視している。
何だろうと思って、そういえばと思い当たった。イライラして散財したくて、何と無く買ってみたカラーコンタクトレンズをしている所為だろう。
この色だと「珍しい」と擦れ違う人が囁いているのをたまに耳にするし。店員も紫の瞳なんてきっと見た事がなかったに違いない。
そんな店員の反応を考えて、強気に出る。
心臓が口から飛び出しそうな程に緊張していたが、強行で逃げたり、泣き落としをしたりするのは性に合わない。とは言え、バカにするなと殴られたり突き飛ばされたりする事も、考えるべきだったのかもしれないと、後で少し考えた。
でももっと後で、先生がそんな事をする性格ではないと知ったわけだけれども。
結局心優しい店員は、実は俺が泣きたくなる程に緊張していたのを感じたのか、通報せずに見逃してくれた。
お金を渡し、そのまま逃げ出したくなったけど、釣りを渡すから待っていろと言われた。
逃げたら良かったのかもしれない。普通なら逃げるだろう。
けれど。
その優しさにもう一度触れたい、と思ってしまったのだ。
だから。
まさか彼が家庭教師として週に二回俺に会いに来ると聞いた時は、一日中口元が緩みっぱなし。
家庭教師なんて絶対嫌だと言うと思っていた母親は、俺があっさり承諾したので、とても不思議がっていた。
勿論その話、先生には内緒。今後も言うつもりはない。
お読み頂き有難うございます。