7. Kiss.
智の家に着くと、母親が出て来て「たった今帰って来たところなんです」と申し訳無さそうに言う。
ついさっきまで一緒でした、そうだったんですかと笑い合い、失礼しますと断って二階に上がる。
いつもの如くノックして入室。
後ろ手にドアを閉めて、智の後姿を見詰める。机に向かっているがいつもみたいに雑誌を広げている事もない。
壁に立て掛けてあるパイプ椅子をセルフサービスで定位置に置き、座る時にあえて、どっこいしょと口走ってみるが、智は顔を上げない。
銀色の眼鏡をかけている。勿論だけど眼鏡をかけているのは初めて見る。
机に頬杖を着いて、覗き込むようにして顔を見ると、智は視線を避けて俺から思いっ切り顔を逸らす。
「悪かったよ」
智の身体がぴくりと動いた。
「何か、ちょっと、嫌な言い方をした」
俺のバイトが終るまでそこで待っていた、という事を失念していたのだ。
ただ一緒に帰ろうと思って待っていた、とは智の性格上考えにくい。勿論そこまで性格を熟知しているわけではないのだけど、何となくそう感じた。
嫌な思いをして、一人で居たくなくて、俺を待っていたんだ。
誰でも良いんじゃなくて、俺だから待っていた、なんて考えるのは図々しいだろうか。
「悪かったよ」
もう一度言う。
「智」
「赤いコンタクトはさ」
智は顔の位置を少し動かすが、やはりこちらを向く気配はない。
「持ってなかったんだよ、本当は」
「持ってなかったって」
じゃあ、何で買ったんだよ、という俺の心の声を読み取ったかのように、智は呟く。
「センセの気を惹きたかった、って言ったら、信じる?」
「……」
その時の俺はきっと口が開きっぱなしだったはずだ。
又いつものように俺を揶っているとしか思えないシチュエーション。
数秒待つ。冗談に決まってるだろ、という智の声を。
でも続く言葉はない。
智、と声を掛けるが、こちらを向かない。
俺から不自然に逸らせた顔に右手を伸ばし、銀色の眼鏡を取る。
「何するんだよ」
講義の声と共に、やっとこちらに向けられた視線。
黒い、瞳。
お前さ、と擦れた声が俺の喉から漏れる。
「俺の気を惹きたいんだったら…」
言葉に詰まる。
何を言おう。何て言おう。
俺の言葉を待つ智と視線が絡み、まるで目眩の様な感覚が走った。
俺は取った眼鏡を丁寧にたたみ、左手に持ち替える。
空いた右手をそっと智の肩に置くと、ぴくりと身体が震えたのが伝わって来た。
「俺は、その瞳が一番好きだよ」
「え」
驚きなのか喜びなのか。一瞬智の瞳が揺らぐ。
彼の意識の問題か、俺の感情の所為か、その視線は今までに感じた事がない程、柔らかなものに思えた。眼鏡もコンタクトレンズも通していない智の視線は、武装を解除して力が抜けているようで、何とも優しかった。
プツン、と。頭の中で理性の糸が切れた音がした。
肩に置いていた手を、そのまま智の首筋へと回し、彼を抱き寄せる。
キャスター付きの椅子が動き、智の身体は俺の方へと寄って来る。ええっという声を聞いた気がするが、無視してその唇を塞ぐ。
強引に、丁寧に。
途中で智の口から小さな声が、数回漏れた。
ゆっくりと唇を離して至近距離の智の瞳を覗き込む。
まだ夢の中に居る様な、ほわんとした瞳。
「センセ、キス上手いんだね…」
言われて俺は苦笑するしかない。
「誰と比べてだよ」
その声でやっと夢から覚めたのか、はっとして未だ至近距離にあった俺の頬に左手を当てて、思いっ切り突き放す。
痛い。
「いいい一般論だよっ」
言いながら智はさっきみたいに、不自然な程に顔を背ける。その頬から耳にかけて、パパ活モードの瞳に負けないくらいに赤く染まっているのを見て、俺は笑う。
「なっ何だよっ」
勢いよく振り返り、視線が絡み合った俺達。
あ、形勢が逆転した、と瞬時に悟る。こちらを睨む智の瞳には、力がない。
そうか、俺はこんなにも智に好かれていたのか。
智の赤い顔を見て納得し嬉しく思うと同時に、自分も結構、いやかなり智を好きなんだということを改めて自覚する。
自覚すると急に顔が熱くなる。俺も赤い顔をしているのだろうか。
もし赤かったとしても今の智がそれに気付く余裕はないと思いたい。
心臓が結構な速さで脈打っている。
それでも俺は平静を装う。
逆転した形勢を保つ為に、努力して口角を上げる。
右手で智の頭を掴み、髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回して、
「可愛いなぁ」
と笑う。
智が、絶句した。
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