6. Pass.
智と出会って一ヵ月半。一学期の期末テストが近付いて来ていた。
練習問題はある程度こなすし、智の理解度は思っていたよりも高く、「出来が悪い」という言い方をしてしまったが、実のところ全くそんな感じではない。
実はわざと間違えて悪い点を取ったのではないかと疑いたくなる程だ。
数学以外の点数は普通にあるらしく、教える事は殆どない。授業の復習と宿題、問題集をさらりとこなして時間が空けば、雑談もする。
智の学校の話、大学の講義の話。
揶われる事も多々あるけど、それを無難にかわせるようになって来た。
勿論引っ掛かっては「センセって可愛い」と爆笑される事もあるわけだけど。
智に対して感じているのは、俺を慕ってくれる後輩としての可愛さか。
それとも。
悶々と考える日々が続く。
その日は、八時過ぎに智の家に行く事になっていた。
七時半迄書店のバイトをこなし、「お先」と言って店を出て、階段を降りた所で、赤い瞳の智が待っていた。
「お疲れ様」
「どうしたんだよ」
珍しい、と続けたが実際こんな事は初めてで、正直ちょっと戸惑う。
「別に」
心なしか不機嫌そうに呟き、智は歩き出す。
待ってたくせに何だよ、と思いつつ早足で彼に並ぶ。
「どうした?」
「うん」
唇を尖らせた智は、少し俯いたまま、あのさと言う。変なオジサンに絡まれた、と。
「はあ?」
「こんな時間から酒飲んでてさ。べろんべろんになってるみたいで、その赤い瞳は、何でだって」
酔っ払いに対してカラーコンタクトですと冷静に答える事はないだろうが、智自身が「パパ活モード」などと言っているものだから、心配になる。
世のオジサン連中は、自分と違う色の瞳は珍しく思うものだ。そう考えると自分もそれに含まれることを自覚して少し落ち込むのだが。
「前世はウサギか、だって。バカじゃないの」
言いながら、右手で左の手首を掴む。
その時初めて、その押さえた左手が心なしか震えている様に見えた。
「それでさ。泣いてるから赤いのか。何で泣いてるんだってしつこくて」
無視して歩いてたら、腕を掴まれた、と言うのだ。
「泣いてるんだったら、話を聞いてくれるって。別に大したことじゃないけど、酒臭くて、力が強くて」
必死で腕を振り解いて、半ば突き飛ばす様にして、全力で走って逃げた。勿論酔っ払いなので追い付くはずもない。
でも怖かったんだ、と智は呟く。
俺の胸の中で、モヤモヤが一気に噴き出す。
バカな事しやがって、と。酔っ払いに対してか智に対してか解らない負の感情。
「センセ?」
黙り込んだ俺を智が見ているのは解ったが、そちらを向く事は出来ず、溜息交じりに、
「こんな時間にそんな瞳でいつまでもうろうろしているからだろ」
と口から出てしまった。
言った瞬間に、しまった! と思った。
高校生が七時にうろついていることは全く珍しいことではないし、自分が高校生の時にどうしてたか思い出すと、人に偉そうに言える立場ではなかった。
何となく落ち込んでいる智を突き放す様な言い方をしてしまったことに対しても一瞬で後悔した。
腕を掴まれたと聞いて、酔っ払いに対して負の感情を覚えたくせに、何故こんな言い方をするんだ。
「今のは」
嫌な言い方をした、と続けかけた時、並んで歩いているはずの智の気配がふっと消える。振り返ると三歩程後ろで立ち止まっている。
「智?」
俯いているので、どんな表情をしているのか全く読み取れない。
数歩戻り、智の顔を覗き見ようとしたその時、左手を頬に添えたかと思うと、智は右手の人差し指を右目に突き立てた。
「!!」
俺は視力がすこぶる良いので、コンタクトレンズとは無縁だ。目の悪い友達は居るが眼鏡が多く、まさかこんな風に目の前でコンタクトレンズを出し入れしているのを見た事がない。
噂には聞いていたが、本当に指を目に入れるのか!
ただただ呆然と見守る俺を無視して、人差し指に右目のコンタクトレンズを乗せたまま、中指で左目のレンズも器用に外す智。
両方外した後、智はやっと顔を上げる。街灯の明かりで、智の顔が泣きそうに歪むのが見えた。
智は取り外したコンタクトレンズを握り締めたかと思うと、俺に向かって投げ捨てる。軽い物だ。俺に当たる前に地面に落ちる。
「と」
「一人で帰る」
付いて来るな、と俺を通り過ぎて智は走って行く。
目的地は同じだから付いて来るなと言われても困るし、何より追いかけても知れている。
それでも俺は呆然とその背中を見送った後、地面を見詰める。
コンタクトレンズは、暗くてどこに落ちたのかもう判らなかった。
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