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俺の一週間は中々ハードだと思う。
講義を受ける。書店のバイト。智の家には週に二回。一回は夕食前、一回は夕食後。
もう一方の生徒は週に一回。こっちの方が元々成績が良い所為もあるが。
時間が空けば書店のバイトを調整して貰って増やす事もあれば、友達と飲みに行く事もある。これからの時期は試験もあればレポートの提出もある。
智に言われた「苦学生」という言葉を思い出す。
勉強が好きで大学に進んだわけではないが、通うからにはそれなりに真面目に勉学に励みたいし、仕送りに頼って遊び回るのは性分じゃない。
体が二つ欲しい、と最近よく思う。
書店でレジ係をしながら、「一つしかない体をどうやって一週間上手く動かすか」とぼんやり考えて居た時、数学の問題集が差し出された。
いらっしゃいませ、と呟いて受け取りふと顔を上げると、俺の「素直で可愛い方の生徒」が微笑んでいた。
「こんにちは」
「あれ。これ買うの?」
他に客が居なかったので、ぱらりとページを捲り目を走らせる。
「教えて貰って解るようになって来て、ちょっと面白くなって来たと言うか。教科書以外の問題も解いた方が良いと思って」
悪くない内容の問題集を裏返して価格を確かめる。
店内に目を向け、バイトの相方が遠くの棚の整理をしているのを確認して、俺が買っといてやるよと小声で言う。
「バイトが買うと一割引なんだ」
たかが一割だけど、されど一割。参考書や問題集は意外と値が張るのだ。
良いんですか? と言いながらお金を渡そうとするのを制して、
「今日バイト終ったら届けるから、その時に貰うよ」
問題集だけを受け取り、軽く手を上げて去る彼を見送る。
ほら、やっぱり素直で可愛いのが一番だよな。
そう思いながら一人で頷いていると、すみませんと声を掛けられる。
「いらっしゃいま、せ」
そこには何故か棘のある視線を向けた紫の瞳の智が、バイク雑誌を片手に立っていたのだった。
本屋でのアルバイト終了後、問題集を家まで届けてお金を受け取る。そしてその足で智の家へと向かう。
いつもの「先生がお見えよ~」という声を聞き、失礼しますと断ってから階段を上がる。
ノックして入室。
智は机に向かい、今日購入したバイク雑誌を読んでいる。
よぅと声を掛けても振り向きもしない。
まったく。
俺は鞄から取り出した問題集をとんと軽く智の頭に当てる。そこでやっと顔が上がる。
「何」
「土産。しっかりオベンキョーして下さい」
預かった問題集を見て中々良いと思って同じ物を二冊購入。一冊は頼まれた本人に。一冊は、智にプレゼントしても悪くはないかと思ったわけだ。
俺から受け取った問題集の表紙を見ながら、智は小さく微笑む。その横顔を見て、とん、と。問題集を頭に当てた時みたいな小さな振動が、俺の胸に響いた気がする。
何だろう。
「今日は悪かったな。割り引いてやれなくて」
雑誌を預かって後で届ける事も出来たのだけど、タイミング悪く客が続いてしまい、預かる事が出来なくなってしまったのだ。
その話を蒸し返すと、折角笑顔だった智の表情が、急に硬くなった。
「山下君とどういう関係?」
「あれ? 知り合い?」
「一年の時同じクラスだった。仲がヨロシイようで」
「…ヨロシイって」
苦笑しながらただの生徒だよと答えると、どっちの生徒がお好み? と挑戦的に訊いて来るではないか。
最近やっと、例え揶う態度であったとしてもやりとりに優しさを感じていたのに、何だ何だ、この痛い視線は。笑っていない瞳は。
「どっちって言われても」
「片方は仲良くレジで談笑、片方は他人の振り」
「偶然だろ」
「ふうん」
「あのなあ」
「別にどうでも良いけど」
自分から絡んで来たくせに、投げやりに話を終らせる。
「何だよそれ」
「別に」
口を尖らせて俺の視線を逃れようと椅子の角度を変える智。
何となくむっとしてしまった俺はその背もたれを掴み、智の体をこちらを向ける。
「何だよもうっ」
キッと向ける瞳が、俺を真っ直ぐに見据え視線が絡んだ。
一、二、三……五秒くらいだったと思う。
思考が止まった時間は。
俺は乱暴に背もたれを押し、その勢いで彼はぐるんと向きを変える。
俺は今何をしようとしたんだろう、と考えるとこの場から逃げ出したくなる程恥ずかしい。
両手で顔を覆い、その手でそのまま前髪を掻き揚げる。天井を見上げて大きく息を吐いた。
「片方は、思ってたよりも成績が良いので手が掛からなくて楽だし、素直だ。
もう片方は素直じゃないし可愛いくもないけど、成績が悪いから生徒としては教え甲斐があって、好みだ」
可愛くないなんて、よく言ったもんだな。
と。
心の中でもう一人の俺がツッコミを入れたのが解った。
けれど他に言い様がないではないか。
雰囲気に飲まれてキスしたくなった相手に、冷静に可愛いなんて言ってしまう様な、そんな「先生」であってはならない、と思ったわけで。
智は俺の言葉を噛み締めて、「自分の方が手が掛かって可愛い」という都合の良い変換をしたに違いない。
少し考えた後、
「お土産に免じて許してあげるよ」
椅子を元の位置に戻し、黒い瞳を俺に向けて、口元を緩めた。
この痴話喧嘩もどきのやりとりは何だ。
いつもの俺を揶うネタか? それとも本気でヤキモチ焼いたって?
問題集を開いている智の横顔を盗み見ても、真意は掴めない。
頭を抱えたくなった俺の耳に、
「うわあ、チンプンカンプン」
という呟きが聞こえて来た。
がくり。