10. Other side 2
母親が書いたメモの住所を頼りに、先生の家を見付ける。
年季の入った三階建ての小ぢんまりしたマンションの三階、角部屋。
階段を上り、緊張しながら部屋の前に立ち、大きく深呼吸をした後、気合を入れてチャイムを鳴らす。
押してから一秒遅れて、キンコン、という音が室内で響くのが解った。
はいはい、と中で返事をするのも聞こえる。
思わず微笑んでしまう。
「はい、誰」
がちゃりとドアが開き、先生が顔を出す。
「え」
…と。
俺と先生の口から同時に声が漏れた。
「何だよそれ」
お互いがお互いを指差し、声がユニゾンする。
先生はあろうことか、その口にタバコを咥えているのだ。
冗談じゃない。タバコは大嫌いだ。
間違ってもその口でキスなんてするなよ、という言葉が喉元まで出掛けて、慌てて飲み込む。
先生が顔を寄せて来てキスをするよりも、帰りかける先生の腕を引いてキスをせがむ回数の方が多い、と瞬間に気付いたからだ。
その情景を思い出して、頬が熱くなる。
先生の方は「又無駄遣いを」と呟いて苦笑している。
紫色の使い捨てのカラーコンタクトレンズを先日使い切ったので、今度は緑色を買ってみたのだ。
今日がそのお披露目だった。
「センセ、タバコ吸うの?」
「いや、止めた」
「ホントに?」
「タバコはハタチ迄」
真面目な顔をして返すので、思わず吹き出す。
「何、その名言」
「中学三年の担任の言葉」
トイレで隠れて吸ってたのが見付かって、拳で殴られた後に言われた言葉がコレだぞ? じゃあ何で殴るんだよってその時は思ったよな、と先生は一人思い出し笑いをする。
「俺、タバコは嫌いだから」
一応主張してみると、だから止めたってと笑う。
たまたま部屋の端に落ちているのがさっき見付かったのだと。
何と無く咥えてみたけど、吸いたい気持ちはないと言う。
「それにこのマンション、古そうに見えてオール電化なんだよ」
「だから?」
「火がない」
タバコが転がっているのだから、ライターだって一つくらい持っているだろうが、と思った俺の気持ちを読み取ったのか。
「一回友達の家で火がなかった時、ガス台で火を点けようとして前髪を焦がした事があってさ。それ以来ライターかマッチでしかタバコに火は点けない。つまり今はハタチになったしライターもないから、タバコは吸わない。OK?」
先生はニコヤカに俺に言う。
どきりとしてしまったのが隠せなかったように思う。
「で?」
「え?」
「どうした?」
「何が?」
先生は苦笑して、何か用事があったんじゃないデスカ? と丁寧に訊く。
初めて手の中に紙袋があった事を思い出す。
「あっ。そうそう、ケーキ」
差し出すと先生は、覚えててくれたんだとと嬉しそうな顔をする。
母親と先生の二人の秘密を見せつけられた様で、やっぱりちょっともやっとした。
「智は?」
「え」
「食べたか? ケーキ」
まだと答えると、インスタントで良ければコーヒーが入るよ、と言われる。
「え、センセの部屋、入って良いの?」
瞳が輝いたのを自覚した。
意味もなく入れて貰えないような気がしていたのだ。
一人暮らしなのだ。足の踏み場もない程荒れている事もあるだろうし、自分の城に他人は入れないという場合もあるだろうし。
俺の瞳の輝きに先生は三度目の苦笑を漏らして、どうぞとドアを大きく開ける。
が。
そうだ俺、と呟き、その手が途中で止まる。
「生徒は部屋に入れない事にしてるんだった。問題があった時困るだろ」
ニヤニヤした先生は、「じゃあそういう事で」とドアを閉めてしまう。
言葉を一言も発せないままそれを見て、呆然とする俺。
ドアを一枚隔てた向こうで、声を押し殺して笑っている先生の姿がハッキリと見える様だ。
振り回されてる、と感じる。
今までの仕返しなのかもしれない。
けれどそれに応えたいと思う自分が居る。
チャイムを押す。
一秒遅れて室内で響く音。
ドアが薄く開き、笑いを噛み殺した先生の顔が覗く。
「入れてよ、康平」
「どうぞ」
ドアが大きく開き、俺はお邪魔しますと呟く。
一歩進んだ時に腕を取られ、引き擦り込まれた。
足元でケーキが潰れる音を聞きながら、頭の中で考えたのは、タバコは咥えるのも禁止、という事。
いつもと違う苦いキスに半ば酔いつつも、いつもの甘いキスの方が良い、と思った所為だ。
完
最終話まで掲載出来て良かったです。
ちなみにこの話は部分的に体験談も入ってますが、フィクションです。
タバコは20歳になってから、が法律ですので、その辺りよろしくお願いします。
また次の作品もお読み頂けると嬉しいです。
有難うございました。