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憂鬱の音

作者: 水川肇

何をとち狂ったのか新○新人賞にぶん投げた短すぎるやつ

あんまり読まない方がいいよ


 生活には困っていない。

 未来など不確定なのだから、これから絶対に困らないという確証があるわけではないが、よっぽどのことがない限り路頭に迷うことはない。そんな生活水準が所謂「安定した暮らし」と言われるものなのだろう。私はそんな暮らしを送っている。

 就活の波になんとか乗り、燃え上がるような恋ではなかったが穏やかな夫と結婚して寿退職をした。義両親とも実の両親ともいい距離感の付き合いをし、介護が必要にはなってきたが、こちらの支援を必要とはしていない。子どもはいないが、趣味に精を出しながら専業主婦をしている。側から見たら、私はとても幸せそうに見えるのだろう。

 それに対して否定するつもりはない。だが、私にはありとあらゆるものが羨ましく見えた。具体的に何が羨ましいのかは分からないが、例えばテレビに映る若い人を見れば、私とは違い未来があることに羨ましくなる。しかし、若い頃に戻りたいかと自分に問えば、別に戻りたくもない。

 今とは違い、ものすごくどうでもいいことで悩み続け、何が不安なのか、何が悲しいのかも分からず、涙を飲み込みながらなんとか生きてきたような青春時代はひどく懐かしい匂いがする。戻りたいような気がすることもある。一瞬だけなら確かに戻りたい。だが、体が若返ったとしても、もう一度全てやり直したいようには思えない。

 他にも輝かしい経歴を持った人、極端にお金を持っている人。全てが羨ましい。全てが妬ましい。しかし彼らのようになりたいというわけではない。

 足りない。何かが足りないのだ。




 この漠然とした乾きは、結婚して3年ほど経った頃から感じ始めた。最初は真新しいことだらけで、初々しかった生活も3年も経てば当然日常になる。

 その頃に趣味のハンドメイドアクセサリー作りを始めた。これがなかなか楽しく、とても自分にはあっていた。アクセサリーを作っている時は、不思議と渇きを感じなかった。センスも悪くないらしく、友人の経営する店にちょっとしたアクセサリーコーナーを設けてもらえば、それなりに売れた。最近ではもっぱらフリマサイトでの販売になったが、友人から「今日は○つ売れたよ」という報告を受けている時の方が私は輝いていた。

 輝き。そう、私に足りないのは輝き、ときめきだ。心が大きく揺り動かされるような、何がが欲しい。このまま何もせずに、平坦な道を一歩ずつ歩み、少しずつ確実に枯れていきたくはない。

 思い立ったら居ても立っても居られなくなり、誰もいない家の中でぐるぐると意味もなく歩いた。



 何が欲しいのかはわかった。しかし、「心が揺り動かされるような輝きやときめき」などといった抽象的なものがどこで手に入るだろうか。いくら払えばいいのだろうか。

 夫のもうすぐ帰るという連絡を尻目に、晩御飯の支度をしながらも頭の中はそれで一杯だった。意味もなく、鍋を無駄にかき回す。粉々になった豆腐のかけらが目に入り、慌てて止めた。

 輝いている知り合いは意外といる。50を超えてから大学に入り直したり、猛勉強の末弁護士の資格を取ったような強者もいる。しかしそんな気力があるわけもなく、努力をする気もない。

 「ただいま」

 「…おかえりなさい」

 今一瞬頭をよぎった“不倫”の2文字に思わず喉が詰まり、半拍開けて返事をしてしまった。声はなんとか裏返らなかったが、ものすごく悪いことをした時のように気が沈んだ。夫はいつも通り着替えに行った。まだ犯罪を犯す前から様子がおかしくなるような私にはとても不倫などできない。相手がいないのだからそれ以前の問題だが。

 

 輝きを得たいなら、輝いている人の真似をしてみたらどうだろう。安直な考えだとは思ったが、思いつく第一歩目がこれしかなかった。試しに自分の思う輝いている人をイメージする。きっと家事をしていないときは、時々本屋で本を買って、おしゃれなカフェで読み耽るのではないか。

 早速本屋に向かった。本屋には雑誌やコミックエッセイを目当てに来ることはあっても、小説なんて長らく読んでいない。今回イメージしているのは小説なので、何がなんでも小説を読まなくてはならない。さて、何にしようか。

 自己啓発本だろうか。イメージにはぴったりだ。しかし胡散臭いというイメージから、どうしても気が進まない。何冊か謎の断言調の題名に、知らない人間が絶賛していると書いてある帯の本を数冊手に取りペラペラと捲る。当たり前のことを大きな声でゆっくりはっきり聞かされている気分になるものしかない。大体いかにも見る人皆知っている有名人のような表情で、腕組みをしているコイツは誰だ。見れば見るほど読む気を無くしてしまいそうで、自己啓発本は諦めた。

 他にもお堅そうなものをいくつか手に取ったが、どれも読み切れる気がせず、結局何かの賞を総舐めしたらしい話題の本を手にとってお会計に向かった。

 ブックカバーさえついてしまえば、“カフェで格好つけて難しそうな本を読む浮かれた人間”ではなく、ただ読書をする人になれる。そう考えると急に気が楽になった。

 そのままカフェに入ってみた。若者のように呪文を唱えることはできないが、店員をイライラさせない程度の注文の仕方ができたと思いたい。

 出来上がったミルクティーを受け取り、混雑していて好きな席にというわけにはいかない店内を徘徊する。ちょうど小さな丸テーブルの席が空いたので、座った。

 こういう時はまず少しは飲み物を味わうのだろうか。それとも読み始めるんだろうか。迷った末にミルクティーを1/3ほどゆっくり飲んでから、本を開いた。……んん。少し目が悪くなった。近眼が進んだのか、老眼が始まったのか、目が悪すぎてよく分からないが、細かい文字が読みにくい。しばらく最適な距離をカメラのズーム機能を使うように探した。

 気取ったノートパソコンを広げ、忙しく打ち込んでいる人の音をBGMに読み進める。序盤は登場人物が少なく、順調に読み進めていたが、1/4を過ぎたあたりで急に登場人物が増え、分からなくなった。集中力がなくなって同じ行を何度も読むというミスが出てきたあたりでカフェを退店した。

 帰り道に今読んだ本のストーリーをゆっくりと頭の中で反芻した。すると急に続きが気になり、いてもたってもいられなくなった。俯いて歩いていたのが、だんだんスピードを上げ、競歩の速さになり、最終的にお腹でも痛くなったのだろうか?という速さで走った。

 住み慣れた家の鍵開けに手こずるなんていつぶりだろうか。鍵を間違えたかと思わず確認したが、間違いなく家の鍵だ。実家の鍵と自宅の鍵は形状が全く違う。ガチャガチャと盛大にみっともない音をあげてようやく家に入った。

 入った瞬間に少し落ち着いた。いつも通りに手を洗い、服を着替えてから続きに没頭した。もう同じ行を何度も読んだりはしなかった。主人公になったつもりで、セリフを声に出して読んでみたりもした。相手役の声は頭の中で流す。だんだん気が大きくなってきて、主人公のセリフを感情たっぷりに大きめの声で話し始めたところでガチャリと扉が開く音がした。瞬間にピタリと止める。聞かれただろうか。夫は私の声を聞いただろうか。バクバクと跳ね上がる心臓がうるさくて、足音もよく聞こえない。リビングの扉が開く。夫は不思議そうにこちらを見ている。

 「どうしたの?」

 「そっちこそどうしたの?なんでそんなにこっち見てるの?」

 確かにそうだ。帰ってくる夫を凝視していたことなどない。

 「なんでもないの。あ!」

 「ん?」

 「夕飯作り忘れちゃった……」

そういうと、いよいよ不審そうな顔をした。

 「本当にどうしちゃったの?そんなこと今までなかったよね」

 「本読んでたら、いつのまにか時間が経ったて」

 「本?珍しいね。読んでるのなんてほとんど見たことがなかったけれど。先にやること片付けるから、ご飯は待ってるよ」

 やってしまったな。深い後悔に駆られながら、食材の下拵えを始めた。夫は不思議がるだけで何も言ってはこなかったが、専業主婦をしている身としては仕事をサボったようで申し訳なくなった。ちらりと窓を見て、洗濯物を取り込み忘れていることに気づいて慌てて中断した。いつもはしないミスばかりだ。


 その夜。ベッドライトを淡く灯し、本を最後まで読み切ってしまった。読み終わった後の分厚い満足感を目を閉じてしばらく味わった。この感動を共有したいと、スマホで検索をしてネットサーフィンを始めた。この小説はマンガ化もしているらしく、映画にもなるらしい。マンガは明日買いに行こう。映画も後悔したら見に行こう。気づいたら空が白み始めている。慌ててスマホのアラーム設定を増やし、ベッドライトを消して目を閉じた。

 こんなに夜更かしをして、さぞ起きるのが辛いだろうと思っていたのだが、すごくスッキリと目が覚めた。お陰で増やしたアラームを止め忘れ、朝食の支度をする私よりもゆっくりと起きるはずの夫が眠れなかったらしく、小言を言われた。明らかに自分が悪いので、素直に謝った。

 昨日読み耽ってしまった分の家事を片付け、一休みしてからお昼過ぎに同じ本屋に行った。昨日の小説をマンガ化したものを手に取り、ついでに周辺も物色した。キラキラしたものが沢山ある。どれも読んでみたい衝動に駆られたが、マンガを大量に買うのはなんとなく気が引けた。結局一番読んでみたい長編少年マンガは我慢して、5冊で完結するものと昨日の小説のマンガの計6冊を買った。

 カフェで読もうかと思っていたが、6冊も持ち込んで読み耽るようなものではない気がして、迷った末に結局帰宅した。

 今日は失敗しないように、ご飯の支度の時間にはアラームをセットした。小説をマンガ化したものを一気に読み終え、次の5冊に手をつけた。2冊目にかかったところでアラームが鳴った。空はもう暗くなってきている。名残惜しい気持ちで一杯だったが、渋々マンガをしまい、立ち上がった。


 もっと気兼ねなく沢山のマンガを読みたい。欲求は膨らむ一方で、夫が眠った後にマンガを漁っていると、通販サイトに“電子書籍ver”という文字があることに気づいた。購入すると、スマホで読めるようになるらしい。

 これだと思った。誰の目を気にするわけではないが、大量のマンガを買い込むのは私にはできないだろう。しかしこれなら気軽に買い込んでいつでも読める。小躍りでもしたい気持ちを抑え、読みたい作品を次々にカートに放り込んだ。やることがない時にちまちまと節約して貯めていたお金が意外と余っていたので、一気に支払った。

 マンガを読んだ後の不思議な高揚感を抱えて、生きていると少し生活が楽しくなった。自分は何も変わっていないのに、見える世界が変わる。コレが生きがいというものなのだろうか。

 自分のお金でこっそり電子書籍を買い込み、アラームをいくつもつけながら送る生活は、表面上は何も変わらない。

 「最近スマホを触り過ぎではないか?」とは言われたが、夫は私よりももっとスマホを触る人間なので強くは言ってこなかった。


 いよいよ最初に読んだ小説の映画を見に行った。

 映画に出た後の高揚感は恐ろしいほどだった。マンガとは比べ物にならなかった。あんな風に私の生活にも綺麗な音をつけたい。革靴を履いたら小気味いいカツカツとした音がなってほしい。ページをめくったら、ぺらりと鮮やかな音がなってほしい。そうしたら、私の生活はもっと輝く気がする。今なら、どんな状況でも楽しく生きていけそうな気がする。無敵だ。


 目に見えて明るくなった私に、周囲の反応は好意的だった。月に2~3回レディースデーに映画を見て機嫌よく家事をするように見える私に、夫との会話も心なしが弾むようになった気がする。スーパーの店員さんの愛想もいい。街ゆく人の顔も笑顔に見える。

 しかしそれは長くは続かない。生活をするうちに、現実が戻ってくる。時間が経つにつれて映画館を出た瞬間の輝きがなくなり、この世の全てがくすんでいくのだ。嫌だ。ずっと映画を見た直後のようなキラキラした世界で生きていたい。元の乾いた暮らしにはもう戻りたくない。

 いつしか戻ってくるという感覚だったのが、襲ってくるという感覚になってきた。現実が襲いかかってくる前に、映画を見にいくようになった。同じ作品でも違う作品でもいい、とにかく映画を見たい。月に2~3回。週に一回。週に2回。一日置き。1日一本。気づいたら一日中映画館に入り浸りに近い生活になっていた。

 映画を見た日の自分はふわふわしているからよく分からないが、気づいたら夫は帰ってこなくなり、部屋は随分荒れた。

 だが、それに対して何も感情が全くわかない。やけに他人事だった。

 このくらいの汚い部屋はよく映画に出てくる。目減りする貯金も不思議と怖くなかった。貧乏な主人公などよくある設定た。

 しかしお金がなければ生活がままならず、映画も見られなくなる。夢だけ見ていた生活だったが、夫の口座から引き落としていたカードが使えなくなったところで映画を見ていても逃げられない現実に襲われるようになった。

 この天国はもう続かなくなる。それがひたすら怖い。

 どうすればいいのか、逃げられない、逃げられない、助けて、助けて、助けて。嫌だ嫌だ嫌だ怖い怖い怖い怖い!!!!

 苦しみもがき、耐えられなくなった私はこれで最後と、一本の映画を見た。

 衝撃的な最後だった。

 そこで全ての悩みが解消してしまった。


“してしまった”と思ったのは、最後の理性かもしれなかった。


 とっくにモバイル通信ができなくなったスマートフォンをひらき、繁華街をウロウロとしながらFree wifiを探す。

……時間制限制か。今の自分に状況がピッタリとリンクしている。

 もう随分開いていなかった検索エンジンをひらき、志願兵 募集 と検索をかけた。手が興奮でブルブルと震え、打つのに時間がかかる。

なんとか押さえつけて一番上に出てきたものに応募し、ゆっくりと深呼吸をする。

 やっと見つけた終着点に、私は心から安堵した。

 人生の幕引きなどせずに、派手にぶちかます準備をした。相変わらず現実では音がないので、周囲の目も気にせずに

「ばーん!!どどーん!!」

と大声で叫びながらスキップした。

 当然おかしなものを通行人が凝視してくる。

 こちらをじっと見つめるものには、手で銃のマークを作って「ばーん」と言いながら、打つ動作をする。楽しい楽しい。全てが楽しい。もう現実は襲ってこない。

 なぜか押さえつけてくる人間が集まってきた。顔がよく見えない。目の前で花火が上がりすぎているのだ。現実ではしないはずのものが、たくさん見える。盛り上がるシーンに音がないのは失礼だ。面白くなって、ドカンドカンと口で効果音をつけながら、ケラケラと笑った。

人生はこんなにも楽しく、幸せなものだ。




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