神田川、人生最大のピンチ
俺の名前は、神田川素意成。他に類を見ない、個性の光る名前と独特なキャラの男。
俺はつい最近まで、『読書サークル研究会ほにゃらり』のサークル長であった。
それだけでなく、T大学生食堂界隈に住む唯一の野良猫ノラロウとタッグを組んだ、ユーチューバーとしても活躍しながら、大学の他の運動部の助っ人として公式試合や公式大会に選手として出場し、数々の戦歴と優秀な成績を残してきた。
特に、だ。
全国にまで駒を進めたという、得意種目は、水泳。水泳部の面々は、大会のたびに俺に召集をかけるという、それこそ俺に頭が上がらない状態だった。
だった?
過去形?
そうなのだ。それまでは順調だった俺の華麗なる人生の足跡は、あの日。
見事についえてしまった。
あの日。
強豪スイマーたちが集う、地区予選。
俺は自分の勝利を信じ切っていた。俺の右に出る者は、この界隈ではひとりとて見当たらないからだ。必ず決勝に行き、そして全国への切符をもぎ取ることができると、信じて疑わなかった。
信じていた。あの事件が起こるまでは。
〈回想〉
「神田川! よく来てくれた! ちゃんとお前の分の選手登録も済ませてあるからな! 水泳部あげて、応援するぞ! 期待してるからな!」
「おうっ! 任せておけっっっ! 個人メドレーだろう? 得意中の得意ってやつさ! 俺のぶっちぎりの優勝を、この地球上のすべての生きとし生けるものに、見せつけてやるからなっ!」
と、俺はジャージのチャックを首まで上げた。
ん?
この時点で何かがおかしいと?
読者諸君、よくぞ気がついた。ここで俺の日常をちょっとだけ覗いてみよう。
サークル活動や部活動に参加する際、俺はスイマーらしく、いつもビキニの海水パンツいっちょうというスタイルなのだが、その半裸の上半身にふぁさっとジャージを羽織る時。
それは、腹を下した時と、読サーほにゃらりの唯一のマドンナ、俺の、俺だけの女神(←長谷部と同類)弓月 花音に、「神田川先輩、寒いでしょ。これ羽織ってくださいな」と、ジャージを投げつけられた時のみ。(←この時点で弓月チャンはセクハラサークル長にかなりのご立腹)
だが、ここは大会の予選会場。俺のマドンナ、愛しの弓月は今ごろ、手料理をこしらえながら、俺の帰りを待っているはずだ。(←誇大妄想)
ってことは? もう、あれしかないだろう? 率直に言おう。
下痢だ。
今朝からちょっと腹の調子が悪い。
地獄の筋トレによりシックスパックはキレッキレだが、少しでも腹に力を入れた日にゃ、大惨事となるだろう。それこそ地獄。地獄の筋トレ→地獄の下痢ぴの、地獄無限ループ。
その状態で冷たい水を張ったプールに飛び込もうもんなら……。
ちょーーーーーーーーーッッッと待て。
そこの読者! あんたねえ、なにを想像しとんねんっ! ちゃうわ! さすがの俺でも、それはないからッッッ! マジで、そんな想像しないで! ご飯中の人もいるからねっ!
そんな話じゃない。俺はこの大会に参加することが決まった3ヶ月前から、この大会にかけてきたんだ。全力で筋トレに励み、全力で豆腐メンタルを鍛え上げ、全力で腹の筋肉を叩き直した。
腹筋1111回、普通の腕立て777回、指腕立て3回(←指をひねりがちなので無理はしない)、そしてスクワットを777回(ゾロ目&ラッキーセブン好きだが、腹筋7777回はさすがにムリ)。
これを毎日繰り返して、繰り返して、繰り返した。食事の時間や寝る間を惜しんで、繰り返した。そして「あれ? 今って何回めだっけ?」これも何度も何度も繰り返した。ゾーンに入って抜け出せなーい! 何回やったっけーーー?ってのを、何度も繰り返した。
そのため、俺の筋肉はさらにバッキバキとなった。
そして、今大会。水泳大会の予選の本番が、今まさに! やってきたってわけ!
俺は万全の準備を済ませて、ここに立っている。負けられない戦いがここにはある!
「かんだがわ〜〜〜そいやっっく〜ん」
コールだ。了解。俺が嵐を呼んでやる。
わあああぁっっと歓声が上がった。
当たり前だ、俺の読サー活動での速読大会優勝という功績は、あまり知られていないのだが、スイマーとしては、かなりの有名人だからな。
黄色い歓声が飛んでも仕方がない。
「きゃーーー! 神田川くーーーん!」
はいはいわかったわかった。後でライン交換してやるから、そこで大人しく待ってろ。(←上めせナルシストが鼻について、すぐに解散)
俺は、観客席に向かってこぶしを突き上げた。そして競技用プール、スタート台の前へと歩み出る。ジャージのチャックに手をかけ、一気に下ろす。ジャージをガバッと脱ぎ捨て、そしてもう一枚も。それをベリッと剥がすと、ジャージとともに後ろへと放り投げた。
そして。はやる胸、息を抑えながら、スタート台へと登る。
いや、だから下痢は大丈夫だってッッッ! 逆に、あれ、俺って……下痢ってた? って思い出しちゃうでしょ! そこは、そっとしといて。
話を戻そう。
で、ここぞとばかりに、自信満々、スタート台に乗ったわけよ。
皆さんご存知の通り「Take your mark [テーク・ユア・マーク]」……プァー!! で、スタートってなるわけなんだけど、まさにその瞬間。
「テーク・ユア・マ……マ、マ……え、えっと? ちょ、ちょっとお待ちください。選手はいったん戻りましょう。いったん戻ってください」
で、ここからのアナウンスの内容に耳を疑ったってわけ。
「えーっと、第2レーンの神田川くん。あなた……失格です」
え? は? はえ? どういうこと?
確かに。
俺は過去に一度、読サーの夜ドライブ&闇鍋に参加した日、愚かなサークル員によって、腹筋のシックスパックにアミダくじを油性ペンで描かれ、そのまま水泳大会に参加し、大目玉を食らったことはあった。
だが、今回。この見事な腹筋には、アミダくじだって描かれてないし、前回の試合で売りさばこうとして大会関係者に怒られてしまった、ユーチューブ動画『神田川素意成の煌めきメモリアル動画』のDVDだって、今回は持ち込み販売を諦めてきた。
「な、な、な、なぜだーーーーーー!」
失格と聞いて、俺の頭は真っ白になってしまった。
真っ白な灰になってしまった……。
〈回想終わり〉