震えの太陽
小さい頃、庭の隅にしゃがんでシャベルで蟻をつぶしていた。太陽が空のてっぺんにある暑い夏の日だったが、蟻は行列を作って熱心に巣に何かを運んでいる。だから白いシャツを着た僕も額の汗を拭いながら、一生懸命に蟻を殺した。小さな蟻たちはあまりにすぐに動かなくなるので、不安になってシャベルの先で何度もその黒い塊をつついた。ほんとうに死んでいるのかな、と僕は疑っていた。
「なにやってるの?」
庭の乾いた黄土色の砂の上に、濃い黒の面積が増えた。振り返ると兄が立っていて、僕はなんとなく言葉に詰まった。
「……あ、アリをつぶしていたんだ。」
「どうして?」
「どうしてって……、」
理由なんて考えたこともなかった。ただ兄の真黒な丸い目はどこまでも純真な疑問に満ちていて、途端に恐怖に支配された僕は、すぐに立ち上がって兄を突き飛ばした。二歳しか離れていないとはいえ、幼少期の一年間は大きいというのに、兄の体はあまりに軽く倒れた。どさっという音すらしなかったような気がする、尻餅をついた小さな兄は不思議そうに僕を見上げいた。
「アリを殺しちゃだめだよ。」
そしてはっきりそう言った、僕は突発的に、持っていたシャベルで兄の顔を殴った、白い頰から血が出た、本物の人間の血だ。僕が手に持っていたのは子ども用の先が丸くなっているシャベルでなく、母が庭仕事に使う大きなシャベルだったのだ。蟻をつぶしたシャベルに少し兄の赤い血がついた。僕は目を閉じて、兄の顔の汗と血が混じり合うさまを想像して、腹の底がじくっと妙に熱を持ったのを感じた。
まだ小学校にも入っていない頃の記憶がこんなに鮮明であるはずがないけれど、僕は何度もこの光景を思い浮かべている。思えばあれが、生まれて初めて人に性的な興奮を感じた出来事だった。
冬の夜にベッドに一人で入っている僕は、寒くて布団の中で体を丸めているというのに、窓はすっかり開け放している、中途半端に開いたカーテンが夜風に揺れていた。月明かりがぼんやりカーテンの形を浮かび上がらせて、窓から遠くに薄い星が見える、僕はそれでやっと安心するのだ。この狭い自室は、あの夏の日とは真逆の光景だ。壁一枚隔てて兄がすうすうと寝ていることなど忘れてしまおう、でないとまた体が妙な熱を持ってさめないままに夜を明かしてしまうから。枕元には兄から借りた文庫本があった、おそるおそる手を寒い外気にさらし、もぞもぞ動かして本を手に取った。否、取ってしまった。表紙の匂いをくんと嗅ぐと、本を支えていない方の手は、自然と布団の中にある自分の下半身を探り当てた。僕は、蟻をつぶしたシャベルで兄を殴って血を流させたあの日から、何も変わっていなかった。薄暗い部屋の中で文庫本の表紙の題字がぼんやり判読できたが、どうしてこの本を兄から借りたのか覚えていなかった。兄の白い頬と赤い血のコントラストが、いつまでも強烈に脳を支配していた。