蹴られたことから始まる
兄の、ぼろぼろの、毛玉だらけの、古くぼやけた体操着の背中には、砂の足跡がついていた、細かく言うと砂のついた靴を背中にシッカリと押し当てたような跡。要するに、兄は誰かに背中を蹴られたのだ。
学校の帰りの電車。を待つ兄の背中を見るのは初めてだった。俺は平日の放課後は部活動に勤しんでいて、兄と帰ることは今までに一度もなく、今日だって一緒に帰るつもりはなかった、兄だってそのはずだ、本を持ちながら顔は上を向いていた、意識が遠くに。そばで友人達が、つまらないことをできるだけ面白おかしく話す競争をしていたが、俺は大して興味をそそられず、兄の平凡な背中に突如として表れた暴力!、に釘付けになっていた。気づいたら吸い込まれるように兄に近付き、危うく兄を線路に突き落とす距離で、その跡を叩くようにかき消した。
俺が背中に触れた瞬間、ビクッ!という擬音がぴったりに兄は体を震わせ、しかし振り返ってすぐに安堵の表情をした。普段感じることのない血縁者の特権に、俺は何だか誇らしいとまで感じて、わざとらしく何度も兄の背をなぞった、「汚れてたよ。」
「ありがとう。」
誰も背中の汚れを指摘してくれなかったんだと思うと、兄が、灰色に汚れた、日光に怯えている、典型的にあわれな生き物に見えてきて、俺はそういうものしか愛せないから、兄がこれからも全人類に忌み嫌われながら端っこを歩くことを願った。
「何してんの?」
友人Aの声が、屋根も壁もないむき出しの駅のホーム、に吹く風に衝突して消滅した、夏は暑く冬は寒い、天候の影響をもろに受けるこの場所もたまには役に立つ。容姿の良い恋人がいるとか、部活動でレギュラーだとか、友達が多いとか、そういった日頃気にしている高校生の価値というものは、兄の弱さの前では圧倒的に無力だった、しかしそういった表面的な強者が兄を虐げているから兄はどこまでも弱者でいられる、なんだか不思議な論理だ。
カンカンカンカンカン______
「若くて無謀な俺らは、死なんて意識することなく生活をしているのに、まっすぐな線路を見ると飛び込みたくなるのはなぜ?」
「たしかにくねくね曲がっていたら、こんなに惹き付けられることはないかもしれないね。」
兄は続いている線路の先を眩しそうに見つめた、電車がスローモーションに近づいてくる、俺は電車の車体・邪魔されることを嫌う真剣に愉快であろうとするフォルム、を意識し、目を大きく開けた、その瞬間、俺___兄___電車は悠然と一体となり、俺は歓喜に満ち溢れて笑い、兄は戸惑いを覆い隠すように笑い、電車は俺ら兄弟に付き合って笑っていた。そんな夕方だった。