抱擁、あるいは呼吸
人々が何を言っているのか一切の判別できない騒がしい駅の人混みの中で、たった一つの静寂があると思ったら、それは兄だった。上を見ても、うす汚れた低い天井_____それは広く存在しているのに不思議と誰も目を向けようとしない人工物、しかないのに、頭は微動だにしない、誰がぶつかってくるとかおかまいなしに。重力に従って下へと流れる涙は、たぶん床まで届かないだろうけど。
兄はよく泣く。それは小さい頃からずっと変わらない、厄介だが彼の大切な性質で、僕は一番近くで、音を知らずに悲しむ兄を眺めていた。
「どうして泣いているの?」
「線香花火のきらきらが落ちた。」
「どうして泣いているの?」
「黒のクレヨンが足りなくて、夜空が完成しなかった。」
「どうして泣いているの?」
「空いたベンチに落ち葉が一枚乗っていたのに、知らない人がその上に座った。」
「どうして泣いてるの?」
「僕のノートに描かれた完璧な図形が、先生の赤ペンで不完全になった。」
どうでもいいよ。
でもその一つ一つが兄を憂鬱にし、感傷だらけにしている。僕は、ちっぽけなことにいちいち胸を痛めて、いちいちぼろぼろになっている兄を見ていると、たまらず抱きしめたくなるのだ。
「それは、翼を怪我した鳥がよちよちと歩くのを、愛おしげに見つめている人間の高慢さだよ。」
下から声が聞こえた、兄は僕よりふたまわりくらい小さいので、僕から表情が見えない位置に顔がある、つまり胸くらいの場所。でも整ったつむじが僕の方を向いているのがいつも、安易な安心に繋がっていた。
「ごめん、兄ちゃん。でもその感情だって兄ちゃんはゆるしてくれると、僕は端から信じ込んでいるんだよ。これは思い上がり、なのかな。」
「……それは、憐憫からくる愛情なんて……、って否定したい気持ちもあるよ。でもおれの心をたえず動かしているものたちの本質は、そういった感情なのかもしれないな。やっぱりお前は、おれの弟なんだな。」
ぎゅっと、厚いダッフルコートの上からでもわかるあたたかさで、僕は兄を一心に包み続けた。抱きしめられっぱなしの兄の手から、内部の空洞をのぞかせる、ヒビのはいったどんぐりがころんと、かたい床の上に落ちた。今日の絶望の正体はこれかと、僕はどんぐりに限りなく優しい視線を向けた、それが僕の愛だった。