君を忘れない
夏休み
「飛び込み自殺て、なかなかでけへんもんやな」
水着姿の小学六年生、二宮芽衣はさびた欄干を乗り越え橋に立ち、寒イボを立てて小刻みに震えながら、ゆったりと町を横断して流れる五戒川を顔つきも固く見下ろしていた。
今年はいつになく増して暑い日が続く。それだけに田舎の子供たちはエネルギーを得たかのように、捕まえようにもするりと逃げてしまいそうに活きもよく泳ぐ魚のようだった。
これから芽衣は、この橋から川へ飛び降りるのである。名付けて「自殺訓練」。
いつもながら唇が青く冷たく、こわばらせた顔で目を真ん丸に凝視させている芽衣。裸足の両脚をハの字に踏みこらえ、欄干をぴったり背中に当てる。そのマジな表情はあまりに弱虫に見えて、少し強気な顔つきの芽衣にとっていつも仲間に笑いの的となる。
芽衣と同じ小学六年生、横田勇太が「早よ飛び降りいな! お前の命運はとっくの昔に尽きたんやで! いさぎよく命を落とせ!この落ち武者が‼」と川面から橋の上の芽衣を見上げて叫んでいる。
橋の下から水着の女子の体見るなんて。春の終わりごろから胸が膨らんできた芽衣。しかし、自分でも見たことのない、下から見上げる自分の体。どんなカッコしてるんやろ? 股間なんて男子には見せたいような見せたくないような。ああ、せやけど横田君やったら、見て見てもっと見て。
アホウなこと言っている場合やない、飛び降りたらホンマに死んでまうのかも知れへんのやで? うちの家にあたしの葬式出せるほどの金あるかなあ? 一度もエッチしないで死んでまうのは悔いが残るなあ。
あたしが死んだら、あたしの未来の旦那はん、横田君は誰に取られてまうのやろう。
「やっぱり怖いわ! 堪忍してえなあ!」
芽衣が泣き出すと、芽衣の後ろに立っていた小学二年生のクソ生意気な少年に「これやから女はあかんのや! ゴタゴタ言わんと早よ死ね! 俺が成敗してくれたる!」と、叩くようにドンと肩を押されて、途端に欄干をつかむ芽衣の腕が外れて、ひゃー、と叫びながら芽衣は川へ落ちていき、そして一巻のお終いであった。
川の水量は多く、そして橋から川面までは二メートルくらい。子どもにとっては少し高い位置でも、落下するにはそれほど危険と言う訳でもない川にその身を投げて、子どもたちはみんな川遊びに興じている。
両足をくの字に曲がらせてバシャーンと着水するとお尻が強かに痛い。瞬間に氷水のような冷たい水が勢いよく体にまとわりつき、芽衣は水泡と共にキラキラと光りにきらめきながら川の中へ飲み込まれていく。
しばらくして川の底から両腕で水を漕いで、浮かび上がってきた芽衣が橋の上を見上げると、この頃つまらなそうな顔をしてばかりの、芽衣の姉の美亜が橋の上から長い髪とスレンダーな白い水着で川を見下ろしている。美亜は中学生なのに芽衣よりも胸がない、空を仰ぎ見るように美亜の方が遥かに背が高いのに。仰ぎ見るといえば美亜のバックの空がすごく青くてもくもくと白い雲が眩しく、いかにもなんだか夏休みだ。
「美亜ちゃんもはよ自殺せい!」
芽衣は飛び降りてくる美亜とはぶつからないように、美亜の真下から泳いで遠のいた。二人の頭がこの落下速度で衝突すると、冗談ごとではなく二人とも激突死してしまう。
中学二年生の美亜の涼しい顔は、何も聞こえていないようにそのあともしばらく川を見下ろしていたが、やがて両腕をそろえて少し飛び跳ねながら川へ飛び降りた。水面に着水しても、あまり水しぶきも上げずに美亜は川の中へ沈んでいった。
十人ほどの子どもたちがおおーっと一斉に歓声を上げる。
「ホンマ、美亜ちゃんはよう上手いこと飛び込むなあ」
芽衣は川面に浮かびながら首をかしげて感心するものだった。
次々と子供たちが橋から川へ飛び込んでくる。あたり一面田んぼばかりの田舎ではせいぜい川へ飛び込むことくらいしか、夏休みの遊びはない。川底までキラキラと太陽の光が届く透明度の高いきれいな川さえあれば、この町の子供たちはひと夏を十分に過ごせる。
泳げない子、川が好きではない子には、少し小山へ入ればカブトムシやクワガタムシ、適当に捕まえようと思えばセミでもカマキリでも構わない。女の子でも平気でそういった虫を相手にのんびり暮らしていく。
そんなゆったりとした時間の流れる場所が日本にはまだある。コンピュータプログラムだの精密なデータ、株価や学校の偏差値といった数字とは無縁の地域が、こうして同じ夏の太陽の下にある。
蛍狩りをするといってもこの町には蛍などどこにでもいる。夜空を見上げれば満天の星空からいつでも流れ星が降り注いでいる。いちいちお金をかけないと夢が買えない都会よりも、こんな町は遥かに夢にあふれた地上の楽園だった。
「何でいまさら東京へ帰るんねん!」
缶ビール片手にお父ちゃんは怒鳴った。お母ちゃんも同じように缶ビールを持ちながら怒鳴り返していた。
「お母ちゃんはもうここでは暮らしていけへんのやから、仕方ないやろ!?」
「何で暮らしていけへんのや? お母ちゃんが我慢でけへんだけのことやんか! そんな身勝手なお母ちゃんの言い分が通るのかいな!?」
田舎に憧れて東京から来たお母ちゃんやないか、誰かて生活に不満があってもここで暮らして行ってるで?田舎の生活に根を上げたからて、ほれほれと東京へ帰るような無責任は甘いで? みんな見てるで?
そんな風にお父ちゃんとお母ちゃんが喧嘩をしていた。夫婦で勝手に喧嘩をしとるのやったら、そんなもん飽きるまでやらせておけばええんやけど、この喧嘩、あたしにとっても「非常事態」になってしもたと、芽衣の頭のなかでその「非常事態」のてんまつがぐるぐる回っている。
昔、東京で働いていた会社にお母ちゃんの働き口が出来たという。どんな仕事をするのかあたしには分からへんけれど、相当な専門的技術が必要で、給料もたくさんもらえる仕事らしい。
お母ちゃんは一度離婚している。ある時わけもなく田舎暮らしがしたくなって、あたしや美亜ちゃんの本当のお父さんと離婚までしてこの町へ引っ越してきた。そしていまのお父ちゃんと再婚して、ひたすらコメを作る生活を頑張った。
せやけど、こんな田舎の田んぼでコメばかり作り続けていても、しんどいわりにはほとんど金にはならない。それに気づいたお母ちゃんは田舎暮らしの熱が冷めて、都会へ戻る夢をまた持ち始めて、十年がたった。
やっぱり、同じ労働をするなら東京で働く方が収入は比べようがないし、今のお母ちゃんには都会の刺激の方が断然、こんな田舎より魅力的だった。
田んぼで這いつくばる牛馬のような仕事なんて、結局のところ原始人のような人生でしかない。東京みたいにインテリジェンスな街の方が、お母ちゃんの本来の機能は発揮されるもの。
「東京なんていやや!」
いつもの家族会議のときに、芽衣は胸くそも悪く嫌悪感もあらわに叫んだ。
「ほな勝手にしい。お母ちゃんが一人で東京へ帰るさかい」
お母ちゃんの人を突き放すこんな言い方が、いつも芽衣には淋しさを覚えさせる。
「お母ちゃんがいなかったら誰がご飯作るの?お風呂も沸かされへん、洗濯もでけへん」
すると、お父ちゃんが「そんなもん、もう自分で出来なあかんやろ? 芽衣、いつまでも子どもでいるんやない。お母ちゃんは一人で東京へ帰したり」
美亜ちゃんはさっきからずっと、ずっと、ずーっと黙りっぱなし。何考えてんやろ?
「お父ちゃんはお母ちゃんを東京へ帰してもなんとも思わへんの?」
芽衣がそう尋ねると、少しお父ちゃんの表情にもうろたえたものを見えた気がする。いつの間にお父ちゃんも年を取った気がするなあ。お父ちゃんはそれでも強気に言った。
「人間なんて結局は、最後は一人で生きていくもんや。もう覚悟はできた。お母ちゃんは帰れ帰れ」
「ちょっと待ってよ、ほな、あたしらお父ちゃんと暮らすの?そんなんもっといややで?」
「せやったら、美亜も芽衣も東京へ行くんやな」
四歳と二歳の、幼いと言えばあまりにも幼い二人の娘を連れて、お父ちゃんと再婚してこの田舎へ来たお母ちゃん。そして、その娘二人はまるで人形のように、またお母ちゃんに連れていかれて東京へ持ち帰って行かれてしまうことになる。
刺激を求めて東京へ帰ると言う、そんな発想のお母ちゃんはいくら何でも勝って者。せやけど、あたしたちは黙ってついていくしかない。芽衣は大人の理不尽さにムカつく以外は何もできないことに気付いて、その後は美亜ちゃんと同じように黙り込んでしまった。
しなびたラーメン屋
ご飯を作る時間が無くなってしまったので、二宮家で夕方、四人でラーメン屋へ行った。
パトカーがラーメン屋の前に停まっている。? 何か事件なのかね?
「あれ?」
警察官のキーちゃんが制服を着たままラーメンを食べている。キーちゃんは横田君のお父さんである。
「キーちゃん、何やっとんねん? お前がそんなことしとんのがバレたら、一発で警察クビやで?」
お父ちゃんがそう言うと、キーちゃんは芽衣の頭をなでながら笑った。
「誰がばらすんねん。こんな辺境の土地では事件なんて全く起こらへんのやで? 俺、勤続二十二年で一度も犯人を逮捕したことも、交通違反を検挙したこともあらへんのやで?」
「交通違反なんてみんなやっとるやんか?」
「検挙しなければ、違反にはならへん」
ハッハと笑ってキーちゃんは二杯目のラーメンが運ばれてきて、そのラーメンを食べ始めた。ずいぶん体の大きい男だ、キーちゃんは。
二宮家の家族四人がラーメンを注文した。
「あたしチャーシュー麵がいい」美亜ちゃんが言うと、
「じゃあ、お母ちゃんもチャーシュー麵にしようかな」と笑顔でメニューを見ている。
「俺は肉そばと生、大ジョッキや」
お父ちゃんはビールを注文した。
「あたしもチャーシュー麵とノンアルコールビール、中ジョッキ!」
芽衣がそう言うと美亜もお母ちゃんもノンアルコールビールの中ジョッキを注文した。
ラーメンが運ばれてくる前に、とりあえず家族みんなのビールがテーブルに並ぶ。カンパーイとジョッキを軽く当て合ったあと、芽衣が中ジョッキのビールを一気に飲み干した。
「アー生き返るわー」
芽衣は鼻の下に泡の髭をつけて一人笑った。一瞬遅れて芽衣の顔を見た家族のみんなもアハハ!と笑った。たとえノンアルコールだろうと、小学六年生にジョッキのビールはどうなのだろう。
ここのラーメンはおいしいな。運ばれてきたラーメンをいただきまーすと、みんなで食べた。家族崩壊の危機にある二宮家とはとても見えない仲の良さ。ここのチャーシューはほかのどの店にも負けずにおいしいな。
安物のテーブルにテキトーな掃除で小汚い店の雰囲気がおよそ名店とはいいがたい、この田舎のラーメン屋。
わざとそうしているだけで、ここは麺にもスープにもかなりのこだわりを持っている。店の店主は昔、東京のかなり有名なラーメン店で修業していた、独立するときも東京の相当な店を持てるオッサンだったらしいけれど、何故かこのド田舎へ身を隠してしまった。
一杯、千五百円はするようなラーメンを作る、そんな腕前の店主だが、見るからにしょぼいラーメンをしょぼい値段で客に食べさせる店をこうして構えている。
それでいいんだ。
夜、芽衣は暗い部屋でシーツを羽織りながら、横になって天井を眺めて、蚊取り線香の煙の臭いを嗅いでいた。
ゆっくりと流れるこんな夏の夜の時間があたしは好きだ。だけど、今夜はいつにもまして暑い。シャワーを浴びて寝たけれど、パジャマの体中に汗をかいている。十二時を過ぎても眠れずに芽衣はまるで夢を見るようにいつまでもボンヤリ考えていた。
朝まで起きてるかな、これでは。そう言ってもいつだって、頑張ったところで気づいたらいつの間に寝てしまっているものだけど。
あたしの人生、他人のせいで壊されたくない。そのようなことを芽衣は考える。お母ちゃんの都合で、あたしの人生までまっすぐ伸びるはずの道を曲げられたくない。
生きていくことの重さって何だろう。生きること、命ということ。今夜、ぽっくり死んだかて、何も思い残すものなんてないもんやけどな。
子どものあたしが考えても何もわかることなんかない。でも芽衣はずっと考え続けた。
ふと、目をつむり、そして再び目を開けてみると、部屋が明るくなっている。時計を見ると午前七時半。
「ほれ見てみい、やっぱりあたし寝とった」
パジャマがびっくりするほどビショビショ。こんなに汗をかいたことなんて生まれて初めてや。芽衣は二段ベッドの上に寝ている美亜に「おはよう」と声をかけて見る。
「美亜ちゃん、死んでもうたんかいなあ?」
大声で呼んでみても美亜は一本釣りで釣り上げて、そのまま船の上で臨終したカツオのように動かない、芽衣が耳を近づけてみると、鼻からスース―と呼吸している音は聞こえる。生きてはおるんやな。
芽衣はベッドから離れて丸裸になった。脱いだパジャマを持ち上げてみると、近年まれにみるほど、ここまで汗をかくっていうのも天晴や。タンスから服を取り出して、サッサッと着た。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで、一杯クーっとあおると、ああ、生き返るわ。
「あれ?」
その時はじめて気づいたが、人の気配を感じない。お父ちゃんとお母ちゃんはどないした。
「こんなに遅うまで寝とんのか?」
芽衣が両親の部屋を覗いてみると、ぎょっとしてそのドアを閉めた。
大きなマグロが二匹、絡み合って船の上で横たわっていた。子どもには、分からんでええハナシや。
幼児行方不明事件
白い雑種の大型犬に餌をやるとハホハホと息をしながら、犬は無心に餌を食べる。飼い始めて九年になるこの犬に誰がポ太郎という名前を付けたのだろう。いい加減にじいさんの犬だ。
「食欲だけは若さ、衰えへんなあ」
エサ代がアホみたいに高くて、ポ太郎、お前そろそろ死なへんか? 人間様より食費高いんとちゃうか?
ポ太郎に水をかけて体を洗ってやる。ぶるるッとポ太郎が体を揺さぶると、芽衣までたくさんの水をかぶる。
「ひゃっ!なんだか涼しい!」
白いTシャツに赤いショーパンの芽衣は真っ黒に日焼けして、ニヤッと笑ったら、長い髪の頭に水道水のホースの水をかぶり始めた。
「地獄のように気持ちええわー!」
誰も友達が遊びに来ないから、その日は、夏休みの宿題をやっていると、ポ太郎が首輪の縄をくわえて縁側までやってくる。午後三時だ。
夏休みって自由な毎日やな。東京行ったらおもろいことってぎょうさんあるんやろか。東京スカイツリーや、渋谷109や、そんなものをテレビでよう見とる。興味がないと言えば、それは嘘になる。
ポ太郎と一緒に散歩していると雨が降ってきた。芽衣は赤い傘をさしてスキップするように歩いた。
「ポ太郎、雨は涼しいやろ」
芽衣はハーモニカを吹きながら歩き始めた。これ程のド田舎におよそ似合わないきれいなアスファルト道路。がけが崩れないようにコンクリートブロックで固められたばかり。
スピードを出した車が後ろから通り過ぎた。芽衣に思いっきり水をかけていく。なんや失礼なやっちゃな。芽衣は口をとがらせて怒った。
「ポ太郎、大人になるって、どういうこっちゃろなあ」
芽衣は犬に尋ねて、立ち止まり傘を置いて、長い髪に含んだ水を絞り出した。
「汚く汚れていくってことだけやんか。アホくさ」
よれよれの年寄り犬を相手に独り言をいつでもぶつぶつ言っている芽衣。ポ太郎もこんなじーさんで、よう生きてるもんやなあ。
実際は21歳まで生きるポ太郎だから、犬の生涯はまだ半分にも達していない。
横田君がコンビニへ行くと、芽衣がレジでぼんやり客を待っていた。横田君の姿を見つけた芽衣は、途端に生き生きと嬉しそうに笑顔になって大声を張り上げた。
「へい、らっしゃーい!」
「め、芽衣、お前こんなところで何やっとるねん?」
「見て分からんか? コンビニでアルバイトしとんのや」
小和野のおばちゃんたちが家族で旅行に行きたいていうもんやさかいに、店を手伝ってるんねんや。芽衣はそう言ってカウンターに肘をついた。
「こんなこと、小学生の分際でうちと子のお母ちゃんやったら絶対にやったらあかんていうで?」
横田君がそう言うと、芽衣はなんだかはしゃいだ。
「あんたんとこのお母ちゃんはあかん言うてもうちと子のお母ちゃんはええて言うもん」
「弁当買いに来たんや。焼き鳥弁当を四人分」
ほな二億五千万やなと、芽衣が言うと、横田君が驚いてそんなに高う値段やったら家建つ出と目を真ん丸にした。
「誰があんたなんかに適正価格で売るかいな」
「ほな、俺なんも買わんで帰るわ。帰りに寄ってくれよし」
「待ってや、冗談いうとるだけやんか」
赤倉さんちの優奈ちゃんが行方不明になったて話、横田君知っとるか? 芽衣は真顔で尋ねた。
「知っとるよ、お父ちゃん警察やもん。なんや分からへんけど、大慌てしとるわ」
「どないしたんやろ」
「家出でもしたんやろ?」
「何いうとるの、横田君、優奈ちゃんは幼稚園児やで。そんな可憐な若さで家を出ていく幼女なんか聞いたことあらへんわ」芽衣は考え込む。
「せやけど、この町一番の可愛い子やったさかいになあ、誰かと不倫して、新天地で幸せな生活をはじめたんかもしれへんで」
お前、言うとることがドアホとちゃうか? と芽衣は横田君にレンジで温めた弁当を渡した。
「まあ、マジな話、小児性愛の変態男っちゅうのが、捜査線上に浮かんでな。最近実家に帰ってきた二十五歳の若い男ていうのがおるねん」
「どういう事や」
あの男の家のごみを調べてみたら幼稚園児の裸の写真がぎょうさん出てきたんや。
「ほんまか?」芽衣が顔を歪ませて「それ、犯人に決まりやんか」
「そうはそうそう、決めつけられるもんでもあらへんよ。肝心の幼稚園児の優奈ちゃんがどこにもおらへん。任意で事情聴取したんやけど、どうにも決め手があらへんなあ」
ほな、そう言うことでな、と横田君が帰って行こうとするとき、あ、ちょっと待ちいなと芽衣が横田君を引き留める。
「なんや?まだ用事あるんかいな」横田君はこの頃背え伸びてきよったなあ。芽衣は少しもじもじして、しばらく黙ってうつむいた。横田君も黙ってそんな芽衣を見つめていた。
「チョコレート、サービスで横田君に上げるわ」
「チョコレート?」
「あたしからのプレゼントや。何も言わずに持って帰り。どのチョコレートでも持って行ってええで」
このクソ暑い真夏なのに、バレンタインのチョコレートくれんのかいな。芽衣はそんなに俺のことが好きやったんかいな?
「グダグダ言うてると、もう金輪際何も売ってやらへんで?」
「ほな、この板チョコもろていくわ」
「あかんよ、そんな安物」
「安物?」
「帰りしなにチョコアイスでも食べながら歩いていき……?」
「せやな、そうするわ。ありがとさん」
午後のコンビニでは美亜ちゃんが一人で働いている。芽衣が夏休みの宿題をやっていると午後三時。ポ太郎がいつものように口に紐をくわえてやって来た。
「もうそんな時間か」
汗でぐっしょりの芽衣は庭へ出て、水道水をホースで頭からかぶり、ポ太郎と一緒に散歩に出かけた。濡れた全身が日の光にあっという間に乾いていく。夏の日差しは厳しい。
犬も相当暑いようで、ハアハア息をしながら歩いている。
「ポ太郎、毛並みもこんなに汚いになってしもうて」
おれには俺の寿命があるさかい、それが来るまでは生きとるがな。そんな声がした気がした。
「え、ポ太郎、今何か言うた?」
ポ太郎! 走るで!そう言って芽衣は首輪の紐を思いきり引っ張った。すると、ポ太郎は全速力で走り始めた。
「待ってや、ポ太郎!」
芽衣はとうとうポ太郎の紐を手放し、地面の上をゴロゴロと転がった。
「嫌なやっちゃな、ポ太郎は」
先に行ったポ太郎は振り返って、ワン!と吠えた。うるさい! 黙っとれ!と芽衣はTシャツの埃をはたいた。
散歩から帰った後、芽衣はハーモニカを持って五戒川の橋まで歩いた。町中が橙色に染まりゆく。橋の欄干によりかかって、芽衣は名前も知らないけれどよく知っている、懐かしい気分に浸れる曲を何曲か吹いていた。
……好きやな、この町。
いつまでも変わることなく、ここに住み続けるものだと思っていた。そしてその思いはたいして苦労することなく叶い続けるものと言うはずだった。
いつでも芽衣は夏休みには冷えたスイカをお母ちゃんが切って、それをみんなでバカ話をしながら大笑いをして食べ続けていく。夕暮れどきの、耳が痛いほどのヒグラシの鳴き声。芽衣はスイカを顔で食べる。顔中にスイカの種がくっついて、みんながそれを笑う。
おととし、釣りに出た坂本君のお父さんとお兄さんが、船が転覆して二人とも海へ投げ出されて海に消えてしまった。坂本君はお母さんと妹の三人だけの家族になってしまい、東京へ出て行ってしまった。
死ぬって怖いことだな。でも人間はいつかは誰だって死ぬ。誰もかれも、死の恐怖にさいなまれる運命を抱えて生まれてくる。死ぬと分かっていて、どうして人間は生まれてこなあかんのやろ。
……横田君、結婚してください。
分かっとる。あたしは横田君とは結婚できへん、芽衣はそう感じた。あたしはここを出ていく人間だ。東京へ行けばあたしは人格の階級が上がる。上級国民てやつになるんや。
階級の上がった人間になったあたしは、もう二度と階級を降りることはでけへん。
……水洗便所に慣れた人間が、ぼっとん便所の生活に戻れるか?
あたしは新たな人生を東京で模索せなあかん。胸の締め付けられる思いだ。あたしは世の中のことをまだ何もわかってないし、人間として何も成長していない子どもだ。
芽衣は東京人として東京の風景の中で、東京の服を着て東京の言葉を使って、これから生きて育っていく。それを自覚しつつ東京人としてここの人間とは遥かに比べものにならないほど、東京人としての顔つきで東京に取り残されないように、都会人、というもの。ビルの谷間を歩きながらどんな人間になるんだろう……。
花火大会
八月の半ば街の少ない予算で恒例の花火大会が行われた。
「芽衣、なに持って来とんのや?」
「花火大会の花火だけやったら、ショボくてつまらへんから、あたしはあたしで花火する」
そういって、芽衣は「花火セット」の袋から、打ち上げ花火を地面にさして、火をつけた。シュボッと音を立てて空へ飛んでいく。とその時、花火大会の一発目の花火が夜空に打ちあがって、ドッカーンと大きな音を立てて赤く燃えた。
「うわっ!」
芽衣が驚いて思わず尻もちをついた。
「なんや、芽衣のほうがよっぽどショボいやんか」
男子連中が笑う。うっさいわ! 一本だけやと確かにショボいわな。五六本まとめてまとめて飛ばしてみたろ。
芽衣が花火を次から次と地面にさしているときに打ち上げ花火がボーン、ボーンと打ちあがる。芽衣は手を止めて花火をしばらく見とれていた。
「むかし、康太さんが花火作っているときに花火が爆発事故おこして、康太さん死によったねえ」
「ああ、あいつもアホな奴だ」
もう康太さんとは会われへんのやな。葬式の時、お父ちゃんとお母ちゃんはそう言って泣いていた。芽衣はそれをしみじみ思いだし、そして町の人は毎年同じことを話題にして花火を見つめている。
突然、派手で大きな花火が打ちあがった。康太を偲ぶ花火だった。こうたーと叫ぶ声があちこちから飛ぶ。花火師だった康太さん。生前の康太さんは身長はほどほどなものの、エライ体格が良くてイケメンで話もうまく、場を沸かせることが得意な笑顔の眩しいみんなの人気者だった。
それがただ一度の事故で、帰らぬ人となってしまう。もう十年たつよね。凄い爆発事故やったね。
「康太が死ななかったら、お前は俺の嫁にはならんかった」
俺とは本当に分かれるつもりかとお父ちゃんが聞くと、お母ちゃんはうんとうなずきながらもお父ちゃんにもたれかかって缶チューハイを飲んでいる。
「なんや、花火大会なんか法事なんか、分からへん」芽衣はつまらなそうに言った。
芽衣の花火にライターで火をつけると、次から次へ、シュボッ、シュボッと花火は小さく打ちあがる。
「このドアホー!」
芽衣は一人叫んだ。
お父ちゃんとお母ちゃんが分かれてまう。芽衣は知らずに涙を流していた。東京なんか行きたない。この町の結束から離れて行きとうない。
この町で、幼馴染の知っている人たちと、いつまでものんびりと楽しく幸せに暮らしていたい。
せやけどあたしは子どもやもん。自分の人生を自分の思い通りに生きていくのはムリや。親が東京へ行くていうたら、子どももついていかな、あかんのや。
「東京行ったら人身事故ばかりや。あたしも事故に遭うのかなあ」
「あったら死んでまうで」横田君が心配そうに言う。
「そんな弱気でどないする? 五回十回と人身事故に遭っても生きているくらいの強い精神力を持たへんと、東京では生き抜いていかれん」
東京の人はみんな、当たり前に人身事故に遭ってるんや。それでも平気で生活しているほど強いんや。
「命なんてな、いくつでもコンビニに売っとるんとちゃうの? そんなに怖がることもないで」
芽衣はいつの間に、東京へ行くことの積極派になっていた。
アイスが配られる。芽衣は口の中に棒のアイスを突っ込んで、そして口でその棒をしこしことこする。
「芽衣は助べえやなあ」
「なんでや?」
みんなが笑う。スマホで芽衣はアイスをくわえている顔を写真に撮られた。
淡い恋
夏休みの登校日、樹里が芽衣の席までわざわざ寄ってきた。
「あんた、まだブラジャーしとらんのやろ。Tシャツからスケスケやで?」
芽衣ははっとして樹里の胸を見てみた、こ、こいつブラジャーをしている?あたしの下着が透けてる? 芽衣は思わず胸をかくした。
「せやから何やっちゅうの?」
芽衣は冷静さを保とうと必死になりながら強気にこたえた。しかしそれに輪をかける樹里である。
「芽衣、ええこと教えたろか?」
背の高い、髪の長い樹里が威張り腐るがように芽衣の横に立って、芽衣を見下ろした。
「あたし、横田君とチューしたんやで!」
教室の向こうで、横田君が「へ?」と言う顔をしている。
「なんでそんな嘘をつくんよ?!」
「嘘やあらへん、あんたの男はあたしが全部取ってやるから覚悟しきや!」
「なんであたしの男をあんたに取られなあかんのよ!」
次の瞬間、芽衣と樹里はつかみ合いの大喧嘩になっていた。お互いに床に倒れて服につかみかかる。
立ち上がった芽衣が雑巾を洗った後のバケツの水を樹里の頭に思い切りぶっかけた。すると、今まで強気だった樹里は突然、大声をあげて泣き始めた。なんや、口ほどにもないやんか。この女ってつくづくなんやろう?
「何やってんねん宮本! 樹里、お母さんに車で迎えに来るように呼んだろか?今日はもう学校帰り?」
芽衣が叱られて、樹里は腫物を触るように優しく担任の安藤先生に抱えられて起き上がる。
樹里は泣いたままで、教室を後にした。
やっぱり、お母ちゃんに迎えに来てもらうて、ええことやなあ。あたしもお母ちゃんと東京へ行くことは大正解や。
「宮本! なんでお前はいつも樹里と喧嘩してんねん! お前はそないに樹里が憎いんか? いちいち人を憎んでるような子供は将来どないになっていくんか分かっとるんか?」
いつも樹里の味方の安藤先生。何いうてんな。これやからアホな大人は嫌いや。
先生にこっぴどく叱られている芽衣は、思いもここにあらず。
芽衣が傘もささずにずぶぬれで学校から帰ってきた。横田君と道端でばったりと出会った。
「なんであたしが帰ってくるところを知ってるんよ?」
「たまたまや」
「嘘つきなや、ずっとあたしの帰ってくるところを待ってたんやろ」
横田君が傘をさすと、芽衣は横田君の肩にもたれかかった。
「こうすると濡れへんのよ」
なんで雨が降るってわかったの? 芽衣が尋ねると、天気予報で今日は午後から雨やっていうてたやんか、横田君はあほなことを聞くなというように答えた。
「横田君、天気予報なんてもん見てるの? だっさー」
「天気予報もろくろく見んと、雨に降られて帰るほうがよっぽどのアホやて思うけどな」
横田君、結婚相手って決まってるの? 芽衣は尋ねた。
「芽衣、風邪ひいとるんか? 声が震えとるで。この年で俺が結婚相手なんか決めるか?」
芽衣はうつむいた。涙がこぼれた。それを隠すように右手で目を隠した。
「どないしたん? 芽衣」
「なんでもあらへん」
芽衣は涙声になっている。あたしはもう結婚相手、決めとるで。心の中でそうつぶやいた。
芽衣は急に傘から飛び出したかと思うと、思い切り走りだして、そのまま家まで走って帰ろうとした。かなりのところまで走って行ってしまった芽衣だが、しかし息が切れて途中で脚が止まる。
横田君は遅い脚で追いかけてきて、芽衣に傘を差しだした。その優しさがあかんのやないか。どうしてそんなに横田君は優しいの?
「横田君」
「なんや?」
「なんでもあらへん」
「芽衣、なんで泣いてるんや?」
あたしはいつまでも横田くんのことを好きでいるんやろうな。その横田君と離れ離れにならなければいけないんや。
優奈をおばさんに「預かって」と純恵。
チョコレートをあげると「もっと欲しい」
お菓子食べ過ぎて歯も磨かずに寝てしまう。
翌朝「またお菓子だー」
帰りの時間まで食べ続ける。服も顔もチョコレートでべとべと。
おばさんに合わせる顔がなく、二人車で夜逃げする。
その夜、所持金がなくなって帰ってくると、パトカー三台の大騒ぎになっていた。
「どんなお菓子なんだ?」
警察官が食べてみると、こりゃうめえ。見物人も数名で全部食べてしまった。
「おい、証拠物件がなくなってしもたら立件でけへんぞ」
「しゃあないな、女の子も被害に遭ったわけやないし、今回は不問にするか」
「お姉さん、今回は不問にするけどな、また事故とかあったら厳重に処罰するから気いつけといな」
橋の上の弁当
ハーモニカを吹いていると、五戒川がくねくねと蛇行しながら流れていく。この川はいずれ佐上湾へたどり着く、その向こうは太平洋。
人生の重さをひしひしと感じる。あたしは東京人になるんだ。電車に飛び込んで自殺するような人間になるんだ。
あたしは街に作り替えられる。心も外見も生きるスタイルも。カチカンも横田君が好きだっていう思いも。男なんて誰が本当に好きな人なのか分からなくなって、先週と今週の彼氏さえも別の人というような遊ぶ女になる。
通勤電車を乗り換えると、街の風景にネオンサインが光る。黒い夜空に怪しげに灯る原色の光。小さいころお母ちゃんに連れられた東京の夜景。あの時気持ち悪くなって電車の中で吐いてしまった。
「弁当いるか?横田君が来はると思うたから二つ持ってきた」
「賞味期限切れてへんのか?」
「賞味期限ないのを持ってきた。賞味期限が切れたのは棚に置いてきた。別に誰も腹こわしたりはせえへんやろ」
横田君が弁当のふたを開けたとき、箸をその弁当に突き刺して食べ始める前に言った。
「芽衣、もうここには帰ってこんのか?」
芽衣は少し間をおいてはぐらかすように応えた。
「どうやろな」
「俺、好きな女がおるんねん」
別れとうないんねんと横田君が呟くように言うと「あたしも好きな男がおるんねん」と芽衣は言った。
少し微笑んだ芽衣が、一度告白っていうものをしてみたかったんや、弁当を食べながらそう言ったとき、弁当を食べながら横田君は黙り込んだまま芽衣の隣で、考え込むように座っていた。
「はあ、食った食った」
芽衣が腹をポンポンと叩きながら弁当を食べ終えたとき、突然横田君が芽衣の両脚をつかんだ。
「何すんねん! このドスケベ!」
横田君は何も言わず、そのまま芽衣を橋から川へ落っことした。ヒャーと叫びながら芽衣が川へ落ちていく。
「何すんねんや! このドアホ!」川に落ちた芽衣は叫んだ。
しかし次の瞬間、芽衣は目をまん丸にして驚いた。横田君までが橋から飛び降りてきた。
川にバシャーンと落ちた横田君は、芽衣! と大声で叫んだ。
「なんや!」
「好きや!」
「あ!?」
二人が川に流され始めた。芽衣は横田君の手を握ると横田君はその芽衣の腕をつかんできた。
芽衣は肩まで手繰り寄せてきた横田君の顔を睨みつけて、「今なんて言うた? もう一度言うてみい」と、芽衣が横田君の首根っこをつかまえる。
「芽衣が好きや」
「あたしがなんや?」
「芽衣が好きや!」
横田君は芽衣を抱きしめてきた。
アカンて、……呟いた次の瞬間に芽衣も横田君に抱き着いた。二人はどんどん川を流されていく。どこまで流されていくのか、ふとわからず抱き合っていた。




