「ささやかな幸せ」
今日は土曜日だが、義秀は、いつも通りの時間に出勤し、職員室のパソコンで書類の作成などの雑務に勤しんだ。午後三時を少し過ぎた頃に、予定していた作業をあらかた片付け、今日は授業もないことだし、この辺で切り上げようかと席を立ったところで、声をかけられた。
「井岡先生も、もう帰られます?」
声をかけてきたのは、平下和子という国語担当の教師だった。義秀とは同年代だが、比較的若いうちに結婚しており、既に大学生になる娘がいる。
「ええ。そのつもりです」
「私達も、今帰ろうと思ってたところなんです。それで、駅の近くでお茶でもしようって話してたんですけど、もし良かったら、井岡先生もご一緒にどうです?」
平下の他に、体育教師で剣道部の顧問をしている岩本泰典、そして、後藤もいるようだった。
「いいですよ。行きましょう」
後藤がいるのは、あまりいい気がしなかったが、平下や岩本とは、比較的親しくしているため、さほど抵抗はなかった。
「四人もいるんだったら、割り勘でタクシー使いましょうよ。それなら、一人二百円もしないでしょう」
岩本がそう提案すると、平下が「一番若くて、しかも体育教師の岩本先生がそんなこと言うの?」と、冷やかした。
「いいじゃないですか。僕は一番体力使ってるんだから、一番疲れてるんですよ」
「あらあら、まだ二十代だっていうのに、随分先が思いやられる発言ねぇ。ま、いいわ。行きましょう」
そして義秀たちは、タクシーに乗って駅前まで行き、喫茶店に入った。
「うわぁ、やっぱり土曜だと、この時間でも結構混んでるなぁ」
岩本が、店に入るなりそうこぼした。
「いらっしゃいませ、四名様でよろしいですか」
若い女性の店員が、愛想の良い笑顔でそう訪ねてきた。
「はい」
平下が、それに答える。
「お席の方は、禁煙席と喫煙席、どちらにらさいますか?」
「あっ。えーと……」
女性店員がそう質問したところで、平下が言い澱んだ。
「喫煙席で」
四人の中で、唯一煙草を〝吸わない〟義秀がそう答え、四人は座席に案内された。
「すみませんねぇ、井岡先生。気を使って頂いちゃって」
平下が、申し訳なさそうにそう言った。それに倣うように、後藤と岩本も、義秀に一礼した。
「別に構いませんよ。せっかくの息抜きの時間なんだから」
義秀自身は非喫煙者だが、父や、父の漁師仲間ら、周囲の大人が殆ど喫煙者という環境で育ったためか、同席者の喫煙にさほど抵抗を感じないタイプだ。家族で外食などに出かけた際は、妻が嫌煙家であることや、未成年である息子の健康への影響を考えて、禁煙席を希望しているが、こうして同僚と食事をしたりする際には、あまり拘りがない。
案内されたテーブル席に、各々が腰を下ろしたところで、岩本が切り出した。
「こういう店って、今じゃどこ行っても禁煙席より喫煙席の方が少なくなっちゃいましたよね」
「そうね。ま、喫煙者としては肩身が狭いけど、副流煙なんかの問題もあるから、仕方ないわよ。それに、たまには井岡先生みたいに理解のある人もいるから、いいじゃない。ねぇ、井岡先生」
「え? あぁ、そうですね」
平下に唐突に話題を振られて、咄嗟に相槌を売ったものの、義秀は、少し困惑した。
理解のある人。
同僚の口から出た言葉が、少し引っかかった。そして同時に、昨夜の息子とのやり取りを思い出した。
自分は、本当に他者に対して理解のある人間だろうか。
俺は納得なんてしてない。約束もしてない。父さんが一方的に押し付けただけだ。
息子の言っていたことは、間違いではなかった。
自分のやり方は、見方によっては、息子の考えを無視した一方的なやり方とも受け取れるかもしれない。だが義秀は、それだけ自分の教育方針に、確固たる信念と自信を持っていた。
今の誠にとっては、理解し難いものかもしれない。それでも、いつか必ず、わかってくれる時が必ず来ると信じている。だが――
「井岡先生」
平下の声にはっとして、義秀は我に返った。
「やっぱり、禁煙席の方が良かったかしら」
どうやら平下は、義秀が考え事をしているうちに険しい表情になってしまったのを、煙草の煙が煙たかったのだと誤解しているらしい。
「いえ、大丈夫です。気にしないで下さい」
内心の動揺を悟られぬよう、笑顔でそう返す。グラスを手に取りコーヒーを飲む。その際、グラスの中を覗き込むようにして飲んだのは、平下から自然に視線を避けるためだった。
しばらくとりとめのない会話が続いたところで、ふと店の入口に視線を移すと、喫煙席が空くのを待っている様子の客が数人いる事に気づいた。ちょうど平下もそれに気づいたようで「あの人たちも、一昔前なら、あんなふうに待たされることもなかったでしょうにね」と言いながら、煙草の火を灰皿で揉み消した。
「そうですね。そういえば、私は子供の頃、よく親父に煙草を買いに行かされてたんですが、最近は煙草や酒を買うのにも、レジで年齢確認のパネルをタッチさせられたりするようになったでしょう。今の子供たちは、そういうことさせられることも無くなったんでしょうね」
「そうねぇ、うちの親はそういう時にお駄賃を少しくれたから、いい小遣い稼ぎになったんだけどね」
義秀と平下の会話に、後藤が反応を示した。
「あれって、私みたいな明らかに未成年じゃない客でもやらされるんですよね。別に大した手間じゃないけど、後ろにほかのお客さんが何人も並んでるような時だと、なんだか余計に待たせてしまうことになるような気がして申し訳ないんですよね。成人してるかどうか怪しい人にだけ確認するくらいでいいんじゃないかと思うんですけど……」
そうこぼす後藤に、岩本が反論した。
「いやぁ、後藤先生。やっぱりああいうのは、基準を明確にしておかないとダメですよ。老け顔の未成年もいれば、童顔の成人だっているんだから。こういう言い方はちょっと失礼かもしれないですけど、後藤先生を見て未成年だと思ってる店員はいないと思いますよ。でも例えば、後藤先生がどこかの店のレジで煙草を買おうとして並んでて、後ろに並んでた人も煙草を買おうとしていたとするでしょう。そういう時に、後藤先生の後に買った人が年齢確認させられて、後藤先生だけされなかったとしたら、なんで俺だけ? みたいなこと言いだしていちゃもんつける奴だっているかもしれないじゃないですか。やっぱりどんな商売でも、可能な限りお客さんには公平に接するっていう姿勢でやらなきゃ」
体育会系らしく、公平性を重んじる岩本の熱弁に触発され、義秀も持論を展開してみることにした。
「私は、あんな曖昧な方法そのものに反対だな。今のやり方じゃ、結局中途半端な自己申告だけで、明確な年齢の確認はできないじゃないか。外見上どう見えようと、顔写真付きの身分証を確認しない限りは、絶対に酒や煙草は売らないように法律で定めればいいんだよ。それが一番確実じゃないか」
そこで平下が、唯一人現行のシステムに賛成の意見を述べた。
「私は、個人的な事情も絡んでるけど、今の確認方法に賛成だな。実はね、うちの娘が高校生の時に、コンビニでアルバイトをしてたの。そのお店は、以前未成年にお酒を売ったことが発覚して、かなりの金額の罰金を取られたことがあってらしくて、お酒や煙草を売る時の年齢確認を当時から徹底していたの。それでうちの娘が若い男がお酒を買おうとした時に、年齢の確認をしようとしたら、ものすごい罵声を浴びせられたことがあったのよ。慌てて駆けつけた店長さんが対応変わってくれたんだけど、それでもまだ収まらなくて、結局警察を呼んでその場はなんとか収まったらしいんだけどね。案の定そいつは未成年で、その時点でかなり飲んでたみたい。で、結局うちの子、それがきっかけでそのバイト辞めちゃったの。もともと誰とでもすぐに打ち解けられる子だったから、そういうバイトを選んだんだけど、そんなことがあったせいで、今じゃもう接客業は絶対にしたくないって言ってるわ。でもね、女の子って、男の子みたいに肉体労働をするのは難しいでしょう。だから接客業以外のバイトってなると、結構選択肢が限られちゃうのよ。それに、井岡先生を非難するわけじゃないけど、店側がどんなに年齢の確認を徹底したって、未成年の飲酒や喫煙を完全に防げるわけじゃないでしょう。買った本人が成人してたって、飲んだり吸ったりするのがその本人かどうかは、店側にはわからないじゃない。それを考えたら、店側が背負ってるリスクの高さって、かなり理不尽だと思わない? 確認をすればお客に文句を言われて、しなければ警察から罰金よ。だから、多少曖昧かもしれないけれど、店でのトラブルを未然に防ぐっていう意味では、今の方法がベストなんじゃないかなって、私は思うわけ」
そこまでいい気に言い終えた平下は、左手に巻いた腕時計を覗き込んだ。
「あっ、もうこんな時間。そろそろ帰って、御飯の支度しなきゃ」
「それじゃ、今日はこのへんでお開きにしますか」
岩本が、そう言いながら名残惜しそうに、煙草を深々と吸った。
「うん。井岡先生も、付き合ってくれてありがとう」
平下達と別れて、義秀はまっすぐに駅の改札に向かい、電車に乗り込んだ。いくつかの座席があいていたが、座席には座らず、吊り革につかまった。義秀は、電車で座席に座る時は、二人分以上のスペースが空いている時にしか座らない。
他人との接触は苦手だ。
義秀が、同僚と勤務時間以外に行動をすることは、今回のように誰かから声をかけられない限り、皆無に等しい。
父親から、頻繁に暴力を振るわれて育ったためか、幼少期の義秀は、ひどく臆病だった。家で家族と一緒にいても、外で友達と一緒にいても、いつも他人の目を気にし、相手の機嫌を損なわぬよう気を配っていたし、向こうから誘われない限り、友達と遊ぶこともなかった。
だが、小学校時代のあることがきっかけで、性格が少し前向きになっていた時期もあった。初めてのテストで百点を取った時、担任の教師が満面の笑顔で褒めてくれたのだ。
「義秀君、すごいじゃない。これからも頑張るのよ」
そう言って、手のひらで優しく自分の頭を撫でもらった時の温もりを、今もはっきりと覚えている。この時義秀は初めて、自分が大人から褒められることに、心底飢えていたということに気がついた。
学校で良い成績を取れば、大人に褒めてもらえる。また褒めてもらいたくて、頭を撫でて欲しくて、優しい言葉をかけて欲しくて、義秀は懸命に勉強した。授業中は、積極的に手を挙げて発言し、宿題はもちろん、予習復習も欠かさなかった。
成績は常に学年のトップクラス。教師だけでなく、級友たちからも一目置かれるようになり、少しずつ自分に自信を持てるようになった。性格も前向きになり、友達も増えた。時には自分から遊びに誘うこともあった。それが嬉しくて、楽しくて、義秀は、ますます勉強に打ち込んだ。
しかし、義秀がどんなに良い成績をとっても、忠雄はあまり意に介さなかった。
「ヒデ、お前は将来漁師になるんじゃねェのか。勉強なんざ、学校でだけやってりゃ十分だろうが。いつまでもそんなことばっかりやってやがると、体がなまって、漁に出た時すぐへばっちまうようになるぞ」
母も、義秀は将来漁師になると決めてかかっていたためか、父ほどではないにしろ関心がなさそうだった。もしかしたら、義秀の成績を褒めることで、忠雄に難癖をつけられることを恐れていたのかもしれないと、今になって思うこともあるが、当人が死んでしまった以上、もはやその真意を知る術もない。自分の家に居場所を見いだせなかった義秀は、ますます学校で勉強に励んだ。
そんな義秀少年が、小学校を卒業して中学生になった、その年の秋のことだった。二学期の中間テストで、以前から苦手意識を持っていた数学の成績が、思いのほか悪かった。悪かったとは言っても、それはあくまで義秀にしてみればというレベルであり、全体で見れば、十分に優秀な点数であった。しかし、義秀は大きなショックを受けた。
このまま自分の成績は、坂道を転げ落ちるように急降下していってしまうのではないだろうか。親からも、教師からも受け入れられなくなってしまったら、自分は一体、どうすればいいのだろう。それはショックというよりも、恐怖に近い感情だった。
親の愛情に飢えて育った義秀にとって、いい成績を残して教師に認めてもらうということは、最大の心の拠り所だった。義秀が成績を上げる目的は、いつだって教師から褒めてもらう為だった。
中間テストが終わったその日、義秀は、幼馴染の熱田勝という男から、魚釣りに誘われていた。勝の父親は、忠雄と同じ漁師であり、その縁から、物心ついた頃にはもう遊び友達になっていた間柄であり、当時の義秀にとって、最も親しい友人だった。だが義秀は、どうしても数学の復習をしたかった。
期末テストでもこんな点数だったら、どうしよう。いや、場合によっては、もっとひどい点数しか取れないことだってあるかもしれない。そう思うと、不安で不安で、仕方なかった。そして義秀は、勝の誘いを断った。
「ごめん、勝。俺、今日の釣りはちょっと……」
「何だよ。風邪でもひいたか?」
「いや、俺さ、今回数学がちょっと悪かったから、帰って復習したいんだ」
「今日テスト終わったってのに、その日のうちから復習かよ。悪かったって、何点だよ」
「……七十八点」
「お前なぁ、それ、俺の倍近い点数だぜ。平均よりも全然上だろ。それだけ取れりゃ十分じゃねぇか。どうせ俺たちゃ漁師になるんだからよ、勉強なんかより魚釣りの方がよっぽど将来役に立つぜ。そうだろ?」
「それは、そうかもしれないけど、でも、今日はとにかく、数学の復習をしたいんだ」
「わかったよ。まぁ、ヒデは昔から真面目だったからな。また今度行こうぜ」
「うん、ごめん」
将来漁師になることを迷っているとは、まだ勝には言えなかった。
その日、帰宅するなり机に向かった義秀は、母から夕食の用意ができたと声をかけられるまで、時間を忘れて数学の復習に没頭していた。
食卓には、父が漁で獲って来た魚の刺身が並べられていた。忠雄は、傷があったりして売り物にならない魚を家に持って帰って来ることがよくあった。かつては来る日も来る日も魚ばかりで、うんざりしていたが、小学校の修学旅行で東京へ行った際、旅館の食事で出された魚があまりにも不味く、驚いたことがり、その時初めて義秀は、自分が毎日のようにうまい魚を食べて育っていた事に気がついた。
旅館で出された魚も、決してものが悪かったわけではないのだろうが、いつも獲れたての魚を食べて育った義秀にとっては、お世辞にもうまいとは言えなかった。
「お前や勝ん家からたまにもらう魚の方が、よっぽどうまいよな」
隣の席にいた同級生にそう言われた時、少しだけ家業を、そして自分の生まれ育った町を誇らしく思う気持ちが、ほんの少しだけ芽生えた。
だが――
食事中だというのに、咥え煙草で競馬新聞を読み耽り、酒で顔を真っ赤にしている父。そんな夫を尻目に、せっかくの美味い魚を少しも美味くなさそうに黙々と口へ運ぶ母。そんな重苦しい雰囲気で囲む食卓にすっかり慣れてしまい、さして気にも留めなくなってしまっている自分に気づいた頃には、家業に対するささやかな誇りなど、跡形もなく消え去ってしまっていた。
この頃から、忠雄の酒やギャンブルによる浪費は以前にもましてエスカレートしていて、それと比例して、両親が喧嘩をすることが、飛躍的に増えてきていた。そんな時義秀は、一人自室に閉じ篭り、ちり紙を耳栓替わりに耳に詰めて、勉強に没頭した。他のことに意識を集中していなければ、連日家中に響く、両親が互いに浴びせ合う罵声で、気が狂ってしまいそうだった。
決して、漁師という職業が嫌いだったわけじゃない。一生遊んで暮らせるような、大金持ちになりたかったわけでもない。ただ、人並みの安定した収入のある職業に就いて、家族と仲良く暮らしたい。義秀が、自分の将来に望んでいることは、それだけだった。
両親の喧嘩が増えたことは、結果的に義秀が勉強に没頭する時間を増やすことに繋がり、その甲斐あってか、期末テストの数学は満足のいく出来栄えだった。だが、数学の勉強に重点を置き過ぎていたためか、今度は理科の点数が、目標としていた点数に届かなかった。
「聞いたぜ、ヒデ。今度は数学良かったんだろ? 今日こそは、釣り行こうぜ。今日は餌代、俺が奢るぜ」
「ごめん、今度は理科が……」
「また復習かよ。ヒデ、真面目なのもいいけどよ、たまには息抜きもしねぇと、おかしくなっちまうぞ」
「大袈裟だなぁ。大丈夫だよ」
「大丈夫に見えねぇよ。いくらなんでも気にしすぎだぞ。理科が何点だったのか知らねぇけど、お前のことだから、どうせ平均よりはずっと上なんだろう」
「まぁ、一応は……ね」
「だったらそれで十分じゃねぇか。なんでそんなに……」
「ほっといてくれよ!!」
思わず、自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「ヒデ……」
勝も、普段寡黙な義秀が大声を出したことに、目を丸くして驚いていた。
「わかったよ、ヒデ。そこまで言うなら、もう俺もしつこく誘わねぇよ」
悲しそうにそう告げた勝は、自分の出した大声に驚いて、呆然と立ち尽くしたままでいる義秀の脇をすり抜けるようにして、足早に去っていった。そしてその日以降、勝が義秀を遊びに誘うことは二度となかった。
三学期の中間テストは、すべてが満足のいく出来であった。もし、この時も勝に誘われていたら、釣りでもなんでも付き合おうと思っていた、だが勝は、義秀に何も言ってこなかった。しかし、二学期の期末の時に、あんなことを言ってしまった手前、自分から誘うこともできず、結局義秀は、その日もまっすぐに帰宅して、一人自室に篭って、テストの復習をした。
最も付き合いが長く、最も親しくしていた勝と疎遠になったことを機に、ほかの親しかった友人たちとも次第に距離が広がって行き、二年生に進級する頃には、同級生の誰とも、殆ど口を聞かないようになっていた。義秀は、田舎育ちで大らかな気質の同級生たちの中で、完全に浮いた存在になっていた。
それでも、義秀は勉強をやめなかった。むしろそれまで以上に、成績を上げて教師に認めてもらう事に縋るようになっていった。
家にも、学校にも、心を許せる相手は、誰もいなかった。全ての人間関係が、煩わしかった。そしていつしか義秀は、他人との接触を嫌う、元の非社交的な性格に、逆戻りしていた。
幼馴染との間にできた溝は、今なお胸の奥に、微かなしこりを残している。だが、それでも決して後悔はしていない。
情熱を注げる仕事と安定した収入、そして愛する家族。それだけあれば、十分に幸せだった。他に何も望むものは、何もなかった。そしてそのささやかな幸せは、かつて他の全てを犠牲にして、必死に努力したからこそ、手に入れることができたものだと信じている。
過去の自分を否定するのは、今の自分を否定するのと同じ事だ。
義秀は、そう思っていた。