「気持ちの切り替え」
二度目の説得も不発に終わった翌朝、目を覚ましてからも誠はまだ、暗い気持ちを引き摺ったまま、重い足取りで学校へ向かった。
もう、父の言う通りの道を選ぶしかないのだろうか。自分が行く高校を自分の意志で決めることが、そんなに許されない事なのだろうか。悶々とした気持ちのまま、誠が玄関の扉を開いて外へ出る。
もうすぐ、夏が始まる。中学生最後の夏が。
誠達三年生にとって、二日後に初戦を迎える夏の大会が中学野球最後の公式戦になる。
東尾中の過去最高成績は、去年の県大会ベスト8だ。当時から誠、佑介、英治、の三人は、チームの中心だった。その三人が最上級生となって一回り成長した今年。青木が顧問就任以降掲げてきた、全国大会出場の目標は、決して夢ではないはずだ。
「誠」
道の途中で、いつものように佑介が笑顔で声を掛けて来た。
「どうだった? おじさんと、話つけてきたんだろ?」
佑介の明るい口調が、誠の心の傷口を、さらに深く抉る。
「……ダメだった」
佑介から視線を逸らし、搾り出すように誠は言った。
「マジで? でも教師だもんなぁ、おじさん。やっぱり、勉強のほうが大事って考え方になっちゃうのかなぁ」
このままじゃいけない。このまま父に押し切られたら、絶対に後悔する。だけど、あの様子では、とても説得できそうにない。もう、どうしたらいいのかわからない。
「な、誠。ちょっと、コンビニ寄ってこうぜ」
「うん、別にいいけど」
佑介に誘われるままに、通学路の途中にあるコンビニの自動ドアをくぐって店内に入ると、季節感を無視したおでんの匂いが鼻をついた。冷房の効いた店内で、もうもうと湯気を立てている什器から漂ってくるこの匂いが、誠は苦手だった。
いつだったか、コンビニでパートをしている母に、尋ねた事がある。
「今ってさ、一年通しておでんやってるコンビニ多いけど、真夏におでんなんか買う人なんているの? 俺、冬とかならいいけど、夏に冷房で冷たくなった空気がおでんくさいのって、なんか違和感あるんだよね」
「よその店はどうか知らないけど、うちの店はお昼頃になると、そこそこ出るわよ。勿論寒い時期に比べたら、売れないから作る量も少なめだけどね」
「夏の昼間におでんなんて、どんな人が買ってくの?」
「年配のお客さんが多いかな? うちの店の近所は、結構多いみたいだし。一人、毎日のように買いに来るおばあちゃんがいるけど、その人は、ご主人が亡くなって、一人暮らしなの。それで、一人分の料理作っても効率悪いからって、よく買いに来てるわ。あたしも、最初は何も真夏にまで、熱々のおでん買わなくても、って思ってたんだけど、よく考えたら海の家なんかでもよくやってるし、その場で食べるならまだしも、店で買ったのを家に持って帰って食べる頃には、熱々ってことはないだろうしね」
そう言われてみれば、夏でもラーメンとかなら、熱々でも違和感無く食べれるな、と誠は思った。
それでも、夏のコンビニでおでんを買う気にはなれなかったが、その話を聞いた時妙に腑に落ちて、少し物の見方が広くなった気がしたのを、誠は思い出した。
固定観念、てやつか。
当てもなく店内をうろつきながら、口には出さずに呟いてみる。
自分は、固定観念には縛られない人間になりたい。父のように、自分の考えだけを正しいと信じ、それを他者にも押し付けるような人間にはなりたくない。広い視野で、物事を考えられる人間になりたい。
お前、親の言いなりじゃん。
弘之に、あの言葉を突きつけられてからずっと、大人から与えられた課題を、従順にこなしていた事に疑問を感じていた。勉強が出来なくたって、親の示す道ばかりを歩まなくたって、充実した日々を過ごしている人も、きっと沢山いるはずだ。逆もまた然りだ。勉強が出来て、親の言う事になんでも従ってきても、その先に必ず、素晴らしい未来が待っているとは限らない。先のことは、誰にもわからないのだ。
「誠」
佑介が、商品の入ったビニール袋をぶら下げて、立っていた。
「お待たせ。買うもん無いなら、もう行こうぜ」
「ああ」
佑介と並んで、店の出口へ向かう途中、賞味期限切れが近づいた商品を、無造作に籠に放り込む店員の姿が目に入った。
「ああいうのってさ、みんな捨てちゃうんだろ?もったいねぇよな」
佑介が、小声で言った。
「うん、うちの母さんが働いてる店なんかは、一応店員が食べたり持ち帰ったりしてもいい事になってるみたいだけど、その分を引いても毎日必ず籠がいくつも一杯になるくらい余るんだって。日によって差はあるらしいけどね。店によっては、店員にも食べさせてくれない所もあるみたいだよ」
「じゃあ、そういう店じゃ、全部ただのゴミになっちゃうんだ」
「そういうことだね」
発展途上国では、自分よりずっと幼い子供が、まともに食べ物も与えられずに、毎日何人も死んでいるという。その境遇と比べたら、自分はどれほど恵まれているだろう。きっと、世界的に見れば、日本に生まれたという事だけでも、相当恵まれている部類に入るはずだ。そう考えると、自分が抱えている悩みが、とても贅沢な悩みのようにも思えてくる。
自分は、やはり甘えているんだろうか。このくらいの事は、我慢して受け入れるべきなのかもしれない。
店を出ると、佑介は「これ飲めよ。俺のおごりだからよ」と言って、茶色いガラス瓶に入った栄養ドリンクを一本、誠に手渡した。
「結構効くぜ、これ」
瓶を握り締めると、心地よい冷たさが手のひらに伝わって来る。これを自分に飲ませる為に、佑介はコンビニに寄ったのだろうか。
「先の事も大事かも知んないけどさ、俺達がこのチームで出れる最後の大会まで、もうちょっとしかないんだぜ。お前がそんなんじゃ、勝てる試合も勝てないぜ」
「ごめん。なんか、変に気遣わせちゃって……」
「いいよそんなの。それに、東商で野球やるつもりなら、今のうちからこれまで以上に頑張らなきゃ、ついていけないぜ」
嬉しかった。これから先も、佑介と野球がしたいと、強く思った。
だが、今はとにかく、中学最後の大会に集中しよう。昨日の今日で、義秀に〝再戦〟を申し入れたところで、結果は同じだろう。それに、もしこのまま、本当に東商への道が断たれるとしたら、中学野球としてだけでなく、競技として取り組む野球も、この大会が最後という事になる。絶対に、悔いは残したくない。
「ありがとう、佑介。最後の大会、頑張ろうぜ」
「おう、やろうぜ」
そして誠と佑介は、ビンの蓋を開けて、揃って一気に飲み干した。
「おはよう」
唐突に声をかけられて振り向くと、そこに英治が立っていた。
「あっ、エーちゃん。おれ、親父ともう一回話したんだけどさ、ダメだったよ」
今度は、聞かれる前に先に言ってしまったほうが楽だと思い、あえて自分から昨日の事を、英治に話した。
「で、佑介がそこのコンビニで、これ買ってくれたんだ」
「さすがキャプテン、いいとこあるじゃん」
「ま、最後の大会も近いし、主力選手がへこんでちゃ困るもんな」
「確かに、井岡の出塁率と守備は、チームに大きく影響するからね」
「大丈夫。まだ完全には立ち直れてないけど、練習始まるまでには切り替えるから」
この日の午後は、誠達にとって大会前最後の練習として、レギュラーチーム対控え選手チームの紅白戦が行われ、レギュラーチームの誠は、一番ショートで出場した。
初戦の対戦相手、旭ヶ谷中はそれほど前評判の高いチームではない。ここ数年の実績も、東尾中より明らかに劣る。大事な初戦であることに変わりはないが、よほどの事がない限り、取りこぼしは無いだろう。
油断大敵という言葉があるが、誠は性格的に、自分を追い込むよりも、気持ちに余裕を持たせるほうが結果を出せるタイプだ。だから誠は今「初戦は問題なし」と考えている自分の精神状態を、良い傾向であると捉えている。
進路の事で、気持ちにゆとりが無い日々が続いているが、練習が始まってしまえば、ボールを追いかけているうちに、自然と憂鬱な気持ちは影を潜め、野球だけに集中する事が出来る。
一回の表、英治は控えチームの攻撃を、あっさりと三者凡退に抑えた。
ベンチへ引き上げた誠は、バットを持ってネクストバッターズサークルに入り、控えチームの先発投手、渡辺章吾の投球練習に目を凝らした。
渡辺は、今年の春に入部したばかりの一年生だ。制球力や、ランナーを背負っての投球など、技術面はまだまだ粗削りだが、小柄な体格の割りに球速があり、マウンド度胸もなかなかのもので、青木からも「将来のエース候補」と呼ばれている。
まだ小学生の面影が抜け切っていない、あどけない顔立ちだが、鋭く吊り上った目と、ややへの字気味に結ばれた口元が、レギュラーチームを打席に迎え入れても気後れしない、負けん気の強い性格を良く現していて、そのギャップが、なんとも可愛い。実際渡辺は、マウンド上のふてぶてしさとは裏腹に、普段はどちらかと言えば大人しく、先輩達に対しても礼儀正しい為、誠も含め、上級生達から可愛がられていた。
渡辺の投球練習が終わり、誠が左バッターボックスへ入った。渡辺の球は、速いとは言っても、英治と比べれば劣る。技術面に関しては、比べるべくもない。荒れ球な分、英治よりも的を絞りにくいが、力んでカウントを悪くすると、置きに来る癖があるので、それを狙えば攻略はさほど難しくない。
誠の予想通り、初球から二球連続で完全なボール球。キャッチャーが、小刻みに肩をゆするようなジェスチャーを交えながら、渡辺に「力むな」と、呼びかける。
誠は、次の一球を狙っていた。相手バッテリーが、ストライクを欲しがって甘いボールが来ると読んだのだ。
そして誠の読み通り、三球目は、球威もコースも中途半端な甘い球。誠が、思い切りよく振り抜いたバットがボールを捉え、打球は右中間を真っ二つに破るツーベースヒットになった。
二番バッターの翔太は、初球から送りバントを狙った。コン、と音がして、絶妙に勢いが殺された打球が三塁線へ転がり、それを見た二塁ランナーの誠が、スタートを切る。サードのダッシュがわずかに遅れた。ライン際で、殆ど止まりかけた打球を、マウンドから素早く駆け下りた渡辺が拾い上げた直後に、誠が三塁へ滑り込む。それを見て、渡辺が身を翻し一塁へ送球する。翔太も懸命に走ったが、こちらは半歩及ばずアウトとなった。
三塁へ滑り込んだ誠が、立ち上がって、ユニホームについた土を払っていると、控え選手チームのサード、加藤修二が言った。
「さっきのバッティング、珍しくフルスイングだったじゃん」
「うん。カウント的に置きに来そうな感じだったからね。狙ってたんだ」
「なるほどね」
加藤は部内で最も背が高く、中学生にして身長は180センチに達していた。どちらかと言えば小柄な誠は、加藤と話すときは、少し見上げるような格好になる。加藤はミートが上手く、二年時から代打ではよく起用されていたが、守備がどうにも苦手で、特に今のようなボテボテのゴロの処理にもたつく事が多く、ついに三年間レギュラーにはなれなかった男だった。
ワンアウト三塁。ヒットはおろか、内野ゴロや外野フライでも得点を狙える状況だ。しかも打順はここからクリーンアップを迎える。
三番の英治が、右打席に入る。ネクストバッターズサークルで、片膝をついて待ち構えているベンチの佑介も、真剣な眼差しで、マウンド上の渡辺を凝視している。
そうだ。格下の控え選手チームを相手に攻めあぐねているようでは、真剣勝負の公式戦で、結果を出せるはずは無い。相手が一年生投手であろうと、容赦はしない。この回でマウンドから引き摺り下ろすくらいのつもりで、一気に攻め立ててやればいい。
痛烈なライナーが前進守備の三遊間を襲う。誰もがレフト前への先制タイムリーヒットと確信した当たりに、加藤が横っ飛びで飛びついた。グラブの先に、辛うじてボールが収まっている。ホームへ向かってスタートを切りかけた誠は、咄嗟に身を翻して三塁ベースへ滑り込んだ。加藤も素早く起き上がってベースへ掛け込んだが、こちらは間一髪セーフ。
「ナイスキャッチ。危なかったよ」
誠の言葉に、加藤が、にやりとしながら答えた。
「俺なら、捕れないとでも思ってたか?」
「そういうわけじゃないけど、でもちょっとびっくりしたかな」
ツーアウト三塁。せめて一点取らなくては、レギュラーの面目が立たない。
四番、佑介への初球。渡辺が投じたのはカーブだった。少々高めに抜けたがストライク。
二球目、低めの真っ直ぐに、佑介が反応した。しかしカーブの残像があったのかタイミングが遅れ、ファール。口元を歪めて、佑介が悔しがる。
四番の佑介を二球で追い込んだ。セオリーなら、次は一球外してくるだろうが、キャッチャーが、制球難の渡辺にあえてボール球を要求するかは疑問だ。
三球目は、インコースの速球だった。佑介が、上体を逸らせてのけぞるほどの際どいボールだったが、渡辺は平然として、キャッチャーに返球を催促するように、グローブを慌しく開閉する。
思いの他強気なバッテリーに、誠も気持ちを引き締めた。ここまで、どこかで相手を格下と見て、見下している部分があったのかもしれない。実際、チームの自力は、自分達の方が明らかに上だろう。だが、相手だって、やるからには負けるつもりなど無いはずだ。
渡辺の強気な投球と、それを引き出すキャッチャーの強気なリード、加藤のダイビングキャッチ。まだ一回の表だと言うのに、相手はこれほど気迫溢れるプレイを見せている。相手を格下と見くびっている強豪が、反骨精神に燃える弱小チームに足元を掬われる場面は、何度も目にしてきた。一発勝負のトーナメントでは、そんなわずかな気持ちの緩みが命取りになる。
佑介への四球目。渡辺も開き直ったのか、ワインドアップからの投球だった。投じたのは勿論、渾身のストレート。コースはど真ん中だ。佑介のフルスイングが、それを完璧に捕らえた。
打球は、瞬く間に外野手の頭上を越え、外野フェンスの遥か彼方へと消えて行った。