「お前の為に」
「お帰り、今日もがんばったのね」
帰宅した自分の、泥だらけのユニフォームを見て、優しく微笑む母の顔を見て、誠は少し考え込んだ。
母さんは、どう思っているんだろう。
自分が本当に、父の意見に納得した上で、その考えを受け入れたと思っているのだろうか。自分が、まだ野球への未練を断ち切れてないことに、母は気づいているのだろうか。もし、その気持ちを自分が父にぶつけたら、自分の味方になってくれるだろうか。
父とは対照的に、母はいつも優しかった。自分が父に叱られたりしても、いつも庇ったり、後で慰めたりしてくれた。そんな態度を、義秀から「甘い」と叱責されることも少なくなかった。初めて東商の推薦の話を持ち出した時も、「誠がそうしたいのなら」と、母は言ってくれた。だがその時も、義秀に「お前は甘い」となじられると、気の弱い母は何も言えなくなってしまった。
父に強く言われれば、母はそれ以上反対する事はできない。誠はそんな母に、頼りなさやもどかしさを感じた事も、無かったわけではないが、それ以上に、家族が自分に従って当然と思っているような父の態度に、いつも怒りを感じていた。そして、そんな父に逆らえない自分自身にも。
母さんに、援護は期待できないな。
一瞬胸の内で呟いた後で、思い直す。
いや、それでいい。自分の力だけで父を説得すると、心に決めたのだ。
「父さん、今日も遅い?」
「今日は、特に何も連絡ないから、九時ごろには帰ってくるんじゃない?お父さんに何か用があるの?」
「うん、ちょっと」
「……そう」
一瞬、間があった。しかし、美奈子は、それ以上は何も言って来なかった。
部屋に戻った誠はシャワーで汗を流した後、母と二人で夕食を済ませ、部屋に戻るとベッドに横になった。そのまま仰向けの姿勢で、ボールを天井へ向かって軽く投げる。手首のスナップを利かせて、指先でスピンを掛けて、ほぼ垂直に投げる。舞い上がった頂点で一瞬静止するくらいのスピンを掛けるイメージで、投げる。落ちてきたボールを、グラブのポケットにしっかり収まるよう注意しながら、キャッチする。
考え事をする時、誠はいつも、この〝一人キャッチボール〟をする。こうすると、落ち着いてゆっくり考え事ができるのだ。小学校高学年の頃、自然と身についた。
自分がやろうとしていることは決して、間違ってなんかいないけれど、父の考えも決して間違いではないとも思う。だけど、今はそれを認めたくない。父の言う通りにしてしまうことは、負ける事になるような気がするのだ。何に対して負けなのかは、自分でもはっきりとは分からない。父の傲慢さ? それに抗えない自分の弱さ? あるいは、学歴に拘る世間の価値観? ただ、ここで負けたら、自分は絶対に後悔する。そしてもしそうなったら、それを父のせいにしてしまう。そうなったら、自分があまりにも惨めだ。自分の人生が思い道りに行かない事を、誰かのせいにして引きずっていくなんて、あまりにも惨めじゃないか。
亮平から聞いた木田の話を思い出す。木田は父に、どこまで抗ったのだろう。どこで諦めてしまったのだろう。自分の意思を自分の父親に一方的に捻じ曲げられた時、どれほど悔しかっただろう。どれほど惨めな気持ちだっただろう。
あの時の自分も、父に何も言い返せなかった。ただ、言われるがままだった。でも、今は違う。親の言いなりになんてなるものか。自分の人生は自分のものだ。自分の未来は、自分の意思で、勝ち取るのだ。
義秀は、美奈子の言った通り九時過ぎに帰ってきた。
誠は、食事を終えた義秀が、風呂に入るタイミングを見計らって、リビングへ向かい、椅子に腰掛けた。美奈子は、食器を洗っている。
「どうしたの?怖い顔して」
「えっ?」
食器洗いの手を止めて、美奈子が尋ねた。母にそう言われて、誠は初めて、自分の顔が強張ってい
る事に気づいた。だけど誠は、母の不意の問いかけに、思わず緩んだ顔を、もう一度引き締めた。隠す必要は、無いと思った。
「ちょっと、父さんに、話があるんだ」
「そう……」
それだけ言って、美奈子はまた食器洗いに取り掛かった。その後ろ姿を見つめながら、誠は考えた。
母さんは、俺が何を話そうとしているのか、何も聞こうとはしなかった。大した話ではないと思ったんだろうか、それとも、大切な話だと気付いているからこそ、あえて深く追求しなかったんだろうか。
母の背中からは、その真意を察する事はできない。
食器を洗い終えた美奈子が、テレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。特に見たい番組があったわけではないらしく、無作為にチャンネルを切り替え、スポーツニュースで、野球情報が流れているのに気づき、手を止めた。
「見るでしょ?」
「うん」
ニュースでは、アメリカのメジャーリーグでプレーする日本人選手の活躍が、ダイジェストで紹介されていた。鍛え抜かれた身体と洗練された技術、そして飽くなき競技への情熱で、大きな夢を掴んだ男達。彼らは、野球を続ける事を親に反対されたりした事はなかったのだろうか。いや、仮にそんなことがあったとしても、彼らの強い心は、決してそんなことで折れたりはしなかっただろう。
どうして自分には、彼らのような心の強さがないのだろう。
せっかく母がチャンネルを回す手を止めてくれたのに、そんなことを考えながらテレビを見ているものだから、番組の内容は、まるで頭に入ってこない。
「野球、好きなんだね」
「えっ?」
母の声に、はっとして振り向く。
「すっごい真剣な顔で見てた」
どうやら母は、自分が考え事をしているのを、テレビに集中していると勘違いしているらしい。また、知らず知らずのうちに、顔が強張っていたようだ。
「野球、続けたい?」
「……うん」
「そうだよね、せっかく強い学校から誘われたんだもんね」
「うん、でも、やっぱり好きなことばっかりじゃいけないとも思うし……」
だからと言って、父の意見に従う気は無い。だが、母が、自分と父が衝突する事を心配しているのだとしたら、これからその場面を目の当たりにし、悲しむだろう。
揺るがないと思っていた決意が、わずかに揺らいだ。
「母さんは、どう思う?」
「進路の事?」
「うん」
「うーん、どっちかなぁ。自分の好きな学校へ行って欲しいとも思うけど、お父さんの言うとおり、堅実な道を選んで欲しいとも思う。どっちって言い切ることは出来ないなぁ」
美奈子は、義秀のように誠に何かを強要することは決して無いけれど、こちらが意見を求めたときにも、はっきりとした答えが帰ってこない事が多い。優しいと言えば優しいが、頼りないといえば頼りない。
「ごめんね、はっきりしなくて」
誠の胸の裡を見透かしたかのように、美奈子が言った。
頼りないかもしれないけれど、母は確かに、自分のことを想っていてくれている。自分の意見を一方的に押し付けておいて、それを「お前の為」などと言う父とは違う。
「別に謝らなくてもいいよ。自分の事だもん。自分で何とかするよ」
「そう……」
「母さん。出来れば、二人だけで話したいんだ」
「……わかった、頑張ってね」
美奈子はそう言って、寝室へ入っていった。ややあって、風呂から上がった義秀の足音が聞こえてきた。
「なんだ誠、まだ起きてたのか」
「父さん。ちょっと、話があるんだけど」
「何だ、改まって」
そう言いながら、義秀は、誠の向かい側の椅子に、腰を下ろした。
「俺……、どうしても東商で野球がしたいんだ」
あの日から、ずっと言いたかった、言いたかったけど言えなかった言葉を、言った。
義秀の表情が、一瞬硬直する。驚いているように見えた。誠が野球への未練を引きずっている事など、予想もしていなかったかのようだった。少なくとも、誠にはそう見えた。
「今さら何を言ってるんだ。前にも話しただろう。高校へ行ったら勉強に専念して、野球はやめるって俺と約束しただろう。もう忘れたのか?」
義秀は、呆れ気味に言った。だけど、こちらもはじめから、義秀がすんなりと聞き入れてくるとは思っていない。
「……違う」
父の目を真っ直ぐに見据えて、誠は静かに、しかしはっきりと、そう言った。
「違う? 何が違うんだ? あの時、お前の為にも一般受験する方が良いんだって事を話して、それで、お前だって納得したんだろう」
「俺は納得なんてしてない。約束もしてない。父さんが一方的に押し付けただけだ」
誠は、少し声を荒げた。
「だったら、どうしてあの時、最後に何も言わなかったんだ。何も言わなかったら、わからないだろう」
わからない? 本当にわからなかったのか? あの時の俺の態度を見て、自分の言葉に納得したのだと、本気でそう思っているのか? 独りよがりな理屈を押し付けて、一方的に話を切り上げたという事を、全く自覚していなかったのか。
しかし、そんな誠の気持ちをよそに、義秀は続けた。
「野球をするためにレベルの低い学校へ行って、その後はどうするんだ? まさかプロ野球選手になるなんて言い出すつもりじゃないだろうな?」
「それは……」
誠が、今思っている事はあくまで、東商で甲子園を目指して野球がしたいという事だけだ。でも、もしかしたら、プロ野球選手にもなれるかもしれない。そんな気持ちが全く無いわけではない。だが、それは決して現実的な目標とはいえない。
高校を卒業した後の事までは、まだ何も考えていない。というより、わからない。だけど、それを悪いことだなんて思わないし、それだけで今の自分の気持ちを一方的に否定されるのは、やはり納得できない。
何か言い返さなきゃ。
しかし、言葉が出てこない。
「何度も言ってるけど、俺はお前に将来不自由な思いをさせたくないから、これからは好きな事を我慢してでも、将来堅実で安定した生活が出来るように、準備をしておくべきだと言ってるんだ。俺の言ってる事は、何か間違ってるか?」
表情は殆ど変わらなかったが、眼には威圧的な光が宿っている。
父の言う事は、確かに間違ってはいないと思うけど、こんな押し付けがましい言い方をされたら、それに従おうなどという気にはなれない。でも、こうやって理詰めで、威圧的な口調で抑え込まれると、何も言い返せなくなってしまう。誠は、一旦弱気になってしまうと、もう一度自分を奮い立たせる事というがひどく苦手だった。
「……どうしても、だめかな?」
「駄目に決まってるだろう」
やっとの思いで、一言だけ搾り出したが、間髪入れずに斬り捨てられた。威圧的な眼光はさらに鋭くなり、誠を睨めつける。
「野球が好きだから、野球の強い学校へ行きたい。その気持ちは、俺にもわかる。でも、もうお前も、それだけじゃいけない年齢だろう」
嘘だ。何が「わかる」だ。あんたはひとつも分かってない。分かろうともしていない。いつだってそうだ。俺が何かに夢中になっても、それが自分にとって理解の出来ないものだと、あからさまにけなすんだ。野球だけじゃない。保育園に通っていた頃、夢中になって見ていたテレビ番組の変身ヒーローや、小学校の頃、当時人気だったアニメキャラのカード収集に熱中したときも「どうせ大人になったら、こんなもの、見向きもしなくなるんだ。せっかく小遣いをやってるんだから、無駄遣いをするな」なんて言って、いつもバカにしていたくせに。
「そんな話、俺は絶対に認めないぞ。何の為に、高い月謝を払って塾にも行かせてやってると思ってるんだ。自分の将来のために、どうするのがベストなのか、もう一度しっかり考えてみろ。もう子供じゃないんだから、それくらいわかるだろう」
いつもは、お前なんてまだ子供だって、見下してるくせに。その時の都合で、大人扱いしたり、子ども扱いしたりするなよ。
そんな気持ちも、いつも胸の内で燻らせたままで、言葉にすることは出来ない。そんな自分の心の弱さが歯痒い。
「俺はな、お前の為に言ってるんだぞ」
その言葉を聞いた時、誠は奥歯をぎゅっと噛み締めた。義秀がよく使う言葉の中で、最も嫌いな言葉だった。
本当に俺の為なのか? 自分の為じゃないのか? 俺を自分の理想通りの人間に造り上げて、自分が満足したいだけなんじゃないのか?
義秀は、いつも一方的だった。父子の間に距離があっても、その距離を縮めるために、誠の側に歩み寄るようなことは決して考えない。いつだって、自分の側に誠を引っ張り込むことによって、一方的に距離を縮めようとするのだ。
「もう一度言うぞ。俺は絶対に認めない。わかったな」
父はそう言って話を一方的に打ち切ると、立ち上がって寝室へ向かった。
あの時と同じだ。止めなきゃ。何か言わなきゃ。でも、どうすればいいのかわからない。何か言葉を発しなければと口を動かすが、言葉が出てこない。
そして、あの日と同じように、父の姿は寝室へ消えていった。