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群青の夏  作者: 黒飛蝗
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「大人の義務」

 通勤の時間は、いつも憂鬱だった。いずれも満員のバスと電車に、約一時間もの間乗っていなければならないからだ。


 特に電車はきつい。発車寸前の「駆け込み乗車は、危険ですのでおやめ下さい」という駅員のアナウンスを聞くと、それを無視するかのように、いや、むしろそれを合図にでもしているかのように、僅かな隙間を見つけて強引に乗り込んでくる輩が毎朝必ず居るのだ。ほんの数分早くに家を出てくればすむことなのに、何故それが出来ないのか。


 こういった不届き者は、どう見ても人が入れるようなスペースは見当たらないのに、駅員に押し込まれるようにして、というか実際に押し込まれて、つまり他人の体を圧迫してまで自分の乗車スペースを作って、厚かましくも乗り込んでくるのだ。


 そして今朝も、一人の初老の男が、しらじらしい愛想笑いを浮かべながら、どちらも細身で非力そうな駅員二人に押し込まれながら乗り込んできた。さらに迷惑な事に、この男は身体が横に大きかった。つまり、人より明らかに広いスペースを要する体躯でありながら、こんな形で乗車するような事を平然とやってのけたのである。


 本当に申し訳ないと思っているのなら、もっと申し訳なさそうな顔をしろと言ってやりたい。きっと“何だかんだ言っても、結局は乗せてくれるだろう、謝れば許してくれるだろう”と、高をくくっているのだろう。駅員達も、いくら乗客とはいえ、もっと厳しく対応すればいいのにと思う。


 こういう連中は、自分が遅れたくないがために、赤の他人に迷惑を掛けるだなんて、恥ずかしいとは思わないのだろうか。義秀には、とても理解できない感覚だ。


 要するに、甘えているのだ。楽なほうへ楽なほうへと流されてゆく自分を、自分自身で許してしまっている。義秀は、そういう怠惰な人間を見ると、たまらなく不愉快な気分になる。


 義秀が、その横顔を一瞥すると、男は、ひと心地ついたかのように大きな溜め息をついて、ポケットに手を突っ込み、おそらくここへ来るまでにも、既に何度か汗を拭っているであろう皺くちゃになったハンカチを取り出して、額の汗を拭い始めた。


 すし詰めの電車の中、身を捩るようにして、ポケットからハンカチを取り出し、汗を拭い、またハンカチをポケットにしまう。男が巨体をよじる度に周囲の乗客が、さらに窮屈な思いをさせられる。


 痛みを伴うような事は決して無いのだが、遅れてきた上に、ただでさえ窮屈な満員電車の中で、周囲の人間にさらに窮屈な思いをさせても平然としている男に、怒りが込み上げてくる。


 何故もっと、自分に厳しく出来ないのだ。何故もっと、怠惰な自分を改善する努力をしようとしないのだ。こういう人間を見ると、教育者として、教え子達をこんな人間に育ててはならないと強く思う。


 そんな不快極まりない満員電車を降りてから、歩くこと約十分義秀は、勤務地である県立水蘭高校に到着した。


 職員室に入り、自分の席に座ると間も無く、隣の席の後藤正がやってきた。後藤は、義秀より、ひと周り近く年長のベテラン教師で、担当教科は国語。三年G組の担任でもある。


 後藤は、頭を下げると言うより顔を小さく突き出すような会釈をしながら、照れ笑いなのか苦笑いなのかわからないが、何故だか卑屈そうに見える笑みを浮かべて「おはようございます」と挨拶し、自分の席に座った。


 身長が低い上に、猫背で常に俯き加減なので、立っているとかなり小柄に見えるが、座高はそれほど低く無い。大人しく、職員室でも目立たない人物で、人前で激昂するようなことは決してないが、後藤の場合、それは温厚や寛大と言うよりも、ただの小心者と言った方が正しいと、義秀は考えている。


 職員会議でも、職員同士の飲み会でも、主体的に意見を主張するような事は全くと言っていいほど無く、ただ周囲の会話に相槌を打っている。たまに誰かに意見を求められても、当たり障りの無い無難な事しか言わない。


 義秀は、見た目も言動も卑屈なこの先輩教師を、内心軽蔑していた。そして、後藤が担任を勤める三年G組には、義秀も手を焼いている安西が在籍している。今日の一時間目の授業は、その三年G組で行う予定になっていた。


 後藤ら、各クラスの担任を勤めている教師たちがホームルームへ向かい、その間に義秀は、授業の準備をして三年G組の教室へ向かった。


 教室の扉を開くと、空いている席は見当たらなかった。生徒達は、全員出席しているようだ。しかし、窓際の列の前から二番目の席の生徒。安西聡は、義秀が教室に入ってからも意に介さず、スポーツカーの雑誌を広げて読んでいる。


「安西、チャイムが聞こえなかったのか。本をしまえ」


 安西は、義秀にそう言われると、面倒臭そうに雑誌をカバンにしまった。それを確認した日直の生徒が号令をかける。生徒たちが着席して授業の準備を始めても、安西だけは、今日も虚ろな表情で、窓の外を眺めている。


 無造作に染められた金髪。染髪してから、だいぶ日が経っているのだろう。生え際から伸びた黒い地毛の部分がかなり伸びていて、その頭頂部は、ぽっかりと空いた大きな穴のように見える。ただでさえ小柄で細身な体格なのに、担任と同様姿勢が悪くて猫背気味なものだから、その体はなおさら小さく見えた。


 授業が始まってからも、安西は窓の外を眺めてばかりで、こちらの話に耳を傾ける様子は全く見られなかった。


「安西、どこを向いてるんだ。ちゃんと授業を聞いているのか」


 義秀の言葉に、安西が面倒臭そうに振り向き、表情の無い顔で一瞬ちらりと義秀の方に目を向けた

が、すぐに顔を背け、また窓の外に目をやった。

 安西の態度に半ば呆れつつ、義秀も、なんとなく、つられるように窓の外を見た。


 体育の授業で、サッカーをしている生徒達が目に映った。窓が半分ほど開いている事もあり、歓声や笑い声も、はっきりと聞こえてくる。視線を安西の顔に戻してみると、安西は、いつもの気怠そうな表情で外の風景を眺めたまま、ぼんやりと頬杖をついている。サッカーに興味があるのではなく、自分の視線を避けたくて、そっちを向いただけなのだろう。


「安西。今サッカーはお前に関係ないだろう。こっちを向いて授業を聞きなさい」


 安西が、目だけをこちらに向けた。義秀は、先ほどまで何の感情も感じ取れなかった眼差しが、微かに攻撃的で尖ったものになったのを感じた。 


 だが、表面上反抗的な態度をとってはいても、安西は決して、声を荒げたり、暴れたりするような真似はしない。もとより、本気で刃向かうような気概は持ち合わせていないのだ。入学早々に捺されてしまった劣等生の烙印と、そこから抜け出そうと努力すらできない己の弱さに、正面から向き合う勇気もない。それを隠そうと、精一杯強がっているだけなのだ。


 今日はこの辺にしておくか。これ以上言ってもどうせ効き目はなさそうだし、それに、安西一人のために、これ以上授業時間を浪費するのは、他の生徒にも迷惑だ。


 そう思った義秀は、授業を再開した。だが、決して安西をこのまま野放しにするつもりはない。息子に対しても、生徒に対しても、決して妥協はしない。

子供達にもそれぞれ事情があるだろうし、彼らなりの考えもあるだろう。だが、それをいちいち聞き入れていたら、きりが無い。


 子供達の意見を、すべて無視するつもりは無い。しかし、子供の自主性を重んじる事と、甘やかす事とは違う。同僚の中には傍観を決め込んでいる者もいるが、それは義秀からすれば職務怠慢であり、子供の意見を尊重するという大義名分の下に、子供を甘やかしているだけだ。それは自分の教育理念に自信のない者たちの逃げ口上だと、義秀は考えている。


 甘やかせば、子供は付け上がるだけだ。それでは本人の為にもならない。人生は自分の思い描いた通りに事が運ぶほど、甘いものではないのだ。人生経験の浅い若者に、現実の厳しさを教えてやる事も、大人の務めなのだ。


 職務を全うするのが、大人の義務。一人前の大人になるために、良い成績を取るべく努力するのが、学生の義務。そして生徒にそれを教える事が、自分達教員の義務なのだ。


「安西。いつまでも甘えているなよ」


 義秀は安西にそれだけ言うと、授業を開始した。

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