同人作家姉妹は姉妹百合に挑む
【登場人物】
江守祥絵:23歳。社会人の百合同人作家。PNは『ねひつじ』。
江守萌永:20歳。大学生。姉を手伝う内に自身も百合同人を描くように。PNは『あかり草』。
私のおねえちゃんは同人作家だ。平日は仕事に勤しみ、休日はイラストを描いたりイベントに向けてマンガを描き進めていったりしている。ただ、その内容はあんまり人には言いづらい。
女の子同士のいちゃいちゃ――いわゆる百合を題材にしているのだ。
私がそれをおねえちゃんから打ち明けられたのは三年ほど前のこと。高校生だった私の部屋にゾンビみたいな表情をしたおねえちゃんがやってきて、『……一生のお願い、手伝って……』と原稿のお手伝いを頼まれた。おねえちゃんが絵を描いているのは知っていたけどその内容までは知らなかった私はけっこうな衝撃を受けた。受けたが、あまりにも死にそうなおねえちゃんに同情したのと、今のご時世そこまで珍しいことでもないなと思い、原稿を手伝ってあげた。
まぁ、それをきっかけに百合マンガにハマって私まで描くようになるとは思わなかったけど。
今では年に何回か二人で合同本を出している。それなりにファンの人も出来て描く喜びも実感するようになってきた。
もっとみんなに楽しんでもらいたい。期待に沿えるような作品を作りたい。そう考えるようになるのも創作者としては当然のことかもしれない。
「次のイベントは何にしよっかなぁ。萌永はもう決めてる?」
「んー、まだ決まってない」
少し前にイベントを終えてそろそろ落ち着いてきた頃、私はおねえちゃんと次回作について話し合っていた。
基本的に描くのはオリジナル。おねえちゃんは社会人百合が多く、私は学生百合が多い。お互い身近にあるものの方が題材にしやすいからだ。大学の友人たちの何気ない会話を百合に昇華させることもよくある。
ただ、ずっと同じようなことをやっていてはマンネリになるし、そろそろ新しい領域に踏み出してもいいかもしれない。
「……決まってないけど挑戦したい百合ジャンルはあるよ」
「ほう。してそのジャンルは?」
「姉妹百合」
「――――」
おねえちゃんの目がカッと見開かれた。その気持ちはよく分かる。
「正気か、妹よ……?」
「正気だよ、姉。『姉妹百合とか描かないんですか?』ってメッセージたまにもらうし、一回くらいは描きたいなと」
「それは私も何回か聞かれた。姉妹百合は百合界隈では割とメジャーだし、私にもお気に入りの姉妹百合マンガくらいある。では何故我々はこれまで姉妹百合を描いてこなかったか」
私はおねえちゃんをまっすぐ見返して答える。
「――姉妹百合が分からないからだよ」
「その通り! 現実にいる妹、姉に対してきゅんとしたりドキドキしたりすること自体がないのに、どうやって描けというのか!」
「それをなんとかして描きたいの」
「無理だ! 一人っ子だったらまだいい。空想の姉妹なら自分の理想を詰め込める。どこまでも仲が良く、自分に尽くしてくれて甘えてくれて、可愛い顔をこれでもかと覗かせてくれる究極の姉妹。だが現実にいる妹はどうだ! 喧嘩はするし反抗するし可愛げなんて全然ない!」
「実の妹を面と向かってそこまで言いますか……もう原稿手伝ってあげないから」
「ウソウソ! 可愛くて優しいとこもいーっぱいあるある! ただ、ね? 生まれたときから一緒に暮らしてるからこそイヤな部分だって見えてるわけじゃない? 別にお互いシスコンってほどべったりしてたわけでもないし」
概ねおねえちゃんの言っていることは的を射ている。私もおねえちゃんに対して胸をときめかせたことなんて一度もない。姉妹百合マンガを読んで『このやりとり可愛いなぁ』と思うことはあるけど、結局『ま、こんなことうちでは絶対ないけど』になってしまうのだ。
だから私達は暗黙の了解で姉妹百合を描かなかった。というか互いに実姉妹がモデルの百合を描きたくなかった。誰だって実姉のキスシーンやベッドシーンなんて描きたくないはずだ。なにより本人に読まれるのが一番気まずい。
ただやっぱり、苦手とする分野だからこそ挑戦してみたいという思いもある。
「……それでも姉妹百合を描いてみたい」
そこに山があるから山に登るのだと、ある登山家は言った。ならば私はそこに百合があるから姉妹百合を描く。
「生半可な気持ちじゃ描けないよ?」
「分かってる。自分に嘘をついて描いても良いものは出来ない。心の底から私が良いと思ったものを描いてみせる」
私が決意を口にすると、おねえちゃんが顔をしかめたまま首を横に振った。
「いやそうじゃなくて。私達が姉妹百合を描いたら、そういう関係だと思われる可能性があるってことなんだけど」
「…………」
「仲の良い作家さんからでさえ『ねひつじさんって実際妹さんとどうなの?』とか冗談交じりで聞かれたことあるからね」
ねひつじとはおねえちゃんのペンネームだ。名前の祥絵の祥から取っている。
「……私も『あかり草さんはお姉さんから何もされてない?』って聞かれたことあるよ」
あかり草は私のペンネーム。萌永の萌から取った。
聞かれたのは打ち上げの席だったし相手はお酒を飲んでいたので本気で聞いてきたわけではないだろう。姉妹で百合本を出している以上そうやってからかわれることもあるんだろうなと思っていた。
「待って待って。なんで私の方が萌永にちょっかい出してるような感じに思われてるわけ?」
「そういう雰囲気があるからじゃない?」
「はぁ!? 清く正しい立派なおねえちゃんでしょうが!」
「清く正しい立派なおねえちゃんは原稿の締め切りが近くなったときに毎回妹に泣きつかない」
「そ、それはしょーがないでしょー! 社会人は時間に余裕がないの! てかその分お手伝い料払ってるんだからいいじゃない!」
お金のことを言われると私も何も言い返せない。
「……まぁ両者痛み分け、ということで」
「……そうね」
いったん会話を仕切り直すことにした。気持ちを落ち着かせてから口を開く。
「別におねえちゃんは姉妹百合描かなくていいよ。私だけが描くから」
「いや、私も姉妹百合描く」
「え、いいの?」
「姉妹で姉妹百合を描いたからって本当に付き合ってるわけでもないし、毅然とした態度でいれば大丈夫よ。ほら、猟奇マンガ描いてるからって作者が殺人犯じゃないでしょ? それと同じよ」
「まぁ……」
でも薄い本はわりかし作者の嗜好を反映しているような……とは言えなかった。
「むしろ姉妹で姉妹百合を描くっていうのが話題になるかもしれないし、ね……んふふ」
おねえちゃんがいやらしい笑みを浮かべた。
「確かに……ふふ」
私も笑う。似た者姉妹だ。
「所詮この世は弱肉バズ食。弱ければ死に、バズったもんが勝つ。利用出来るものは何でも利用しないとね」
「いっそ『※実録』とか入れちゃう? 本当にあったことか聞かれてもお茶を濁してさ」
「あーいいかもねぇ。じゃあ私が姉目線で描くから萌永が妹目線で描いてよ」
「おっけー。なんか色々イメージ膨らんできた」
当初の意気込みとはまた違った方向へと進んでいるけど、まぁいい。良いものを作りたいという気持ちと認められたいという欲求は同時に存在する。たくさんの人に読んでもらえるのならそれが何よりだ。
おねえちゃんがノートを取り、ペンで走り書いていく。
「そんじゃまずは姉妹のキャラね。あんまり自分たちそのままってのはやめときたいから、姉は大学生でいい?」
「うん。妹も大学生にした方が動かしやすいかな?」
「どうだろ。一歳違いだと妹像が湧いてこないし、私達と同じく三歳差にしちゃうと就活のこととか考えるの面倒くさい」
「妹は高校生でいいんじゃない? 高二と大学二年生」
「おっけー。創作で一番都合のいい二年生だね」
「身も蓋もない」
「あとは大まかなストーリーだけど……何か案ある?」
「ない。けどパターンで言えば二種類しかないと思う」
「続けて」
「すでに付き合ってる状態なのか、これから恋人になるところなのか」
「その辺は普通の百合とおんなじか」
「そそ。あとは元々両想いなのか片想いだったのか。好きと気付いたのはいつか、どのくらい好きなのかとかを詰めていかないとだけど」
おねえちゃんがノートにメモをとり終わり、指でくるくるとペンを回す。
「ふむ、せっかく二人で描くんだから同じシーンを別視点にするよりかはまったく違うシーンにしたいよねぇ」
「じゃあどっちかが恋人になる前、どっちかが恋人になった後を描くっていうのは?」
「お、いいね。萌永はどっち描きたい?」
「どっちでも。おねえちゃんは?」
「私もどっちでもいいや。そんじゃジャンケンしよ。勝った方が付き合う前、負けた方が付き合った後」
「おっけ。ジャーンケーン――」
結果、私が付き合う前を担当することになった。
「これって告白まで描けばいいの?」
「告白で終わりにするかその後もちょっと描くかは萌永に任せる。二人が結ばれるシーンだけあればあとは何でも」
「はいよ」
結ばれる、と簡単に言っても色々ある。普通に好きと伝える、行動や言動から好きとバレる、何かをきっかけに相手を意識しだす、互いに好き合っているのに気付いていたが恋仲にまで踏み出せずにいる、などなど。
今回はどうしよう。初めて描くのにあまり奇を衒っても仕方がない。日常生活の中で徐々に自分と相手の気持ちに気付いていき想いを伝え合う――うん、これで行こう。
ぼんやりと形が見えてきた。あとは、如何にして姉妹の日常を百合にするか。
おねえちゃんの方を窺うと、同じ思考にたどり着いたのかあちらも私の方を見ていた。どちらからともなく頷く。
「これは色々と……」
「日頃どう接してるかを意識した方がいいかもね」
私達は姉妹百合を実感できない。でも自分達のキャラクターが同じ状況になったときにどう感じるだろうかを想像することはできる。
次の休日、私達はおねえちゃんの部屋でまた話し合っていた。
「萌永はさ、私と一緒に暮らしててこう、どぎまぎするような場面ってあった?」
「んー……トイレ開けたときに中にいたらちょい気まずいくらい? でもそれも『あぁごめん』程度だし」
「そうなんだよねぇ。これが普通の百合だったらさ、私達って同棲してるようなものじゃない。お母さんたちはいるけど」
「うん」
「だから本来ならちょっとしたハプニングでも胸が高鳴ったりそわそわしたりするんだけど、そういうのがないわけよ」
「お風呂上がりに裸で顔合わせても今更だしね」
「そうそう。でもこれが友達の家に泊まりにきた女子高生だったら?」
「めちゃめちゃドキドキして耳まで真っ赤になって、二人とも普通に振る舞うんだけどやっぱりどこか気まずくて、指先がちょっと触れ合うだけでびくんと肩を震わせる」
「Exactly」
「つまりは私達もその感情をトレースしていくべき、と?」
「感情より先に行動を真似てみるのがいいかもね」
「たとえばこんな感じ?」
おねえちゃんの隣に移動して、その手の甲にそっと触れてからすぐに手を離して自分の指を胸に抱いた。
「お、おねえちゃんに触っちゃった、どきどき……みたいな」
「だいぶあざといけど、まぁ合ってんじゃない? 私の担当は恋人になってからだからそこまで露骨な反応はなくて、もっと相手のぬくもりを求めるようなのにしないとね」
言いながらおねえちゃんが私の手を無理矢理握り、指を絡ませたり挟んでさすったりしてくる。
「萌永も自分からやってみてよ」
「え、こ、こう?」
誰かと手を繋いだことがないのでおねえちゃんの動きを真似しながら指を忙しなく動かす。
「慌て過ぎ。指相撲やってんじゃないんだから。あんた自分のキャラにそんなことさせる?」
「……させない」
手を繋ぐという行為は私の百合の中では崇高な行為だ。それは二人の仲が明確に前進したことを示すと共に、好きな人と触れ合いたいという願いが込められている。だから最初に触れるときは恐る恐る相手の反応を窺うし、一度繋いでしまえば二度と離したくないと思い、しっかりと握り締める。そのときもし相手の指が自分の指をさするようなことがあれば、嫌がってないことを示すために応えてあげるだろう。優しく、愛情をもって、頬を染めて、視線を下げて。
改めておねえちゃんと繋いだ手に集中する。おねえちゃんの動きに合わせて指を動かし、決して焦らずに二人の指先で愛情を確かめ合う。実際はそんな愛情なんてないけど、そういう雰囲気でということだ。
「なるほど……」
ふとした拍子、たとえば姉妹で一緒にテレビを見ているときなんかにどちらかが戯れに相手の指先を弄び、それに乗っかることで気持ちが高ぶる、なんていうのもいいかもしれない。
私が構想を練っているとおねえちゃんが手を離した。足を伸ばして座り直し、ちょいちょいと私を手招きする。
「なに?」
「ここ座って。私の前」
言われた通りおねえちゃんの前に座って背中をもたれさせる。柔らかい感触を感じると共におねえちゃんが腕を回してきた。耳の後ろから声がする。
「この体勢、めっちゃ好き」
「わかる。いいよねこれ。抱き締めてよし囁いてよしキスしてよし」
「まぁ私達がやると妹をあやしてる図に見えなくもないか」
「どっちかって言うと妹離れ出来てないおねえちゃんって感じじゃない? 年齢的にはどっちもきついけど」
「普段やらなくなったからこそ恋人同士のいちゃいちゃ表現として際立つんだよ」
おねえちゃんが腕に力を込めて私を抱き締める。
「あぁ……ひっさびさに妹を抱き締めたわぁ」
「同じく、姉に抱き締められた」
「ちっさい頃はもっと柔らかくてあったかくて可愛かったんだけどなぁー」
「今は可愛くないって?」
「可愛い可愛い」
「気持ちがこもってない」
「かーわーいーいー」
ぎゅうっと私を抱き締めておねえちゃんが私の首の後ろあたりに顔を擦り付けてきた。
「あーもうわかったわかった」
呆れる私におねえちゃんの真面目な声が届く。
「……今のちょっと姉妹百合っぽくなかった?」
「……確かに。小さい頃のエピソードを交えたのもそれっぽい」
「すねる妹をなだめつつスキンシップをするっていうのも我ながら良かった。なんだ、結構私達もいけんじゃん」
「あとは試行回数重ねて質をあげてけば姉妹百合完成も近いね」
「よし、じゃあキスしていい?」
「いいよ――ってはぁぁ!? なぜそこでキス!?」
「この体勢からすることといえばキスでしょ。もしくは耳たぶを舐めるか」
「いちいち描写がエロいよ。おねえちゃんが描く百合ってそういうシーンほんと多いよね」
「愛し合う恋人同士が体を求めることの何がおかしいの!? あんたのは逆にライト過ぎ。唇重ねるだけがキスじゃないから」
「性表現が薄かろうが百合は百合! プラトニックな交流の後に生まれる百合こそが尊ぶべきものなの!」
「それは否定しないけど、人間それだけじゃ治まらないことだってあるでしょって。好きな人と体で繋がりたいって思うことが不純だとでも?」
「そうは言ってない。けどその表現を使わなくても百合は描ける」
「でも萌永だってさっきこの体勢でキスするのがいいみたいに言ってたくせに」
「キスするのが悪いなんて一言も言ってないでしょー! キスの仕方によるの!」
「じゃあこういうときどんなキスがいいの?」
「そりゃあやっぱり……優しく、首筋に……?」
右の耳元でおねえちゃんの頭がごそと動いた。そのすぐ後に、ちゅう、と何かを吸うような音と共に首がこそばゆくなる。
「おねえちゃん!?」
視界の端で後ろを見ると確かにおねえちゃんが私の首筋に顔を埋めていた。キスをするというのが冗談だと思っていたので驚きを隠せない。
「し、姉妹でそういうことはしない方が……!」
「ん……別に唇にしてるわけでもなし、このくらい平気でしょ? 萌永の姉妹百合はこういうことしないの?」
「それは、するかもしれないけど……」
「じゃあ問題ないね。この経験を姉妹百合に生かせばいいのよ」
「でも――んっ……」
おねえちゃんの唇が何度も私の肌をついばむ。キスをされている部分が熱い。指や舌が表面を滑る度にぞわと背中が震える。嫌な感覚ではない。ただその感覚をどう表現していいかが分からない。
左の耳たぶが摘ままれた。
「――っ」
予期せぬ刺激に声が漏れそうになった。私が声を我慢している間もおねえちゃんの指先が私の耳たぶを弄ぶ。
「萌永の耳たぶ柔らかいねぇ。触ってると気持ちいい」
「こ――の、ヘンタイ……!」
「違う違う。私の担当は恋人になった後の姉妹百合でしょ? だったらこうやっていちゃいちゃするのも全然ありだし――ん……」
「っ、とか言って、私の反応見て楽しんでる、くせに」
「姉妹百合のお姉ちゃんキャラってさ、可愛い妹を責めたててイイ声で哭かせるのがスタンダードだったりすることない?」
「……分からなくもないけど」
「だからこれは私の意思っていうよりは、姉妹百合の意思? みたいな? まぁ、萌永も自分の考える百合妹の意思に身を任してみるといいよ」
「身を任すったって……」
私の中の百合妹は、引っ込み思案であんまり感情表現が上手じゃなく、でもおねえちゃんのことが大好きで好意を隠し切れない。そんな妹。
「……おねえ、ちゃん」
私は手を後ろに伸ばし、おねえちゃんを求めた。私の意図を察しておねえちゃんが手を握ってくれる。それをぎゅっと握り返した。言葉にはしない。私の理想の百合妹は全身で姉を受け入れ、更なる愛を求めた。
私の感情の変化に反応したのか、おねえちゃんのキスは激しくなっていった。艶っぽい吐息は獣のように変わり、いやらしい水音を耳朶に響かせる。
徐々におねえちゃんのキスの位置がずれてきているのに気が付いた。首から耳の方へ。耳から頬の方へ。けれど私は抵抗できない。私の中の百合妹がそれを求めていたから。そうしてゆっくりと移動してきたおねえちゃんの唇が私の唇へと重なり――。
「「ぅわぁっ!!」」
二人とも正気に戻った。体を離して早まった鼓動を静めるために小さく深呼吸を繰り返す。
「い、いやー、雰囲気って怖いねぇー。ま、まぁキスに至る流れが分かってよかったってことで」
わざとらしく笑うおねえちゃん。そんなことよりももっと大事なことがある。
(私のファーストキスが……)
しかし初めてのキスがおねえちゃんという事実に思ったほどショックを受けていなかった。本来なら落ち込んでも仕方ないのに自分でも驚くほど冷静だ。それだけ百合妹の気持ちになりきっていたのだろうか。今はとにかく心臓の音がうるさい。
黙り込んだ私を心配してかおねえちゃんが声をかけてきた。
「萌永、大丈夫?」
「あ、うん……おねえちゃんは平気なの?」
「しちゃったものはしょうがないし、ほら、家族だからノーカンノーカン」
家族はノーカンが通用するのは小学校低学年までだと思う。ただここはおねえちゃんのフォローを受けておこう。
「そうだよね。家族はノーカンだもんね。うん、さっきのはファーストキスじゃなかった」
「……え、初めてだったの?」
「うん」
「あ、えっと……そうそう! ノーカンだから! ノーカウント! 数に数える必要なし! あとはほら、アレだよアレ。マンガの取材の為の体験なんだからまったく気にしなくていいんだって。必要経費! コラテラルダメージ! なんかそういう感じのやつ!」
「おねえちゃん、大丈夫だから。わかってるから」
テンパり気味のおねえちゃんをなだめる。さすがに姉として妹のファーストキスを奪ったのは罪悪感があったらしい。
(……おねえちゃんは初めてじゃなかったんだ)
その部分が少しだけ引っ掛かったが、ともかく私達はまた理想の姉妹百合に近づけた。過程がどうあれ結果が報われればいい。最終的に自分が良いと思える姉妹百合を作り上げることができれば勝ちなのだから。
「ただいま」
「あ、おかえりー」
平日の夜、おねえちゃんが仕事から帰ってきた。リビングでテレビを観ながら私が出迎える。
ぷい、とおねえちゃんが目を逸らした。別に普段から仲良くしているというわけではないけど、少し態度が冷たいように感じた。
(疲れてるのかな)
おねえちゃんは台所にいたお母さんにお風呂が沸いているかどうか聞いてから脱衣所の方へ向かっていった。
お風呂から出てきたあと原稿の進捗について話したときは普通だったので、さっきは帰ったばかりで疲れていたんだろうと結論付けた。しかし、次の日以降も時々おねえちゃんの態度がおかしいときがあった。視線を合わせてくれなかったり、反応が少し遅れたりとおねえちゃんらしくない。私が『調子悪いの?』と聞いても『原稿のこと考え過ぎてぼーっとしてた』と笑うだけ。まぁ考えているのは本当だろうけど。
一週間が過ぎ、休日がやってきた。おねえちゃんと姉妹百合を相談できる、と喜んだのも束の間、おねえちゃんが会社から急な呼び出しを受けて出勤してしまった。残念だけど仕方ない。
(おねえちゃんの部屋で百合マンガでも読んでよ)
遅めの朝食を終えてからおねえちゃんの部屋に引きこもり、ベッドでごろごろしながら百合マンガを読みあさった。特に姉妹百合。パクるのはよくないが参考にはなる。
そうして読んでいるうちに、うつらうつらと睡魔が襲ってきた。食べた後だからか余計に眠い。
(ちょっとだけ寝ようか)
姉妹百合についてはおねえちゃんが帰ってきてから考えればいい。体を横に向けてマンガのページに指を挟んだまま、私は静かに目蓋を閉じた。
…………。
「……萌永」
「ん……」
「萌永」
名前を呼ばれて目を覚ます。すぐ前におねえちゃんの顔があった。
寝ぼけ眼で部屋の時計を確認する。昼の二時過ぎ。
「……早く帰れたんだ」
良かったねのつもりで言ったが、おねえちゃんの反応はなかった。というかおねえちゃんが変だ。視線が熱っぽいというか、何か重大なことを隠しているような感じというか。
おねえちゃんが顔を近づけて囁く。
「……もしかして、ひとりでしてた?」
「?」
何をひとりでするというのか。原稿? 読書? そのときおねえちゃんの視線が私の足の方に向けられた。なんとなく私もそっちの方を見る。特におかしなものは無い。ベッドに横になった私の足と、寝てるときに無意識に入れたのか太ももの間に手が入れてあるくらい。
「――――」
眠気が吹っ飛んだ。すぐに手を太ももから抜いて違う違うと手のひらを振る。
「いやこれは寝てたら勝手に手が入っただけで!」
「隠さなくていいよ。萌永も、そうなんでしょ?」
おねえちゃんの目が普通じゃない。色っぽく、妹をからかうように微笑みを浮かべた姿は、先週キスをしたときに似ている。
(……また姉妹百合の参考にするためになりきってるだけ?)
おねえちゃんの作風を考えればこういうシチュエーションを好みそうではある。だったら私も百合妹になりきってあげた方がいいのだろうか。
「……う、うん。そう、だよ」
姉を想うあまりに姉の部屋で自身を慰めてしまった妹。そこにシーンを割きすぎるとエロに比重が寄ってしまうので難しいが、互いの愛情を確かめ合うのには適していると思う。私は進んで描かないけど嫌いというわけではないし。
ぎし、とおねえちゃんがベッドの上にあがってきた。そのまま私を仰向けにして跨がってくる。
(うわ、ちょっとちょっと――)
私をベッドに押し付けるような体勢で覆いかぶさってきたおねえちゃんと至近距離で見つめ合う。
「あ、そ、そろそろいいんじゃないかな?」
嫌な予感を感じてやんわりとどかそうとしたとき、おねえちゃんが「うん」と頷いてからキスをした。
「――――」
先日のキスとまったく違う。おねえちゃんの唇は開いたり閉まったりを繰り返しながら私の唇を音をたてて何度も吸い、深く重ね合わせて舌を口内に差し入れてきた。未知の感触に舌先から首の後ろへ電気が走る。おねえちゃんとディープキスをしていることに何か反応するよりも、ぬるぬるとした舌触りが、熱い唾液が、私からまともな思考を奪う。ただ、最後に残った理性が服の中に侵入してこようとしたおねえちゃんの腕を掴んで止めた。小さく首を横に振るとおねえちゃんは尚更キスに集中しだした。
そうして窓の外が完全に暗くなったころ、息も絶え絶えの私達はようやく冷静さを取り戻した。
「……い、言い訳をさせて」
「……なに?」
衣服の乱れを直しながら不機嫌に聞き返した。おねえちゃんは床に正座したまま粛々と答える。
「原稿描いてるときにキャラクターに感情移入することってない?」
「まぁ、たまにあるけど」
自分のキャラクターがきゅんとしたときはきゅんとするし、泣いているときはこっちも泣きそうになったりする。
「多分今の私がそうなの」
「感情移入?」
「うん」
「感情移入であんなキスする?」
「現にしたでしょ」
「それはおねえちゃんが元からそういう邪まな目で私を見てたからじゃないの?」
「見てない! この前のキスから何か私の感情がおかしいの! 萌永に見られると変にドキドキするし、触るのも躊躇しちゃうし、私のベッドでしてたのかと思うと欲望が抑えられなかったし!」
「欲求不満」
「ちーがーうー! これは全部私の理想の百合姉に意識を引っ張られたせいなんだって!」
「おねえちゃんはイタコか何かなの?」
「そうじゃない!」
「原稿のせいって言うならさぁ、しばらく離れてみたら? 根詰め過ぎるのはよくないって教えてくれてるのかもよ?」
「……うん、そうする」
「私、部屋に戻るね」
「あ、うん。ごめんね、萌永」
「いいよ。家族はノーカンなんでしょ」
本当はキスの衝撃が強すぎて具体的に何があったのかをあまり覚えていないだけだったりする。
自分の部屋に戻ってからベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めて深く息を吐く。姉妹百合を描いてみたいと私が言い出してから、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。
キャラクターに感情移入すること自体はそこまで珍しいことではない。生みの親だからこそ人一倍自分のキャラクターに自己を投影してしまうし、逆もまた起こりうる。
この前のキスがきっかけだとおねえちゃんは言っていた。おねえちゃんの心情を想像するうちに自然と私の頭の中に姉妹百合の話が広がっていく。
気にしていない素振りを見せながらも実の妹のぬくもりや唇の感触を忘れられなかった姉は、いつしか妹に対して並々ならぬ感情を抱くようになってしまった。突然の自身の心境の変化に驚き、態度をよそよそしくさせる姉。しかし妹はそれに気付かない。そして無防備にも姉のベッドで寝てしまい、姉は妹の姿に劣情を催しついには一線を越えようとしてしまう……。
私の思い描く百合妹はそのあとどうするだろう。いきなり受け入れることはしないはずだ。現にしなかった。だからといって姉を嫌いになることもない。ただ、そういうのは段階を踏んでからじゃないとと考えている。
(これは別に私がそうしたいって思ってるわけじゃないから)
あくまで創作の話だ。これが姉妹百合なら、今日の出来事をきっかけに今度は妹が姉を意識するようになり、思い悩んだ末に自分から想いを伝えたのち、恋人になって初めてのキスをする。最後のキスシーンでページが終わりだ。
(一応話出来ちゃったけど、おねえちゃんが落ち着くまでは進めるのはやめとこ)
しばらく百合から離れていればおねえちゃんも元に戻るだろう。
――なんて考えは翌日に消え去った。
「……おはよ」
「……おはよう」
おねえちゃんに挨拶をする。普通の朝の光景だ。なのに私の胸の内側が普通じゃない。おねえちゃんと顔を合わせるだけで胃の奥あたりがきゅうと縮む。
朝ご飯を食べているときも、リビングで一緒にテレビを観ているときも、まともに会話が出来ない。休日だというのにほとんど話さないまま夜になった。お母さんからは『喧嘩したの?』と心配された。おねえちゃんのお風呂上がりの姿を見たときなんかは一瞬息を飲んでしまった。おねえちゃんってこんなに色っぽかったっけと自問自答を繰り返した。
おかしい。私がおかしい。そしてやっぱりおねえちゃんの態度もおかしい。まったく改善されていない。
自室で悶々と悩み、そうか、と思い至る。
(これがキャラクターに意識を引っ張られた結果か)
今ならおねえちゃんの気持ちもよく分かる。こんな自分はおかしいと分かっていても相手が気になって気になって仕方がない。
思い出すのは唇の感触、体のぬくもり、熱を帯びてとろけた瞳。もし、もう一度キスが出来るのなら、あのときよりうまくキスしてみせるのに。
私の中の百合妹が姉に会いたいと訴えている。大好きな姉ともっともっと触れ合いたいと叫んでいる。
(本当にこの感情はキャラクターによるものなの? それとも――)
降って湧いた疑問を確かめる術は一つしかない。
――コン、コン。
「……はい?」
「おねえちゃん、ちょっと原稿について相談があるんだけど――」
私達の姉妹百合同人誌を完成させるのは止めにしたけど、今でも姉妹百合への挑戦は続いている。
終
pixivの第二回百合文芸コンテスト応募作品。
明るくばかばかしくいちゃいちゃな姉妹百合を書きたかったんです。