「それ」
鈍い嫌な音が響いた。
―『う゛っ…?!』
瞳孔が開く。
アドレナリンが吹き出す。
緑と青。
狂う呼吸。
選択肢は放心しか無い。
一瞬にして、宙を舞った。――
―その赤子は、混乱と双子で産まれる。
「ニンゲン」とは違い、母の胎内から完全に産出され、ハッキリと目で認知されるより早く…産声を上げる。
母自身の手に依って。‐‐‐
…先に断っておかねばなるまい。
―――彼は欲張りな人間だった。
彼は志しの高い人間だった。
彼は凡そ何に対しても合理的だった。
悲日常的な状態に陥り、平静を保てない状況の最中にあっても、彼ならば乗り切るに違いない。
‥そう、
周囲に思わせる男だった―――
――『私が、お上様に対してある失態を犯して落ち込んでいた時‥ちっ。』
(と言って、苦い顔で小馬鹿にするような素振りをした。)
『…今思い出しても虫酸が走る事だ。私は心の底から悪いなんて思っちゃいない‥。
だがそんな事は関係無かった。
私は罰せられた。
落ち込んだよ‥完ペキに苦しみの中に墜ちてしまった。
あの時は何度も死にたいと思った‥。
周りの仲間は、というと、そんな事をしでかした私に対して素っ気無かった。不思議な事に、遠退いて行くもんだ‥。
あの時だよ、学んだのは。
悟ったんだ。ハッキリと。
他人なんか、心から信用するもんじゃない、ってね。
…だが、彼は周りと少し違った‥。
彼はそんな私を、ある時、家に呼んだんだ。確かに職業こそ同じだったが、家に招かれる様な事は無かった。だから‥ああ。
少し驚いたけど、言われた通りにした。
彼は、無理に元気付けようとする訳では無く、私にごく平静な態度で接した。
ああ、ぼろい家でな。
たまに、あの特徴的な声で大きく笑ったりしながら。
私は心から笑える状態じゃなかったけど、無理して笑顔を見せた。
なんだろう?とは彼と話してる時だって思ってたよ。
でも(彼なりに気を使ってくれてるのだろうか?)
と思ってた。
そして時間も時間、そろそろ帰ろうか、という時に、彼は私に手紙を渡した。
‥なんだ?と思ったよ。
だけど、帰ってから読む様に言われたから、不思議に思いながらも頷いて彼の家を後にし、すっかり色を落とした自宅で二つに折り曲げられた葉書を開いた。
そこには
「部屋を暖めるほうほう」とあった。
「1、いろりにひをつける。2、ふく」
とか書いてあってさ。
ああ、私は笑ったよ。
心の底から。
久しぶりだった。』
‥
彼女は俯いた。
『彼は良い奴だった…。
抜け目の無い奴でさ、二兎を追って二兎とも得る、そんな奴だった‥…今じゃ彼の事は解ってるんだ…全てが懐かしいよ‥
言うなれば、本当に「昨日の事みたいだ。」って所さ‥。
‥本当さ、彼に救われたんだ‥
多分…その日…彼なら、こんな風に言ったんじゃないか‥。
‥
「ほんの弾みさ。‥誓って嘘じゃない。
だって、稼がなきゃならんだろう?(と言ってよく笑った‥)
まさか、解ってたなんて事は無いね。
ああ、考えた。友と仕事なら、友を取れ、ってね。
だからといって、仕事をしちゃいけないって訳じゃないだろう。
そう思わないか?
例えそれがこんな気乗りしない物でも、さ。
ああ、確かに将来の夢は持ってるし、夢を追うにはセンスやらなんやらも必要さ。その為に四六時中サボってしまうしな。
といったって、まさか仕事をしちゃいけないなんて訳ないだろ…?
必要無い、全く無意味な事なんて多分、無いよ?そうだろう?」
って、さ…
ああ‥周りがどう思うかなんて関係無い。
あんな人間共が卑怯者と呼ぼうが、何と呼ぼうが……
なあ…
彼が居たなら、私は今、違っただろうか‥‥?』
――
とは、彼を知る一人の女性が、後に語った物である。―――
‐‐‐‐‐‐
‐‐‐‐‥‐ルクル‥‥‐
それは悪夢の様な陣痛だった―――
――大抵の場合はこうだ。
今、まさにその宿主を突き破ろうと(或いは内部で暴れ回ろうと)屈折した笑みを浮かべる、彼自身の内部に巣食う
「何者か」―
―『その正体は、どちらの名を持っている?』
という漠然とした問い掛けを出されたとしたら、
彼自身は答えられもしないだろう。―
その名を持つ二つは時に衝突し、又、言語ではとても形容出来ない様な、奇怪な合体を繰り返し、姿を変える。
始めは、その―宿主―へ苦虫を噛み砕く様な不快感を与える。
―彼自身に「それ」の発生は抑えられはしない。
「それ」から噴き出される膨大な破壊光は、全てを飲み込む。―
宿主をも―――
‐‐‐‐‥クルクルクル‥‥
炎
悲鳴
血。
災害に遭いたくて遭う人はいるだろうか?
そこからは同情や慈悲が感じられない。
或いは、
今にも家を飛び出そうと、竜巻、地震や津波に身を震わせ避難する準備をしている人はいるだろうか?
私達はそれをしない。
それは「正常」以外の何物でも無い。
彼等もそれをしなかった。
彼等も正常だった。
光
声
そして一つの
終幕。
例外は
無い。
慈悲の欠片も無い、標的を捉える眼の内には、誰もがが捕えられていた。‐‐
「二つのどちらか」という、その漠然とした問いは、様々な表情を‐
――時に――屈折した、引きつった笑みを宿主に映し出し、巣食った人間の身体さえをも支配する―――――
一瞬だった。
―――――――バジャッッ
―嫌な音と共に希望が男の視界から消えた。――
「何者か」は変体を完了させた‐‐
急激な早さで目は一点に集中した。
‐目の前の一色に吸い込まれた様な感覚に陥る。
彼の瞳孔は更に無理矢理に見開かれ、アドレナリンの放出量は日常の領域の一線を容易に突破した。
景色から目を逸らす行為は身体の選択肢に無く雷が落ちたかの様なショックを受け、意識が半分飛んだらしかった。―
―――
―――――(ほんの弾みだった)(‥断じて嘘じゃない)(だって稼がなきゃならんだろう?)(まさか、解ってたなんて事は無い!)(まさか!)(ああ、考えたさ!)(友と仕事なら、友を取れって!)(だからといって)(仕事をしちゃいけないって訳じゃない!)(ああ、確かに将来の夢は持ってるし夢を追うにはセンスやらなんやらも必要さ!)(といったって)(まさか仕事をしちゃいけないって訳じゃないだろう!?)(これは必要な事だったんだ‥!)(そうだろう…!?)(間違って無いだろう‥!?)――――
――‐‐1秒に満たないその瞬間に、これだけの思念が彼の頭を横切った。
その1秒は男にとって10年だった。
男はその特徴的な声さえ忘れていた。「声」など当の昔に喉から旅立ってしまったかの様だった。
半ば自らの身体に意志を通せない状態のまま、男は変わり果てて映る色を凝視する―
――刹那、
男の世界が光に満ちた。――
‐‐‐‐(!!)
急激に現実が失くなっていった。
異形を観せる、突如自らが堕ちた極限の状態に意識は完全に支配され、絶対零度に飛び込んだ様な身体の震えが襲う。
雷の様なショックという感覚等生温かった。
光が視界を閉ざすと意志を無視する鼓動は更に高まり、一刹那前の音とは比較不可能な早さで自我が飛ぶ。
‐
一瞬で最高潮に達した混乱がもたらした景色はこれ以上無い程、現実味が無かった。止まらない身体の震えは何か、想像も付かぬ神を予感させた。
それは夢の様だった。
――予感と「それ」は同時だった。―
異常な速さで片方‐‐が抜け出した。
天国とはこういう感じなのか、と今後二度と観る事の無いであろう感覚を身体が勝手に思考していた。何者かは一瞬消えた様でもあった。
日々の記憶はその時に限っては消え去った。
明日はゆっくり休む予定だった。
最早身体という物を無くした様な感覚の中、極限でなければ間違いなく閉じられるであろう目蓋を男は押し上げた。
それは本能だったに違いない。
―――――…
更に光は世界を染め上げて行く――
100年断った様だった。
光の擬音という、悲現実な音を聞いた事は無かった。
――――‥ッ!
―ビカビカビカビカッッッ!!!
―――――――
彼は欲張りな人間だった。
男の世界から光は消えた。―――
――それは―――
世の全ての名を使っても形容出来ない―――
……………………「…な………ト……タ…」
――聞く――という名の行為も、無かった――
――今や得体の知れぬ
「モノ」は空間を支配していた。――――
…「…ナ…………たの………ギ………す……?」
――
そのモノ―――
その日常の全てを支配し終えたモノが、
その刹那―――
―音を発した。―――
―「あなたが落としたのは、この金の斧ですか?それとも銀の斧ですか?」
――――‐
―「それ」は彼の様なニンゲンを放っては置かなかった。―‐
‐「本能」と「理性」という名で呼ばれる二つの物の衝突に依って産まれた、
内部の「何者か」
に支配された男は―――――
――「いえ、どちらもです。」
錆びた斧を落としたという事を隠して答えた。
「確かに木を切っていました。ですがね、だからといって斧を一つしか使わぬと決まった訳ではな… 」
こうして「それ」は産出された。