オリハルコンに導かれたというプレミア感
空野翼は怒っていた。はらわたが煮えくり返っていたと言ってもいい。それ程までに目の前で土下座する女に、不快感を示していた。
「この度はわたくしどもの手違いでとんだご愁傷様でした……」
何度も聞かされたセリフに苛立ちを堪えられなくなった彼は、ついに声を荒げてしまう。
「だからぁ、何であんなとこにタライ置いたんだよ! しかも死ぬか成人男性が、ええ!?」
「すいません、技術課が悪ノリでオリハルコンで作ったので……」
空野翼、享年24歳。職業大学院生、死因図書室で最上段に置かれた資料を取ろうとしたところその上にあったオリハルコン製のタライが頭に直撃したことによるくも膜下出血。
「何だよそれ! 人が折角浪人までして国立の理系に入ったのに、畜生、畜生……」
「すいません本当手違いでご愁傷様です……ここはどうかオリハルコンに導かれたというプレミア感でどうかひとつ……」
なおこのやり取りは、5回目である。冒頭に戻り6回目に突入したかに思えたが、ようやくこの不毛な論争に終止符が打たれた。折れたのはそれこそ翼の方であった。
「……で、何ここ天国? あんたもなんかそれっぽいし」
よく絵本に出て来るような白いローブに、ウェーブのかかった長い金髪。羽も輪っかもないが、どことなくそういう存在を連想させる雰囲気を醸し出していた。
「あ、ゆ、許してくれるんですね!?」
顔を上げた彼女は、翼が驚く程美人だった。
「いいや、絶対に許さない」
だが決意は揺るがない。彼の珍しい特徴として美人にそこまで弱くないのだ。
「この度はわたくしどもの手違」
「それはもういい、説明してくれ。ここはどこであんたは誰?」
周囲を見渡せば、違和感しかない光景が広がっていた。雲の上で胡座をかく自分自身にも、どこに繋がっているか見当もつかない白い扉にも、どこまでも広がる青い空にも。
「あ、ごめんなさい申し遅れましたわたくし、転生課のマリーゴールドと申します。ここはなんと! ななんと!」
「そうのいいから」
「ここはエルトクラインの天界転生窓口です……まぁツバサさんから見れば異世界ですかね」
エルトクライン、天界、転生などツバサには馴染みのない言葉が耳につく。
「ん? 異世界?」
「まぁ要はですね、そっちで死んだ魂をこっちで転生させるんです。おんなじ場所でぐるぐるさせたら、ほら濁りません?」
「知りません」
マリーの言葉は、驚くほど翼の耳に届かなかった。自分のことだと言うのに、現実感がないせいかほとんど聞く気にはなれない。
「そんなぁ……知ってくださぁい……」
「ああもうわかったわかった泣くなよもう! それで何? じゃあ俺転生すんの?」
「はい、それはもう! 今回上と相談した結果、翼さんはお詫びとして記憶引き継ぎイケメン金持ち絶倫天才勇者とかにしてあげますか」
「嫌だ」
今度ははっきり聞こえていたのに、彼にはもっと興味が無かった。
「えっ……もしかしてブサメンとかの方が」
「そりゃイケメンの方が良いけどさぁ」
天才勇者なんてものに、憧れた事は一度もない。彼とて人並みにテレビゲームぐらいは遊んでいたが、それよりももっと前に憧れていた物があった。
「俺は……宇宙飛行士になりたいんだよ。それを目指して頑張って来たし、これからだって……」
叶えたい夢があった。そのために人並み以上の努力を積み重ねてきた。それが空野翼の24年間の全てだった。
「これからは、もうないんだよな」
続く言葉はもう無かった。死というたった一文字の現実だけが、ようやく彼にのしかかる。
夢は終わった。その道は閉ざされた。
「あのぉ……」
「なんだよ」
申し訳無さそうに手を上げるマリー。
「ウチュウヒコウシってなんですか?」
「は」
「え?」
その一言は翼を怒らせるには十分すぎた。
「正座しろ、そこに正座しろ!」
「あっはいさっきから!」
「宇宙飛行士だぞ宇宙飛行士、アストロノーツだこん畜生! 男のロマン、人類の希望! なりたい職業ランキング一位の!」
「あっ、公務員だ!」
「違うわこのボケ!宇宙に行く仕事だよ!」
「ウチュウ……?」
首を傾げるマリー。今度は彼女が馴染みのない言葉に襲われる番だった。
「空の上、ここは雲の上だろうけどもっと上!空の上の上にあるところだよ!」
「はぁ」
「もしかして……知らない?」
「お月様とお星様はわかります」
「そうそれ!そこがあるとこに行きたいの俺は!」
「へぇー……でも、多分みんな知らないですよ宇宙って」
「なんで?」
「エルトクラインでそういうの聞いたこと無いですし」
「何してんのこの異世界」
宇宙という概念がないのは、翼にとって衝撃でしか無かった。
「それはもう、人類と魔族の存亡を賭けた血と汗の戦いです!」
「しょうもな」
「えぇ……全否定じゃないですか」
「そりゃまあ、戦争がロケットの生みの親だって頭ではわかってるけど、宇宙のロマンと釣り合うものではないだろ」
「ふーん、そこまで言うんですか」
「言うだろ普通」
そこで一旦会話が途切れる。もはや異世界の情勢などどうでも良くなってきた。
「じゃあ、やれば良いじゃないですかなればいいじゃないですか。エルトクライン初の宇宙飛行士とかに」
マリーが吐き捨てるように言った。その言葉は翼はゆっくりと飲み込んだ。
「……出来るの? 本当」
「知りませーん、わたしの管轄じゃありませーん」
「何それ」
「だって前例無いですしそのウチュウ行けなくて困ってる人もいないですし。わたしにはどうでも良いでーす」
深呼吸をして、冷静になる。翼の脳裏を過ったのは、数々の現実的な問題だった。宇宙開発を個人で始めるなんてものは、偉業を通り越して無謀でしか無い。
だが、それがどうしたっていうのか。むしろこれから先、他にやるべき事があるのだろうか。
「……ああそうかい、わかったよ」
無茶なのは理解している。不可能なのは百も承知だ。
それでも宇宙を目指すという事は、いつだってそういう事なのだ。
「なってやるよ……異世界初の、宇宙飛行士に!」
翼はいつか目指す場所に向けて、拳を高く天に掲げる。
その場にいたマリーだけが、小さくその手を叩いてくれた。