だから彼女は月を見上げる⑧
「この辺でいいかな」
目的の場所までついたツバサは、一仕事終えたと言わんばかりに息を細く長く漏らした。リーエルの被っていたフードを、ゆっくりと上げるツバサ。
「あ……」
光が、彼女の目に届く。
高度二千メートル。場所はリーエルの屋敷の上に違いないが、そこから広がる景色はベランダからのものとは別世界と言ってよかった。
どこまでも続く青空の下、世界が目下に広がっていく。映る景色は正反対なのに、どこか鏡合わせのような世界。草原と山と川と都市が、少し傾きかけた太陽に照らされて陰影を生み出していく。
見知ったようで見知らぬ景色に、リーエルはようやく言葉を漏らした。
「綺麗ね」
「だろ?」
子供みたいに笑うツバサに、リーエルもつられてしまう。ただ美しかった。美しい景色という言葉では、確かに表現できないくらいに。
「もっと高かったら、もっと綺麗だと思うんだ」
ただ、あっけらかんとそんな事を言うツバサに呆れてしまったのも事実だった。何せ昨日みたいに輝いた目で、そんな事を言うのだから。
「もしかしてそれだけ?」
え、なんて間抜けな言葉を飲み込み、ツバサは少し考える。そして、やっぱり笑った。
「案外そうかも。色んな物を抜きにしたら、結構単純だったよ」
子供の頃、彼は宇宙飛行士に憧れた。宇宙服に、ロケットに、スペースシャトルに憧れた。切っ掛けはどこか思い出せない。本とかテレビとか、そういう物で知ったのだろう。だけど、それは手段でしか無い。目的も答えも、もっと単純な物でしか無い。
彼はただ、その目で宇宙が見たいだけだった。
「月、この時間でも見えるのね」
青空に白く浮かぶ月を指差し、リーエルがそんな事を言う。
「ねぇツバサ……月の欠片ってどんなものかしら」
ふと、そんな事を口走ってしまうリーエル。さっきトーリス相手に吹っ掛けた無理難題の内容を、ここに来て聞きたくなってしまった。
「んー……表面にあるのは砂みたいな奴ばっかだけど」
「あなた、女心がとことんわからないのね」
思わずため息を漏らすリーエル。そういう答えを聞きたいんじゃないのだと言いたくなったがやめた。
「それについてはわかってるよ」
「で、その砂をどうやっても取りに行く訳? あの爆発した花瓶と関係あるの?」
「あれの何百倍も大きいものを作るんだ。例えばほら、あそこに川があるだろ? あの辺とか平らで丁度良さそうだな……そこにでっかい発射台作って、ドーンって」
ちょうどリーエルの屋敷から近くにある、大きな川の辺りを指差す。水源は発射台にとって重要な要素であり、平らで有ることは同じぐらい重要だ。ちょうど森も近く、木材が簡単に採れそうなのがいい。
「なんだか随分とお金のかかりそうな話ね」
「ああ、俺の手持ちじゃほとんど足りない。ついでに人手もないし土地もないし……」
「ふーん」
ここに来て、ようやく彼の弱点を見つけたような気になったリーエルは、少しだけ得意げになった。そして気がつけば、単なる思いつきを口走っていた。
「あなたがさっき指差した場所、貸してあげようか? どうせ使い道もないし」
「いいのか!? いやでも金もないし子供騙してるみたいだし……」
頭を抱えてブツブツと独り言を始める彼を見て、この人の精神年齢は本当に自分ぐらいなのではないかとリーエルは疑ってしまう。それからクスクスと小さく笑ってから、もう一度彼と目を合わせる。
「あのね、取引がしたいのよ私は。あなたはあそこで月を目指す。そして無事に月に着いたら」
それから、夢物語を口にした。
「お土産に月の欠片を持ってくる事。うーんと綺麗なやつをね」
あの成金が面食らった、常識外れの夢の願いを。
「ああ、それなら」
その答えを、リーエルはもう知っていた。星のような目を持った旅人の答えは、聞かなくたってわかっている。
「お安い御用さ」
けれどその短い答えは、何よりも心強かった。
結論から言って、リーエルの婚約はご破産となった。彼女が吹っ掛けた要求があまりのも法外だったことだったが、その主な原因はサンシャインレディの八面六臂の大活躍である。とにかく暴れた。別に強いわけでもないサンシャインレディだったが、とにかく目が見えないまま掴んだものをその辺に放り投げて奇声を上げるというおよそ天誅を食らうべき行為を繰り返した結果だった。
――後日指名手配されることを、彼女はまだ当然知らない。
「じゃあカールさん、リーエル。また戻って来ますので」
所変わって夕方、二度目の別れの挨拶をする四人。好意に甘えて泊まっても良かったが、次の街まで二時間程度で到着すると知ったので、そうすることにしておいたのだ。
「まったねー」
笑顔で手をふるマリー、もうされこうべのような薄暗さは消えたカールに、なぜか頬をふくらませるリーエル。
「ええ、お待ちしております」
「いい、二人とも? ちゃんと私に月の欠片を持ってくるんだからねっ」
「わかってるって」
「さりげなくわたしもカウントされてる……!?」
その言葉について、誰も何も言わない。この場にいる四分の三がそう思っていたからだ。
「それよりリーエルちゃん、明るくなった?」
「別に、そんなことありません!」
拗ねるリーエル、笑う三人。それから二人は屋敷を後にし、街への道を歩き始める。
「で、月の欠片って?」
屋敷が遠くなった後、マリーがツバサに尋ねている。
「リーエルが欲しいんだとさ。ま、土地貸してもらうしそれぐらいはね」
「それ聞いたら、なんか頑張ろうって気になりますね!」
「まぁ宇宙に行って帰るだけと比べると、かかる金も技術も跳ね上がるし事故も山程増えるけどな……」
単なる宇宙旅行と比較すると、月面開発はあまりにもリスクがありすぎる。ただの少女の夢を叶えるには、高すぎる掛け金だったが。
「やっぱりやめません?」
「絶対やだね」
それぐらいでなければ、あの月に届かないような気がした。
夜、ベッドに横たわるリーエルは月の欠片に想いを馳せた。ツバサは砂みたいとは言っていたが、こんな風に綺麗に輝く物の欠片がそんなものとは思えない。
それに彼がまだそこに行っていない事に思い当たる。あんなに澄ました顔をしておいて、本物を見たことは無いのだと。だからもしかしたら、正しいのは自分だと。
彼女の胸に生まれた期待は、少女らしく妄想混じりで膨らんで行く。宝石よりも綺麗だとか、絵本のようなお城があるとか、はたまたは王子様が素敵な恋を探しているとか。
ずっとそこにあったそれは、生きる希望に変わっていた。
だから彼女は、月を見上げる。




