だから彼女は月を見上げる⑥
「じゃあ、カールさん……俺達はこれで」
「短い間ですがお世話になりました」
早朝、リーリエとカールに見送られながら、ツバサとマリーは深々と頭を下げる。
「じゃあ、リーリエ」
少しだけ暗い顔をした車椅子の少女に向けて、彼は小さく手を振った。
「またな」
その心は、もう決まっていた。
晴れた青い空の下、二人はまっすぐ歩いていく。空に浮かぶ雲を見上げて、マリーは小さく呟いた。
「結局、誘拐って何だったんですかね」
「え? するよ?」
あっけらかんとした態度でツバサは答える。またねと答えた理由が、もう彼の胸にあった。
「え?」
聞き返すマリー。耳をほじくるツバサ。
「いや、あのツバサさん? また犯罪ですか? この異世界で悪逆の限りを尽くしたかったんですか?」
「誰もそんな事言ってないだろ……それに誘拐って言ったって、リーリエをちょっと連れ出すだけさ」
結局彼は、カールの誘いに乗る事にした。同情と憐憫と負い目を混ぜた感情が彼をそうさせた。
「よりにもよって足の不自由な幼女誘拐とか……流石にやっていいことと悪いことが」
「とりあえず少しぐらい説明させてくれないかな」
「そういうのもっと早くしませんか?」
「だってお前晩飯食い終わったら部屋で寝てただろ」
「それはその……それなので」
「だったら俺の犯罪も棚に上げて、素直に聞く耳持ってくれ」
というわけで彼は昨日聞いていた、ロズベック家の事情を語った。
「ひどい、ひどすぎます! これはもう犯罪というより正義です! あ、わたし子供の頃は正義の味方になりたかったんですよ! 下着泥棒じゃなくて!」
空中を殴りながら、マリーは鼻息を荒くして答える。その勢いに押されたツバサは、思わず咳払いをしていた。
「子供の頃から下着泥棒になりたかった奴は見たこと無いけど、流石にそこまでやる気出すとは思わなかった」
「むしろ冷めてませんツバサさん? 幼女趣味の成金に鉄槌を下すチャンスですよ?」
「んー……」
頭を掻いて彼は思う。最後まで残ったしこりの正体には、疑問という名前が付いていた。
「いいのかなって、これで」
「何がですか?」
「俺達がさらって時間稼いで、カールさんが決めた通りになってさ。結局リーリエの人生って、自分で決められないんじゃないかって」
彼は今日まで、自分の人生を歩んできた。だからこそ誰かの自由を奪うやり方に賛同できないところがあった。例えそれがマリーの語る正義の御旗だとしても。
「なんだツバサさん、そんなことですか」
けれどマリーは笑っている。たった一つの最適解を、彼女はもう知っていた。
「そんなことかぁ?」
「いいですかツバサさん、女心と秋の空は」
人を変えるなんて事は、おいそれと出来なくても。
「とっても変わりやすいんですよ」
人は変わる。望むのならば、いつだって。
「いやぁ、お美しい方とは聞いていましたがまさかこれ程とは……」
リーリエの目の前にいる青年は、至って普通の男だった。年若く柔らかい笑顔を浮かべ、彼女の瞳をじっと見つめる。成金が成金らしい服装をしていないことなど、少し考えれば分かることだ。ロズベック家との婚姻で手に入れたいのは貴族としての格であり、自ら評判を咎めるようなことはしない。
「それに、この紅茶も……とっても美味しいです」
カールに微笑みかける彼の名は、トーリスといった。彼自身が何かを成し遂げたわけではない、一代で財を築き上げたのは彼の父だ。その息子である彼は至って普通、金持ち特有の無意識の傲慢さがあるものの、例えば黄金の指輪を両手にはめた小太りの中年と比べれば随分と普通の男である。出された飲み物を褒める程度の礼儀をわきまえ、それでいてリーリエと結婚することに何一つ疑問を抱かない不遜さを持った男。
それから彼は、自分と結婚することがいかに幸せな事かを語った。自分がいかに夫として魅力のある人間だと。多くの使用人に囲まれ、何一つ不自由しない生活を送れると。
望むものがあるのなら、全てを与えて見せると。
失言だった。リーリエが望むものなど、たったの二つしか有りはしない。
両親と、動く足。事故に奪われた全てだけが、彼女の欲しい物だった。
彼女はもう一度、トーリスの目を見つめる。普通の目だ。カールのように悲しみに伏せた目でも無ければ、あの旅人のように輝いた目ではない。
――そういえば彼は何を言いかけたのだろうか。月を目指した旅人の目は、なぜ輝いていたのだろうか。
「でしたら」
その答えが何故か、自分で決めた人生の分岐点のその場所で無性に聞きたくなったから。
「でしたら私、月の欠片を所望しますわ」
頬を緩ませ言葉を紡ぐ。その目にほんの少しだけ、光り輝く答えを持って。
年相応の、夢物語を口にした。




