だから彼女は月を見上げる⑤
「すいませんカールさん、屋敷を壊してしまって……」
まさか本当に芋の皮を剥かされるとは思わなかったツバサは、小さなナイフで延々と野菜の皮を剥きながらカールに小さく謝罪した。
「いえ、いいのですそれぐらい。蓄えが無いわけではありませんから」
本来腹をたてるべき老執事は、笑顔でそう答えた。だがその心中は同じ答えを出したリーエルとは全く違うものだった。
「ただそれよりも、お嬢様がそれを気にしない方が問題なのです」
「……足が動かないことと関係が?」
「誘拐していただきたい理由も、です」
下処理をした鳥一羽をレンガのオーブンへと入れると、カールは咳払いをした。それからまっすぐとツバサの目を見て、少しだけ表情を曇らせた。それだけでこれから聞く話は、愉快なものでは無いとツバサでさえ理解できた。
「順を追ってお話しましょう」
ロズベック家は、貴族として名君として歴史に名を残す程ではなかったにせよ、その優れた人格と手腕は世間から高い評価を受けていた。貴族という立場に驕ることなく、領民の話に深く耳を傾け、誰に対しても公平だった。そんな夫婦の元に生まれた一人娘こそが、リーエルであった。愛情深い両親と優しい使用人に囲まれ、彼女はこの美しかった屋敷で花のように育てられた。
だからこそだろうか、予定調和のように訪れた不幸がこの家を襲った。夫婦とリーエルが乗った馬車が雨で滑落し、二人は帰らぬ人となった。そして彼女の足は二度と動かなくなり、生涯車椅子で生きることを余儀なくされた。
「不幸なのは承知しております、同情もされてきました。ですが一番の問題は、お嬢様が塞ぎ込んでしまったことです」
当主となった彼女が初めに行ったことは、使用人たちの解雇だった。食事は質素になり、屋敷は荒れはじめ手入れは行き届かなくなった。それが彼女の望みだった。両親との思い出が溢れているこの場所が、ただ辛いだけの場所へと変わった。ゆっくりと朽ちていくことだけに薄暗い安堵を覚えていた。
「それでも私は、彼女が前向きに行きていくことを願っておりました。少しずつ心の傷を癒やしていけば、またかつてのようなお嬢様に戻っていただけると、そう信じていたのですが……」
だがその唯一の望みを、彼女自身が断ってしまった。自殺ではない、もっと別の形で。
「婚約してしまったのですよ。同情と憐憫に溢れた手紙の中から、ロズベック家の地位を狙った成金に」
天涯孤独となった貴族の一人娘となれば、その跡目を狙うものは山のように居た。その中でも最低な男を彼女は自ら選び取り、最悪な約束を果たしてしまった。
「いやでも……まだ子供じゃ」
「説得はしましたが、考えが変わることはございませんでした。そしてお嬢様は子供である前に、ロズベック家当主なのです。その決定に口を挟むなど一使用人の私には到底無理な事ですから」
保護者の居なくなった彼女に、不釣り合いな権力。その姿を変えた自殺を止められる人間など、彼女の周りにいはしない。
「……その、なんというか事情はわかりました。カールさんはリーエルの無茶な結婚を、どうしてもやめさせたいと」
「亡くなったお二人にも顔向けできませんから」
「それで、誘拐ってのがつながらないんですが……」
「少しの間、時間稼ぎをしていただければ構わないのです。正式な婚約までは行われていませんから……その間に私の方で先方と話をつける予定です」
ツバサは状況を整理する。事故で閉ざされた彼女の将来を、これ以上閉ざさないために誘拐して時間を稼いで欲しいという事だ。ここに滞在している間に受けた歓待を考えれば、それは当然の宿代のようにさえ思えてしまう。
「ちなみに、誘拐っていつ行うんですか?」
「明日」
「え?」
思わずツバサは聞き返す。
「明日先方がいらっしゃいますので、その間誘拐していただければと」
「なるほど」
ツバサは小さく息を吐き出し、いつの間にか止まっていた野菜の皮を剥き直す。
「明日かぁ……」
誰に答えるわけでもなく、ツバサは一人呟いた。




