夢と出会った日
――空を見上げるのが好きだった。
「最後に……言い残す事はあるか」
仰向けの彼女が見上げるのは、突き付けられた勇者の剣。彼女は敗北した。死力を尽くしてなお人類に敗北した。
天井に向け、彼女はゆっくりと手を伸ばす。瓦礫から漏れる月明かりが、彼女の頬を白く染める。それでも視界はもう、血で赤く濁っている。
「最後、か」
自問する。いつからだろうか、空を見上げるのを辞めたのは、これでいいと諦めたのは。後悔する暇もなく、流れる血筋のまま進んで来た。それが自分の運命だと信じていた。魔族を統べる王として、その玉座につく事が。
彼女に後悔などはない。奪い奪われる事こそ、この世界の理だ。永遠に続く人と魔物の争いこそが、互いの存在意義だった。
――けれど、彼女は願ってしまう。在りし日の少女のように、絵本を抱いた夜のように。
「月に行って……みたかったかな」
死期を悟り、彼女は微笑む。百年ぶりに彼女は、自分の言葉を語れたような気がした。
「ふざけるな!」
だが、勇者は激怒した。
「お前のせいで何人死んだ! どれだけ殺した、どれだけ奪った!」
事実だった。魔王の名の下、人も魔族も縊り殺した。強い物が統べる世界の為、彼女はその覇道を歩んだ。
「死ぬ前に良い奴になろうだなんて都合の良い事を……僕は絶対に許さない」
返す言葉も無く、許されるつもりも無かった。だから彼女は目を閉じる。その剣が振り下ろされ、首が切れる時を待った。
だが、剣は下りて来ない。彼女の耳に届いたのは、剣戟のような金属音だ。
「な、お前はどこまでも!」
ゆっくりと目を開ける。一人の異様な男が、魔王と勇者の宿命に土足で割り込んでいた。
「悪いな、こいつに俺は用がある……!」
一瞬だった。男が手に持っていた鉄の工具でその剣を弾く。隙をついて後ろに回り込み、軽く頭を叩いてみせた。あれ程激昂していた勇者は、糸の切れた人形のようにその場に倒れ込んでしまった。
「で、あんたが魔王か。もっと禍々しいと思ってたけど」
「なんだお前は……人間か?」
彼女の質問に、男は黙って頷いた。勇者の仲間かと訝しんだが、それが一番有り得ない事は今しがた目にしたばかりである。
「なら、何の用だ人間。私を倒して名誉が欲しいのか? それともこちら側について人類に復讐でもしたいのか」
「ここに来る人ってそんな物騒な用事しかないのか?」
彼の当然過ぎる質問に、彼女、八代目魔王アリアメント・ゼルミール・ノヴァは苦笑しながら頷いた。
「まぁそうだよな……あ、自己紹介がまだだったな。俺の名前はツバサ・ヴィーゼル。細かい事はまあ、そのうち説明するとして」
彼は、傷だらけの彼女に手を差し伸べて。
「俺と一緒に……月に行こうぜ!」
何一つ迷いの無い笑顔で、そんな言葉を口にする。
彼女は笑う。その言葉の馬鹿馬鹿しさに。
「……冗談だろう?」
思わず口にする。そんな事を言い出す人間が、この世の中にいるとは思わなかったからだ。だが男は揺るがない。その目は何一つ曇り無く、彼女をただ見つめていた。
だから彼女は、黙ってその手を握り返す。
その日魔王は、夢と出会った。