戦いの恐怖
帰還した俺は、昨日と同じ小さな小部屋にリュックを抱えて立って居た。
【おかえりなさい】
【アンケートにお答えいただくと次回以降ご利用できるクーポンを差し上げます】
そう画面に記されたタブレット。
手に取り、椅子に座りる。
時刻は、15時過ぎ。
リュックからペットボトルを取りだし一口飲んだ。
◆
【問1:どのような場所でしたか?】
階段
【問2:そこであなたは何をしましたか?】
散歩
【問3:他に誰かいましたか?】
いない
【問4:また利用したいと思いますか?】
はい
【問5:他になにか気になることはありましたか?】
特になし
【ご協力ありがとうございました。
ご利用が無料になるクーポンをプレゼントいたします。
アプリより取得して下さい。
ご協力ありがとうございました。
またのご利用を心よりお待ちしております】
◆
また、次回無料。
儲ける気は無いのだろうか。
いや、何らかのテストなのかも知れない。
アンケートに答えながらリュックからおにぎりを取り出し口にする。
そして、さっきの戦いを考える。
俺のあちらの体は……設定通りと思われる。
では、術が使えないのは……それも、設定通りか。
両目は生まれつきの肉体的特徴。
しかし、術は覚えねば使えない。
裏神道の術は、それに見合う実力を得て初めて発現可能になる。そんな設定だった筈。
つまり……強くなれば使えるのか?
あの霊を倒した時の力が流れ込む感覚。
あれか。
「なら、試そう」
一度出口から出て、再び入り口へ。
今しがた手に入れたばかりのクーポンを早速使う。
◆
三度訪れた異世界。
今までと違い、体育館程の広さのある部屋。
その中心部に既に石碑が鎮座している。
そして、俺とその石碑の間に、俺に背を向ける……人型の何か。
茶褐色の肌に粗末な腰巻き。
その向こうに……人の足の様な物。
俺の気配に気付き、振り返るその魔物は豚の様に突き出た鼻、そして、下顎から上に伸びる二本の牙。
その口は真っ赤に汚れて居た。
オーク……?
しかし、ゲームなどで見る豚の魔物とは違い、その体は瘦せ細り骨が浮き出て居る。
その魔物が、いきなり俺に襲い掛かってくる。
傍に置いた棍棒を手にして。
「ひっ」
血走った目と、何より豚の勢いに気圧され後ずさる。
ナイフで応戦を。
しかし、俺が考え動くより先に棍棒が振り下ろされる。
咄嗟に左腕で頭を庇う。
その左腕に、棍棒がめり込み、弾みで吹き飛ばされる。
左手で持って居た四本の爪を落としてしまう。
慌てて右手に持った爪のナイフを豚に向ける。
その時、俺を支配して居た感情は恐怖だった。
痛い。
殴られた所が。
左手に力が入らない。
豚はあいも変わらず棍棒を振り回す。
それを逃げる様に避ける。
怖い。
何でこんな事に?
殺される。
豚の目を見てそう思った。
ナイフを突き出すが、かするどころか届きもしない。
豚は怯みもしない。
ナイフで牽制しながら後ろに下がる。
豚の振り回す棍棒が、空を切りブンと大きな音を立てる。
頭に受けたらどうなるだろうか。
尚も迫る豚にナイフを突き出す。
自分でもわかるくらいに腰が引けて居る。
迫る豚。
下がる俺。
何か、何か手はないか?
ナイフを振り回しながら、必死に辺りを見回す。
床には落ちたナイフが四本。
そして……横たわる……人。
その頭は半壊して居て、体は所々肉がえぐり取られて居た。
まるで何かに齧られた様に。
……目の前の豚を再び見る。
あの口の周りの赤は……血?
喰われる……?
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
俺は半狂乱になりナイフを思いっきり振り回した。
その右手に合わせる様に振られた棍棒が直撃する。
手が弾かれ、ナイフが乾いた音を立てて床に落ちる。
豚の顔が勝ち誇った様に歪む。
……死にたくない。
振られた棍棒を左手で受け、前に。
こいつと向き合い、初めて前に出れた。
叫び声で痛みを振り切り、豚の腰に手を回す。
体を捻り、豚を投げ飛ばす。
綺麗な投げ技、とは行かずそのまま体勢を崩して豚もろとも床に転がる。必死に手を離さずに食らいつく。豚の上にのしかかり体重をかける。
馬乗りになって、そして、暴れる豚を押さえ込む。
そのまま、両手で、首を締めた。
激しく暴れ、俺の腕に爪を立てる豚。
それでも、必死で腕に手に指に力を込め体重を乗せる。
離れたら俺が殺される。
やがて、豚は泡を吹きながら脱力した。
こと切れた……その瞬間、俺の体が少し軽くなり、全身の痛みが少し和らぐ。
息を整えながら立ち上がり、豚の死体から離れる。
勝ったと言う喜びは無かった。
散乱した爪を拾い上げ、転がる人の死体を確認に行く。
中年の男だろう。
だらしなく張り出た腹。俺と同じ粗末な下着。
頭は半分潰れ、太腿は喰われ白い骨が覗いている。
食べやすい所を探したのか腕や腹も喰われた跡がある。
吐き気がした。
吐いても食べたおにぎりは出てこなかった。
胃液だけ。
つまり、体内であろうとあちらの物は一切持ち込めない。
石碑の脇に腰を下ろしながらそんな事を考える。
どれくらい放心して居たのだろうか。
殺した。
魔物を。
この手で。
咄嗟に動いた体は……昔習っていた合気道。
でも、その時よりはっきりと相手が見えて体が動いた。
結果、俺は生き、豚は死んだ。
それが出来ず、誰かは豚の餌になった。
弱肉強食。
そう言う世界か。
やがて、豚の死体に変化が現れる。
ゆっくりと砂の様に崩れ出し、そして、床の中へと溶けて行った。
俺はそれを座ったまま遠巻きに眺めて居た。
方や人の死体には、変化は無く。
ややあって、また空間に変化が現れる。
床が盛り上がり、何かが這い出てくる。
泥人形の様なそれは、徐々に輪郭を表し、そして豚の化け物へと変化した。
そいつが俺を見つけ威嚇の声を上げる。
俺は左手を伸ばし石碑に触れ、その世界を後にした。
あの誰ともわからぬ死体は再び豚の餌となるのだろうか。
しかし、現実へと帰還した俺には既に関わりの無い事だ。
アンケートを促すタブレットを無視して俺は帰路に就いた。
◆
ノートにシャーペンを走らせる手を止め、小休止。麦茶を取りにキッチンへ。
珍しく朝から机に向かって居た。
これが俺の日常。
そう。
俺はただの高校生で、その本分は学業。
この行為が俺の精神をまだ正常の範囲に押し留めていると、そう思った。
あの豚は、魔物で有りながら、死ぬ間際に涙を流した。
だが、立場が違えば俺が死んでいたのだ。
そこに、悔いや後悔は無い。
そんな風にあの世界に染まりかけた自分をリセットして、日常へと引き戻す。
机に向かう事はそう言う事だと、そう思えた。
まあ、もうあちらに行くことも無いかもしれないが。
麦茶を片手にリビングのテレビをつける。
サービス開始から丸一日経て、『G play』の問題が明るみになった。
昨日までで『G play』へ行ったと思われる人数が、およそ五千人強。
その二割弱。
千人近くが行方不明なのだと言う。
ワイドショーはその事態を面白おかしく伝える。
生還したと言う若者がインタビューに答えていた。「魔物と戦い倒しまくって来た」と。あるいは「何も無い所をひたすら歩いた」と言うインタビューもあった。
ネットもその話題で持ち切り。
俺はテレビを消し、再び机へ向かう。
その日の夕方、G社は『G play』の一時休止を発表する。
鈴木さんのLINEは既読にならないままだった。