初夏⑨
眠い……。
窓際の自席でこみ上げる欠伸を噛み殺す。
始発で帰り、小一時間母に小言を言われそのまま登校。
流石に暴れすぎたな。
そう思いながら左手の甲に目を落とす。
そこに、刺青は無い。
朝の予鈴が鳴るギリギリで、夏実が教室に入って来る。
一瞬、目が合う。
俺は、直ぐに窓の外へと視線を戻す。
妙に、気恥ずかしかった。
だが、わずかに見えた顔の化粧は何時もより薄く、代わりに目は真っ赤だった。
母が弁当を作らなかったので外へ買いに行く。
ついでに一つ連絡を入れ。
そうやって、普段と変わりなく一日過ぎて行く。
過酷な睡魔との戦いは、なんとか乗り切った。
そして放課後。
どう事を運ぼうか考えながら鞄に荷物を詰め込む俺の席に夏実が現れる。
「……ねえ。LINE教えて」
「お、おう」
慌ててアプリを立ち上げたどたどしい手つきでQRコードを画面に出す。
「ありがと」
素っ気なくそれだけ言って彼女は去って行った。
◆
小田急線に揺られながら眠るつもりだった。
しかし、睡魔は襲い来るがそれ以上に考える事が多く。
よくわからない夏実の態度。
そして、更によくわからない事実に気付いたイツキの事。
あのイツキを守れたとして、こちらで再会する約束をしたとしても、それは果たされなかったのかも知れない。
俺達は帰る時間が違った筈だから。
いや、世界と言うべきか。
うーん。
今更ながら謎が多い。
異世界。
しかし、まあ、いずれそれも解明されるだろう。
それまで不幸な犠牲者は……減らすべきだろう。
「それは随分と殊勝な考えね」
「いたって普通だと思うけど?」
「そうかしら」
レアーの会議室で向かいに座るハナは俺に冷めた視線を向ける。
「で、結論は?」
「交渉のテーブルにはつくそうよ」
「ありがとうございます」
「まだ何も決まって無い。
要求は聞いた物で良いのね?」
「ええ。
G playに対する詐欺紛いの誘惑の禁止」
「対価は?」
「恐らくはアメリカ軍人の目撃情報。
もちろん向こうでの」
俺はレアーに対して取り引きを持ち掛けた。
報告を上げてない情報。
それと引き換えに、他人の命で小銭を稼ぐ連中の取り締まり。
G社が営業妨害だと、そう一言言えば多少は牽制になる筈だ。
ハナはノートPCのキーボードを叩き何かを打ち込む。
誰かとチャットなどで繋がっているのだろう。
「もう少し具体的に」
「トーマス・ブラウン。
3月31日に死んでいる筈」
ハナは画面に目を落とす。
「……そうね」
「向こうで殺された」
俺はゆっくりとそう告げる。
何で報告しなかったと言うようにハナが俺を睨む。
「詳細を。
内容次第では要求を本社で検討するそうよ」
「レポートはここで仕上げる」
俺は大学ノートに書かれた当時の記憶をレアーのノートPCへと打ち込んで行く。
そして、ハナ宛に送信。
ハナがそれを確認する間に春休みに入ってすぐの頃に買ったタブレットを取り出し起動させる。
G社のライバル企業の物。
ハナも親父もG社の物なら割引が効いたのにと言ったが、ちょっとした意地だ。
「THOMAS BROWN。間違いない?」
「ええ」
蟻の巣の様な洞窟で殺された欧米人。
彼が身につけていた木片のネームプレートに彫られていた名前。
「相手の国籍は?」
「さあ? 中国か韓国か。それとも、東南アジアのどこかか」
言葉は殆ど発していなかったし、仮に喋っていても何処の国の言葉か理解出来なかっただろう。
「風貌は?」
「ここに似顔絵が」
タブレットにそれを表示して見せる。
特長の薄い男だったが、鋭い目だけはやたらと印象に残っている。
それは、上手く似顔絵にも表せていると思う。
「それで良い。それも提出して」
「送りました」
「確認した。
……返事は期待して良いそうよ」
「わかりました」
現実の俺には何の力も無い。
それでも、何とか考え出来得る限りはやった。
それでも連中が野放しになるなら仕方ない。
今は。
「誰に吹き込まれたか知らないけど、こう言うやり方は敵を増やすわよ」
ノートPCを閉じ、ハナは俺を射抜く様に見据えながら言う。
敵が増える、か。
何を勘違いしてるのか知らないがお前らも俺の敵である事には変わらないからな。
百歩譲っても味方では無い。
俺の命なんか真っ先に切り捨てるだろ?
何せ実験体なのだから。
「ルールはそれを運営する人間によって如何様にも変えられる。
ハナさんが言ったんですよ」
話は終わり。
後は彼らの判断を待とう。
どう言うルールを定めるのか定めないのか。
俺はタブレットを鞄に仕舞い立ち上がる。
「今日も下によって帰るの?」
「いえ。
このまま帰ります。
今月のノルマはクリアしたので」
「え?」
当然の様に答えた俺にハナがわざとらしく眉を上げ目を丸くする。
「まだよね?」
「いえ。この土日で50時間は超えてます」
「まだノルマ達成してないじゃない」
「……は?」
「今月から60時間。
新しい契約書に書いてあるでしょ?
ちゃんと読んだ?」
……見落としたかも知れない。
……いや、しかし、それ勝手に変えて良いルールなのか?
「……今日は、帰って寝る」
「送って行こうか?」
「……結構です」
なんか、どっと疲れた。