最愛の兄
…………。
ヘッドマウントディスプレイを外し、身を起こす。
カーテンが開いていたのか、窓から僅かに月明かりが差し込んでいた。
……泣いていた?
頬に感じる違和感。
――響子さんに、よろしくお伝えください。
――それから、約束守れなくてごめんなさい…………と。
そう、口にしていた。
涙を流しながら。
全てを悟った様な顔をした男性プレイヤーの胸にこの顔を埋め。
ロールプレイが……過ぎた。
現実へ戻った私は……そう、自分の行動を振り返り思う。
『GAIA』。
友人から口伝てに聞いたゲーム。
いつしか私はその世界に、ゲーム以上の…………。
違う。
私は、御楯風果で無く、神楽風果。
御楯頼知なんて人は、ゲームのロールプレイ上のキャラなのです。
…………なのに、どうしてこんなにも切ないのだろう。
◆
『GAIA』。
そう言う名の非公式なゲームを紹介されたのは生徒会の後輩からでした。
ひょっとしたら、男性恐怖症も克服出来るかもしれませんよ、なんて軽く言われたのだけれど。
曰く、別世界の自分に会うことが出来る。
そんな訳は無い。そう言う至極真っ当で冷静な私。
でも、その私に待ったをかけるような仄かな違和感。
それは、なんと言って良いかわからないのだけれど、それでも、言葉にするならば、まるで私で無い私の囁き。
――『御前が生きる意味は只一つ。器の蓋。重石となる事が卑しくも御天の末席に居る御前の役割』
その声に従い、私は取り返しの出来ない事をした。
幾度と無く、互いの虚無を埋める様に寄り添い、だけれど決してそれが叶わなかった兄妹。
そんな、記憶……違う、それは多分私が生み出した妄想。
私には……そんな兄は居ないのだから。
◆
あのゲームは、あれで終わりなのだと思う。
八岐大蛇を倒し、その先へと向かって行った二人。
それが、エンディング。
もう一度、ログインすれば今度は違う世界が私を迎え入れるだろう。
だけれど、その世界は要らない。
私の物語は終止符が打たれた。アンコールは無い。要らない。もう、私と兄の物語は途切れたのだから。
朝日の差し込む部屋の中で、ベッドの上で私は二度と『GAIA』へ向かわない事を決めた。
◆
それから、数ヶ月。
日々は何事も無かった様に進んでいた。
変わらない日常。
男の人は、相変わらず苦手。
そんな私を知ってか知らずか、学内では『高嶺の百合の花』なんて囁かれていた……。
何時もの様に満員の電車での通学。
「……!」
この体に触れる他人の肉体。
それに意思を感じた。
怖いほどの……悪意。
私のお尻にその触れる手は…………決して満員の電車の中で……偶然にそこに在った訳で無い。
それが一瞬でわかった。
それを理解した瞬間に、私の体はピクリとも動かせ無くなった。
……怖い! イヤ!! 止めて!!!!
心の奥の叫びを上げたいのだけれど、固まりきった私の体は何も出来ず。
そんな私の体を弄る様に誰かの手は動き続ける。
……何も言えなかった。
ただ、恐怖だけが在った。
吊革を精一杯に握る。
私は……それしか出来なかった。
「痴漢でっす!!」
「おっさん! 俺の妹に何してんの?」
誰かが、そう声を上げたのを私はどこか他人事の様に聞いていた。
それを言ったのが、私の直ぐ前に前に居る女の人で、それをきっかけに私に触れていた手が離れて行った事に全く気付かなかった。
程なくして電車は駅へ滑り込み、私は誰かに肩を抱えられたまま途中下車をしていた。
◆
何本電車が通り過ぎて行っただろう。
駅のホームのベンチで長い間座り込んでいた私。
そして、その横で無言で……私を慰める様に、守る様に一緒に居てくれた二人。
「……ありがとう……ございました」
私を助けてくれた二人。
だけれど二人共、制服姿。
あまり迷惑を掛ける訳にはいかない。
立ち上がり、見知らぬ恩人達に礼を言う。
「良いの良いの。
無理しない。無理しない」
「もう、大丈夫…………です」
何が大丈夫なのか。
でも、そうでも言わなければ二人はずっと私の横に居るだろうし、そこまで迷惑を掛ける訳にもいかない。
「ほら、ヨッチも、迷惑掛けたんだからちゃんと謝らないと」
「え、俺、何かしたっけ?」
「ヨッチ。そんな風にしらばっくれるのは良く無いぞ?」
「え?」
「この子は野郎の霰も無い暴力によって右も左もない程に傷付いているのだよ。
だからこそ世の男子を代表して君が誠心誠意謝るべきでしょう?」
「いや、その理屈はおかしい。
だけれど……糞野郎の代わりに謝る事で少しでもマシになるなら…………ごめんなさい」
腑に落ちない。
そう言う表情をしながら男の子の方が頭を下げた。
その人が頭を下げる理由も無ければ、それで何が変わるとも思えなかった。
だけれど、とても気まずそうに、とても申し訳なさそうにその男の人が顔を上げ……何故だかわからないけれど私は少し救われた気がした。
「あ、笑った!」
「マキちゃん。そう言うとこだよ?」
「どう言うとこよ?」
それが、私と風巻凛子さんと、上野頼知さんとのかけがえのない出会いだった。




