氷上の軍人⑦
船の医務室に二人。
点滴と輸血の管が繋がったムサシは未だ目覚めず。
ベッカムは甲板で一人警戒に当たっている。カーステレオを聞きながら。
窓の外で真っ赤だった空が暗く変わり行く。
それを眺めながら昔を思い出していた。
◇
「お帰り」
玄関前で御槌四葉が腕組みをして仁王立ちしていた。
「ただいま帰りました」
黙って出かけ、帰りが夜になったのを怒っているのだろう。
俺を見下ろす彼女の顔は険しい。
「あの猫、死んだのね?」
「はい。風果には」
「言わない。
けど、そのまま家に入れば気付かれるぞ?」
「え?」
どう言う事だ?
土を掘った手が汚れているから?
「後ろ。
その猫が取り憑いる」
「え?」
振り返るが、そこに暗闇しか無い。
「怨念で物の怪になりかけてる。
本当に気付かないのか?」
言われ、それを探し、微かに重く暗い気配を探り当てる。
「……禍津日が内に居る所為で、感覚が鈍ってる。
よろしく無いな」
「……すいません」
「名前、何だっけ?」
「え?」
「猫の名前。
二人で付けてたでしょ?」
「こがね」
小さなチャトラの猫にそう名付けたのは風果。
「こがね。
どうだろう。私の愚かな弟子の為に少しこの世に留まって貰えないだろうか?」
師匠が静かに俺の背後に向け声をかける。
「あの、師匠?
何を言っているのですか?」
「うん。
子猫様にお前の守護霊にでもなっていただこうかと思ってな。
子猫様も風果と遊びたいと言っておられる。
良いか?」
「でも、俺の中には禍津日が」
「禍津日は封がされている。
万が一、子猫様にちょっかいを出そうとしても、それに捕まる様な事にはなるまい。
では、やるぞ」
そう言って、師匠は祝詞を上げる。
俺はそれを頭を下げ、瞑目し静かに耳を傾ける。
後から聞いた話だが、猫の霊ならばマガツヒによって狂いが生じ出した感覚を戻せるのではないかと言う目論見もあったらしい。
憑き物とは、その物が持つ性質が滲み出してくる。そう言うものだと。
◇
ベッドに横になっていたムサシが目を開け、身を起こす。
「気分は?」
俺の指には既に術が込めてある。
万が一、内のベルフェゴールが暴れる様ならば拘束を。その身を乗っ取られている様ならば……始末を。それは、俺が受け持たねばならない。
「……悪くは、ないかな。
……三途の川がさ目の前を流れてて、行こうかなて所でライチの声が聞こえたんだ。
戻って来いって」
両腕で自分を抱く様にしながら、まるで冗談の様に笑いながら語るムサシ。
その気配は人のそれ。
そして、その笑顔は……やはり知っているそれに重なった。
「ベルフェゴールはムサシの中に封じた」
「え?」
窓の外へ目を転じながら伝える。
「それしか手が無かった」
「へー、でも何も変わらないけどなぁ」
両腕を抱えながら体を捻ってみせるムサシ。
「中から出てくる様な事は無いから、日常生活には影響ないと思う」
俺のように、怒りで封印がこじ開けられる事はないだろう。
俺の中に居たのは神で、ムサシの中にいるのは悪魔。そもそもの位が違う。
そして、施した封印も速秋津比売様の御力を織り込んである上に、力の大半は数珠丸の方へ残してある。
咄嗟にとは言え、器用な事が出来たと自分でも感心する出来栄え。
「戦いが終わったら数珠丸は海に沈めた方が良い」
そうすれば、海の底で速秋津比売様がその穢れを飲み込んでくれるから。
「覚えておく」
その数珠丸はベッドの脇に置かれている。
「……なあ、本当に平気か?」
さっきから、まるで自分を締め付ける様に両腕で自分を抱いたまま。
「平気。全然」
「いや、どこか痛む所があるんじゃないのか?」
例えば、刀を突き立てた胸とか。
或いは寒気がするのか?
速秋津比売の冷え性が感染ったか?
「平気」
「でも、仕草がおかしいし」
「……ブラ切れてんの」
「は?」
「ブラが切れて外れてんの!!」
ムサシが顔を真っ赤にしながら怒鳴る。
「……させん」
別に俺、悪くないけど。
◆
エプロンをしたムサシが大量の唐揚げを士官室の食堂へ運ぶ。
「また和食かよ」
それを見てベッカムが悪態を突きながら口に運ぶ。
「休んでなくて平気なのか?」
「全然!」
「さ、食べて、食べて」
「いただきます」
大皿に盛られた唐揚げを一つ箸でつまみ口に運ぶ。
「……美味い」
どこか懐かしい味がした。
「だろ?」
嬉しそうにムサシが笑う。
「ところでお前の力、一体なんだ? ありゃ」
「何だと言われても……八百万の神と森羅万象の力」
その答えに少し納得の言っていない顔のベッカム。
「ムサシのあれ、ゲニウスってのは?」
「うーん、精神的な力の発現?」
ほら。
向こうも自分達の力をよくわかってない。
『興味深いわね。
我々とは違う力を持っていて、フォボスと戦えるだけの人材』
スピーカーから男の声。
「でも、ライチにも帰る世界があるんだよね?
守る世界が」
「ん。そうだな。
ご馳走になってばっかりで悪いけど」
心配していたムサシの様子も問題なさそうなのでここに留まる理由はない。
だが、飛渡足を続けざまに使った所為か暫く使えそうにない。
「いや、腹一杯食べるに値する働きはしたよ!」
「あと車の運転が出来りゃ、ずっとここに居ても良いんだがな」
「じゃ、ついでに銃の撃ち方も教えてもらおうかな」
「そしたら料理と掃除もおしえるよ!」
「それって、つまり雑用って事だろ!?」
殺伐とした空間。
その中に一時笑い声が響く。
◆
これ以上は食えないと言うところまで食わされ、適当に充てがわれた船室のベッドで横になって休む。
瞑目し、戻るべき目印を探る。御識札、御紘の三。
……ん?
微睡みかけた俺を呼び戻す物音。
部屋のドアがノックされた様な。
ベッドから起き上がって見ると、ドアの下の隙間から差し込まれた一枚の紙。
何だ?
それを拾い上げ、しばし反応に困る。
『甲板まで来て♡』
差出人の名前は無いがムサシいやキョウコ・ミタテだろう。
どうすっかね。
何とも言えぬ気持ちになりながら、さりとて無視する事も出来ず部屋から出て甲板へ。
……誰も居ない。
満天の星空の中、吹き付ける強風。
本当なら凍えるではきかない様な寒さなのだろうな。
内なる速秋津比売様がお怒りなのが尋ねなくてもわかる。つらたん。
「ウロチョロと何を嗅ぎまわってるんだ?」
そう、背後からかけられた声に振り返る。
そこには銃を手にしたベッカム。
……。
何してんだ?
その横で、笑顔を浮かべながら口元に人差し指を立てるムサシ。
その手に大きなリュック。
「どうした?
お前の狙いは何だ?
言ってみろ!」
ベッカムが笑いをかみ殺した様な顔で言う。
銃口を天に向け。
……えっと、何だ? これ。
ムサシが無言で手招きする。
黙って近寄ると、手にしたリュックを差し出さた。
受け取ると、笑顔でウインク一つ。
「正体を現しやがったな!
フォボスめ!」
ベッカムが大声を上げ、銃を空に向け引金を引く。
それに、ムサシが続く。
「そうやって、人の中へと紛れ込もうとしたのか……。
残念だ。
本当に」
何か、三文芝居的な奴をやっているのか。
「逃げるな!
この刀、数珠丸の錆にしてやる!」
と言いながらバイバイと右手を振るムサシ。
ああ、そうか。
俺が実は敵だったと言う設定で済まそうとしているのか。
「……愚かな。
何故わからないのだ?
終焉こそが救いであると!」
そう言いながら、二人から離れ小さく頭を下げる。
「違う!
明日も朝が来る。
その尊さを知らないことが幸せなんだ。
滅びなんて、誰も望みはしない!」
「その朝こそが、苦しみの始まりであるのだ」
「お前は、寝坊助の娘を起こすその何とも言えぬ朝の有り難みを知らない。
そう言った時間があって、だからこそ苦しくとも生きていけるのさ!」
「もう良い。これ以上、語る事は無い。
どちらが正しいか。
それは、力で示せば良い!」
ムサシが、笑いをこらえながら叫ぶ。
そんな二人へ、もう一度手を振る。
――亟禱 飛渡足
戻って来た笑顔を焼き付け俺はその世界から消え失せる。
目の前には、一度見た門。
それに触れ、現実へと戻る。
◆
「ただいま」
日付が変わっても我が家には明かりが灯って居た。
「お帰り」
リビングのドアを開け出迎えるのは母。
その顔を見て、自然と言葉が溢れた。
「母さん。
いつもありがとう」
「は!?」
「……たまには」
「……お前、何か変な物でも食べた?」
「違ぇ!」
「まさか……?」
両手を前に出し、手錠をかけられるジェスチャーをするキョウコ。
「何でだよ!
息子を信じろ!」
「……いゃあ……無理だろ」
息子を何だと思ってるんだよ! お前は!




