侵食される日常
九月も半ばを過ぎ、残暑も落ち着きを見せ出した頃、俺は微かな焦燥感に駆られていた。
G Play改正法案が通れば向こうへ行くために免許が必要になる。だからその前に真壁へレポートを渡し切らなければならない。
だけれど……やはり、怖い。いざとなれば飛渡足でどこかへ飛べば良い。そう、わかっていても。あの瀬織津比売の力を顕した術によって代償が無くなっていたとしてもだ。
そんな俺の葛藤を知ってか知らずか学生生活を満喫するアナスタシヤ。KBCと、おそらくそれ以前の訓練で鍛えられた身体能力に、モデルばりのビジュアルも相まってクラス対抗の体育祭で一躍注目の的に。何でもファンクラブが出来たとか出来ないとか。流石にそれは大里の嘘だろうと思うけれど。と言うか、大里が一人で結成したような気もするけれど。
軽音部での活動も引き続き。来たる文化祭ではステージ上でMaAと言う女性シンガーの曲を披露するらしい。
そして、世間は秋のシルバーウィーク。とは言え今年は飛び石でまずは週末と敬老の日の三連休。
それを翌日に控えた金曜日。
アリスに呼ばれた俺は、近所のコンビニで待つ彼女の車へと乗り込む。
なんとなく、用件は想像できた。
最近レポートが上がっていないと真壁に言われ様子を見に来た。そんな所だろうと。
後部座席に乗り込んだ俺に、彼女はラップトップのパソコンを開き差し出す。
「デスクトップにムービーがある。見ろ」
それだけ言って、車のエンジンを掛ける。
静かに動き出した車の中で、言われたようにデスクトップに一つだけ置かれたアイコンをクリックする。
ラップトップの画面に映し出される映像。
少し、画質が悪いその映像は暗がりの住宅街の様な場所を映していた。
画面の右端にわずかに映り込む玄関とその前を横切る道路。
画面の下には日付と時間を示す白い数字。
「……何の映像?」
俺の問いに、アリスからの返事は無い。
ただ、カーステレオが聞き慣れない女性ボーカルの歌を流すのみ。
映像の左から右へと道路を歩く人影が一つ現れる。
夜中の散歩。そんな体でフラフラと歩いている。
モノクロの映像の中で、長く黒い髪が異様な存在感を放つ後ろ姿。
画面の奥へと消えゆくその人影はまるで何かに呼び止められたかのよう画面の端で立ち止まる。
それを追うように現れた人影が一つ。追いかけ走っていくのは制服姿の警察官。
少し距離を置き、立ち止まる警察官。
荒い映像からも、警戒の様子が伺える。
その奥で、黒い後ろ姿が振り返る。
それと同時に、一瞬画面が白飛びする。
そして、再び映し出された画面には尻もちを付き上を見上げる警察官。
その右手が自身の腰を弄り、取り出した何かを空へと向ける。
直後、上から現れた影がその警察官へと襲いかかる。
背に、羽根のような物を生やしたそれは、警官の手前でなにかに弾かれた様に仰け反り、一瞬動きを止める。
二度、三度、身を震わせ仰け反った後に、ゆっくりと着地をする。
そして、顔を上げ画面手前を見てニヤリと笑い、突如として消えた。
画面左から警官が走って現れた所で映像は停止する。
「……作り物……だよな?」
そう尋ねた俺の声は明らかに震えていた。
「裸で歩いている女が居るとの通報を受け、近所を警ら中の警察官一名が駆けつける。
爆発物らしき物を投げつけられ頭部及び顔に火傷。全治二ヶ月。
その際、警官は拳銃を使用し計三発の発砲を行ったが、その銃弾は発見されていない。
被疑者は依然逃走中。
翌日、捜査本部は遠方で起きていた落雷が影響した球電現象だと言う結論に至り、被疑者無しとして解散となった。
負傷した警察官は拳銃の不適切な使用で訓告処分。
これが、先月吉祥寺で起きた事件」
もう一度、最初から映像を見返す。
途中で何度も停止して、拡大して。
「何で、真実を隠す?」
「真実?」
「これは、G Playの向こうから来た」
ルームミラー越しにアリスと目が合う。
「正気?」
「そう思ってるから俺にこれを見せたんだろ?
暴食の魔人、ベルゼブブ。
それがこいつの正体」
俺の言葉にアリスが振り返る。
同時に車が横に振られ、僅かに横に重力を感じる。
自動運転安全装置が作動し、危険を知らせる電子音が車内に響く。
「ヤベッ」
慌てて前へ視線を戻すアリス。
超怖ぇ……。
「……どっか、停まらない?」
バクバクする心臓を自覚しながらそう提案する。
て言うか、停まって下さい。
◆
多摩川を渡った先でコンビニへ入る。
そこで、飲み物を買いそのまま駐車場で話の続き。
「現場付近の住宅の防犯カメラが捉えた不鮮明な映像と、当事者の曖昧な証言しかない。
知ってる? 未だ嘗て、未確認生物が被疑者に認定された事件はないのよ?
少なくともこの国には」
「つまり、正式に認める訳にはいかない……と。
でも、G社なら何かわかるだろう?」
俺の問いにアリスは首を横に振る。
「政府は自然現象と言う事にした。
規制法案成立を前に必要以上の騒ぎは誰も望んでないって事」
「……こいつは野放しで?」
「この事件以降、類似の目撃例はない」
「アリスは、それで納得してるのか?」
「んな訳ないだろ。
これはG Play絡みだ。
それ以外考えられない」
「だったら」
「だったら、何?
アンタ、探す? どうやって?
仮に見つけ出したとして、そのあとどうするの?
戦うの? どうやって?」
矢継ぎ早に問われ、俺は返す言葉がない。
「向こうならそれも出来るかもしれない。
でも、それは向こうだけの話。違う?」
「……違わない」
この世界の俺には、何の力も無い。
それは、自分が良く分かっている。わざわざ念押しされる必要もない。
「で、ベルゼブブ?
なにそれ」
「喰った物の力を取り込む怪物。
俺の目の前で、門を喰った」
そして、警官を襲った爆発。それは俺の術だろう。
「それは、門の力を手に入れたって事?」
「そうとしか考えられない」
「コイツ自身が門の力を持っている、か」
「他に無いだろう? 消えてるんだぞ?」
これが合成編集された映像でもない限り。
「私はG社の新しい実験だと思ったわ。
あの施設外での転移機能」
「……いや、それならここに映るのは普通の人間の筈だ。
羽根があって、銃弾を受け止める。それが普通の人間だってなら、俺とは住む世界が違う」
「じゃ、向こうからこっちへの。
施設の暴走とも考えられる。
……最悪なのは、どれだ?」
そうアリスに問われ考えるが、答えは出ず。
「こいつ、弱点は?」
「知らない」
「今、何処に居る?」
「それこそ、知る訳無い」
長い沈黙の後に再びエンジンをかけるアリス。
そして車は北へと向かう。
「本当に何も対策をしてないのか?」
「言い逃れが出来ない程の被害が出ない限り、政府は表立って動くつもりはない」
「表向きはそうかもしれないけれど、ならば裏は?」
真壁が黙って見過ごすか?
「私が動いてるだろ」
「それだけ?」
「いい身分だな。高校生。
好き勝手言いやがって」
「……」
無言で車の外へと目を向ける。
車は住宅街を走っていた。
「この辺が事件現場」
何でこんな所に来たのだろう。
「この平穏な景色が一瞬、別世界へと変わった」
談笑しながら歩く高校生達。
「私は守りたい」
車はスピードを落としながら停まる事なく住宅街を抜け、吉祥寺の駅前を通り過ぎ方向を転ずる。
車内には相変わらず知らぬ女性二人組の歌が流れる。
「手伝える事は?」
再び中央道を潜り抜けたあたりで、そうアリスに尋ねる。
「無い」
そう、短く返される。
「だったら、何でこんなもの見せたんだよ」
「藁にも縋りたい事ってあるでしょ?
取っ掛かりが欲しかったの」
「……あっそ」
「今の証言だけで御の字。
後は向こうで頑張りな」
「こっちはどうなる?」
「手立てはある」
「手立て?」
「蛇の道は蛇。
機会があったら紹介するわ。
有名人よ。きっとアンタも知ってる」
一体誰の事を言っているのか。
考えるが心当たりはない。
いや、唯一あるにはあるが……。
再び車は多摩川を越える。
アリスは誰に何をさせようとしているのか。
おそらくはぐらかされる問いの代わりに別の疑問を投げかける。
「何て曲?」
さっきから流れている、聞いたことのない歌。
だけれど、どこか聞いたことのあるような歌。
「world of despair.」
「ん?」
「絶望しか無い世界」
成る程。
絶望か。それを表すような叫びが不思議なメロディーに乗って流れる。
ふざけるなと繰り返し叫び、絶望と怒りで蹲ったまま動けないとか、そんな歌詞。
何に対する憤りだろう。
社会? 友人? それとも、もっと概念的な何か?
「誰の曲?」
「マーリ・アンド・アリス」
「へー。MaAかと思った」
「間違ってない。
MaAは元々女子二人組だったの」
「そうなんだ」
「作曲担当のマーリ。作詞はアリス。
でも、デビュー前に二人は別れた」
「どうして?」
「良くある話。アリスは自分の才能に限界を感じていたし、方向性の違いもあった。
そんな訳で、MaAとして一人音楽の世界に残ったマーリは、その後自殺した」
「……良い歌だと思う。曲も、歌詞も」
歌い手の怒りがストレートに伝わってくる。
だけれど、それが決して不快ではないのはギターと二人の声が重なる美しさ故にだろうか。
「深爪した小指の足を角にぶつけた時に書いた詞、らしいわよ」
褒めて損した気分。
だからマーリ・アンド・アリスのアリスが、ハンドルを握るアリスと同一人物なのかは尋ねない事にした。
窓の外は、絶望と関係なく流れる日常の景色。
吉祥寺の通行人の中に桜河さんがいた。
一瞬だったし、咄嗟にシートに身を沈め姿を隠したので本当に本人かはわからない。
でも、居てもおかしくないのだ。
彼女の住む、その直ぐ隣で日常が崩壊を始める。
それを止められるのは、向こうの世界の俺だけかもしれない。
七つの魔人と対峙した勇者。その生まれ変わりとして。
◆
タブレットの前で少しストレッチ。
そして大きく深呼吸。
行く。そして、すぐに帰る。大丈夫。
逃げる手段はある。
……この世界に御識札を置いたら飛渡足で飛んで来れないだろうか?
何言ってんだ? 俺は。
そんな事出来る訳ない。
その馬鹿な考えを消去し、タブレットに触れると同時にカウントダウンが始まる。




