海上の駅舎②
緑とクリームの二色に色分けされた古めかしい車両。二両編成のその電車が駅に停車する。
そして、海亀が見上げる先でドアが開く。
降りる客は無し。
と言うか、乗客すら居なそうだ。
「乗るのか?」
ゆっくりと移動を始めた海亀に語りかける。
海亀は伸ばした首を俺の方へ向け小さく頷いた、気がした。
「よっと」
その海亀の甲羅を両脇から掴み抱え上げる。
そして、電車の中へ入ると同時にドアが閉じる。
静かに動き出す電車。
抱えた海亀を床に置き、電車の先頭へ。
ドアで遮られた無人の運転席の向こうに広がる海。
真っ直ぐに伸びる線路と連なる電柱。
長椅子に腰掛け、窓の外を眺める。
何処へ向かうのだろう。
亀に連れられ竜宮城?
まさかな。
変わりばえのしない外の景色を眺める。
キラキラと波が光を反射する様を飽きる事なくずっと。
島の影ひとつ見当たらない。
だけれど、気付くと窓のすぐ下まで海面が迫っていた。
「え!?」
思わず声を上げ立ち上がると同時に、電車は完全に海の中へ。
「マジか」
まるで水族館かの様な光景。
ガラスの窓一枚隔てた先は海。
遠くに魚の群れが見えた。
その光景に、二人で行った水族館を思い出す。
ゆっくりと暗くなって行く窓の外の景色。
つまり、潜っているのだ。深く。
やがて外は完全な闇になり、窓に映るのは俺の顔。
その中の左眼の奥に揺らめいていた赤い光は無く。
…………何!?
目を閉じ、意識を自分の中へ。
……並ぶ扉の一番奥。
かつて幾重にも封が施されていた重々しい扉が開け放たれていた。
その中にあるのは虚無の空間。
何故だ?
目を開け、再び窓に映る自分と向き合う。
……力を失った。
いや、元々封ぜられ、扱えなかった力。
失ったとしても影響は無い。
だが、何故?
あの廃墟で何があった?
俺が忘れた誰かの記憶。
それと関係あるのか?
考えたところで答えは無い。
床に目を落とす。
微動だにしない海亀。
あれぐらい悠然と構えた方が良いのかもしれない。
そんな海亀と俺を乗せた電車は闇の中を走り、アナウンスも何も無く、唐突に静かに停車する。
ドアが開き、女性が一人乗り込んで来た。
椅子から腰を上げる間も無くドアが再び閉じる。
女性は、床から海亀を抱え上げ、俺の向かいに腰を下ろしその膝に亀を乗せた。
シュール。
大きなストールを巻いたOL風の眼鏡女史。
亀の甲羅を二、三度撫でてから顔を上げる。
「遅かったですね」
俺を見つめながら言う。
「はい?」
何が?
その顔に見覚えはない。
「もっと早く来る、或いは、もう来ないのかと思っていました」
「俺の事ですか?」
知らぬ女性。
嘘か、それとも……俺が忘れてしまった誰か?
「ええ。そうです。
空となった器。
御楯頼知」
名を知っている。
そして、器?
「失礼ですが、貴女は?」
「速秋津比売神」
速秋津比売神。
祓戸大神の一柱にして、海の底に座す女神。
直毘の源流。
そんな神が、俺の向かいに座っている。
俄かには信じがたい話ではあるが、本当ですかなどと問いかけるのはそれこそ失礼極まりない話。
「比売様が俺に用ですか?」
「ええ」
眼鏡を直しながら答える。
「貴方は、私の覡とならねばなりません」
「は?」
覡とは、神に仕えその身に神を降ろす者の事だが……。
「どうして、俺が?」
「長年、神と共にあったその体。
禍津日の居なくなった今、そのままにしておけば直ぐに服わぬ神に目をつけられ依り代とされるでしょう」
俺はそっと左眼に手を当てる。
開け放たれた内なる扉、その奥の虚無を思い出す。
そこを、この体を狙う神がいる……?
海亀を胸に抱き抱え、静かに立ち上がる女神。
「そうさせぬ為に、しばし私が中に入り力を分け与えましょう」
俺を見下ろしながら言って、一歩こちらに近寄る。
「しかし、何故速秋津比売様がその様な事を?」
「ここは、寒い。
冷え性が辛い」
「は?」
通路のほぼ真ん中で、しゃがみ込む女神。
「いえ、稜威乃眼を持つ我が子らを守ることも私の役割」
そう言いながら、速秋津比売は眼鏡を外し俺の顔を見上げる。
その眼に二重の虹彩。
今、冷え性とか言ったのは聞き間違いだろうか。
「もとより、拒むことなど許しませんが」
そう言って、ニヤリと笑う。
直後、右眼の奥にキンと言うアイスクリーム頭痛。
次の瞬間、速秋津比売の姿は消えていた。
電車は暗闇の中から再び明るい海へ。
そして海上へと戻る。
誰も居なくなった車内。
腰から狐白雪を抜き、その刃に自分の顔を写す。
右眼の奥が深海めいて碧く揺れる。




