KBC⑦
午後六時前に能面の様な顔で現れたアナスタシヤと共に母の運転する車でこどもの国へ。
刀の扱い方だけで無く、根本的な体の動かし方も師匠は教えてくれた。
あちらの俺が持つ記憶の中のそれを思い出しながら走る。
三周止まらずに走る事が出来たのは、多少は体力がついた証拠か。
それでもアナスタシヤからほぼ周回遅れにされたのだけれど。
その後に腕立てやら腹筋やらの筋トレがあり、日付が変わる頃に疲労した体で鬼ごっこが始まる。
闇の中へと消える二人。
俺は俺で一人木の棒を刀に見立て振り続ける。
◆
そうやって、瞬く間に二週間が過ぎた。
その間に最初のジョギングは五周に増え、夜間はアナスタシヤと交代で見張りをし睡眠を取ることを覚えた。
初めは無茶だと思っていたKBCも、ひょっとしたら終わりが来るかもしれないと、一縷の望みが見え出した。
そんな週末。
◆
「……交代デス」
「ん……」
時計を見る。
時刻は午前四時。
眠ったのは三時間足らずだが、それで十分だった。
「キョーコは?」
「森の中へ逃げ込みマシた」
そう答えた後にすぐ規則正しい小さな寝息が聞こえてくる。
さて、どうする?
ここで待つか、追いかけるか。
……いや、無理はしない。
夜明けまで待とう。
アナスタシヤから少し離れて立ち、周りを警戒する。
微かな物音を聞き漏らさない様に耳をそばだて、異変を見落とさない様に目を凝らす。
意外にも、母は正面から現れた。
まあ、負ける訳はないと高を括っているのだろう。
そして、それは正しい。
今俺に出来る事は、ここに繋ぎ止めアナスタシヤの休む為の時間を稼ぐこと。
ならば、少しでも引き剥がそうか。
肩の力を抜き、地を蹴り一気に間合いを詰める。
結局、師匠には一度も勝つ事が出来なかった。
それも当然だ。
彼我の間にあったのは一朝一夕では埋められない経験の差。
目の前の母とてそれは同じ。
その正体が何者かはわからないが、今の俺では到底敵わない相手。
だが、敵を打ち負かす事だけが目的ではない。
戦う事は、目的ではない。
戦いは、手段なのだ。
何かを成す為の。
木の枝を振り回す。
大振りに。
狙いすました攻めは小さく躱される。
ならば、不恰好でも大きく動く。
足を止めるな。
相手は、常人に非ず。
振って、躱され、それでも追いかけ振り下ろす。
相手が手にした刃の潰してあるナイフが、時折こちらの木剣を弾くが、気にせずに攻め続ける。
間合いの利はこちらにある。
二週間見続けてきた相手の動き、その先の先を読みながら体を動かして続ける。
息が切れようとも体を止めずに動く。
いつの間にか、朝日が二人を照らしていた。
そして、その時になって初めて母の顔に今まであった余裕の笑みが無い事に気付く。
……自惚れるな。
心を乱すな。
上回った訳では決してない。
次の手も考えろ。
相手を捕まえる手を。
攻めながら。
横薙ぎにした木剣。
だが、それが切るは空気のみ。
その奥に、飛び退る母。
大きく踏み込み、上段から木剣を袈裟斬りに。
それを受け止めんとする相手のナイフ。
そのナイフが、俺の木剣を受け取る、その直前にわずかにブレる。
それをさせたのは、遠距離より放たれた木ノ実。
曲がった木の枝と糸で作られた弓でアナスタシヤが放った小さな弾丸。
幾匹もの野鳥を仕留めて来た簡易な、しかし、強力な武器。
支点をずらされたナイフは振り下ろされる木剣を受け止める事が出来ず。
そのまま、相手の肩へと切っ先が食い込む。
初めてまともに当てた一撃。
直後、目の前から母の姿が消える。
顎に、下から衝撃。
視界が跳ね上がり、真っ青な空を……。
「あれ?」
空が赤い。
体を起こ……「イデェ!」
首に激痛。
起こしかけた体を再び横にする。
顎もジンジンと痛い。
「起きれマシたか」
上からアナスタシヤが俺の顔を覗き込む。
おにぎりを頬張りながら。
「俺、どうした?」
「綺麗に気絶させられてマシた」
「ああ、そう」
「本気出せば一撃デスね」
「そうか」
直前の戦いを思い出す。
今までは、その強さの果てが見えなかった。
だが、今日一撃を入れ、更に反撃を受けその力の差が少しだけ具体的に見えた気がする。
「起きて食うデス」
もう、今日の訓練は終わりの時間か?
背中を支えながら身を起こし、差し出されたおにぎりを受け取る。
「首痛ぇ」
「むしろ、首痛いだけで済んでるのが不思議デス」
「は?」
「死んだと思いマシた」
「それほど?」
受け取ったおにぎりを咀嚼しながら問い返す。
首痛え。
てか、頭も痛え。
唐揚げに手を伸ばす。
……いつの間にか、大量の弁当にも動じなくなったな。
「……よく食べマスね」
「まあ、食わんと持たないし」
「……実はそれ、アブナイ薬いっぱい入ってるデスよ?」
「え!?」
「……ウソデス」
いや、お前の嘘、信用できないんだよ。
そして、母ならやりかねない。
更には、そうでも無いとこんな非人間的な訓練続けられる筈がない。
……食べかけのおにぎりを見つめる。
しかし、真実は闇の中。
残すという選択肢が無い以上、平らげるしかない。
再び口に入れたおにぎりは心なし味が落ちた様な気がした。
◆
クビ痛ぇ。
流石に脳震盪の後は無理させられないとその日は早々に切り上げる事になった。
日付が変わる前に部屋にいるのは何日ぶりだろうか。
スマホをいじっていると、部屋の扉がノックされる。
「入るわよ」
「ああ」
母だ。
何の用だ。
普段俺がいる時は絶対に部屋に入らないのに。
「首どう?」
「痛い」
「でしょうね。
ちょっと、ベッドにうつ伏せになりなさい」
「ん? 何で?」
「そのままにしたら明日動かせなくなるわよ」
「え!?」
マジか。
言われた通りにベッドにうつ伏せに。
「枕を顔の下に置いて真っ直ぐに下向いて」
言われた通りの姿勢を取る。
マッサージか何かか?
「絶対動いちゃダメだから」
「何するの?」
「鍼」
返答と同時に後頭部を押さえつけられ身動き取れず。
「動いたら痛いからね」
「無理無理無……!」
一瞬、チクリとした首筋。
そして、違和感。
俺の……体内に……異物が挿入されている……。
「しばらくそのまま。
危ないから、寝るなよ?」
そう言い残し俺の上に跨っていた母が部屋から出て行く。
……顔を枕に押し付けたこの体勢だとスマホを操作することすら出来ぬ。
あの女、どこまで俺の楽しみを邪魔するのだ?




