KBC④
アナスタシヤから一周周回遅れになりながら三周走る。
三周目は完全に歩いていたが。
「情けない」
倒れ込む俺を見て戻ってきた母が吐き捨てるが、言い返す力なんて無かった。
昨日と同じように筋トレをこなし、地面に座り込む俺の横にアナスタシヤが立ったまま並ぶ。
それに向き合う母。
「さて、朝まで鬼ごっこだな」
そう言いながらポケットから飴を取り出す。
またか。
一つアナスタシヤの方へ放り投げ、それを受け取るアナスタシヤ。
「キョーコ・ミタテ」
アナスタシヤが右手を垂直に上げ、母の名を呼ぶ。
「何だ?」
「ヨリチカは、学校で眠ってマシた!」
「んなあ!?」
まさかのチクリ!?
「おまっ!?」
と腰を上げかけたところに激痛。
脇腹に、鞭の様な母の蹴りが食い込んだ。
一瞬、体が浮き上がりアスファルトに転がる。
「…………ッ………ァ………アァ………」
呼吸が止まった。
地面から顔を上げる事が出来ない。
「密告ご苦労。
この飴は、ナーシャにあげよう」
「スパシーバ!」
俺は飴一つの為に殺されかけてるのか。
脂汗を滲ませながらそんな事を思う。
「じゃ、また夜明けまでで」
◆
止まりかけていた呼吸が戻り、体を動かす気力が出た頃にはとっくに母の姿もアナスタシヤの姿も無かった。
改修工事の為か明かりの灯らない園内。
電気も無いのだろう。
蛇口をひねっても当然水は出ない。
当てもなく彷徨うのが馬鹿らしくなって、スワンボートの浮かぶ池の側のベンチに腰を下ろす。
ひんやりと冷たい。
そのまま横になって体を休める。
「?」
浮遊感?
「!?」
落水!?
気づくと水の中。
混乱したまま、必死に水を掻き、空気を求める。
池だ。
池の中に居る。
「…………ブハァ」
何とか顔だけ水から出して、目に入った岸までもがいて泳ぐ。
ツナギが重い。
だけれど手足を止めたら死ぬ。
必死に岸まで泳ぐ。
ようやくたどり着いた桟橋の上から俺を見下ろす人影。
「寝るな」
それだけ行って、母は再び闇の中へと消えて行った。
近くの小屋の隅でたっぷりと水を吸い込んだツナギを絞り、それでもまだびしょびしょのまま着込んで寒さに震えながら夜を明かす。
どれぐらい経ったか。
山の上から朝日が差し込む。
それを見て、涙が出た。
この状況が終わる事に。
だが、それは幻想だった。
朝日を浴びながら待てど暮らせど迎えが来ない。
昨日はどうだったかな……。たしか、アラームが……。
重い体に更に重いツナギを引きずりながらその場を離れる。
とりあえず、入り口の方へ行ってみよう。
半分倒れそうになりながら、園内を歩き、入り口へ。
その途中、開けた場所で向かい合う二人を目撃する。
母と、アナスタシヤ。
悠然と立つ母。
対して、腰を落とし警戒しながらすり足で移動するアナスタシヤ。
弾かれた様に、アナスタシヤが母めがけ飛び込んでいく。
そして、右足を振り上げ顔面に回し蹴りを。
身を反らせそれを躱す母。
しかしアナスタシヤはそのまま一回転しながら腰を落とし、足払いへと蹴りを繋げる。
それを読んでいたのかあっさりと飛んで躱す母。
そして、その膝が足払いの勢いのまま背を向けたアナスタシヤの背中に食い込む。
地面に倒れ込むがすぐさま起き上がり、母へ飛びかかるアナスタシヤ。
しかし、軽くひねられながらその体が再び宙を舞う。
投げ飛ばされながらも、身をひねり足から着地するアナスタシヤ。
そんな人間離れした戦いが目の前で繰り広げられていた。
しかし、優勢なのは母。
必死に飛び込んで来るアナスタシヤを躱し、払い、投げ飛ばす。
やがて、地面に転がったままアナスタシヤは動かなくなった。
いや、再びゆっくりと立ち上がり、母へと向かっていく。
勝てる訳、無いのに。
それでもアナスタシヤは何度も何度も母へと挑み続ける。
……そうか。鬼ごっこ。勝つ必要など無いのだ。母を捕まえれば良いのだから。
……それすら出来そうに無いけれど。
二人がかりならば。
当然、向こうは気付いているだろうが静かに息を殺し母に近付いて行く。
完全に背後へと回り、アナスタシヤに気を取られている隙に一気に走って距離を詰める。
が、あっさりと躱され足払いを食らいそのままアナスタシヤを巻き込みながら転倒。
「少しは考えろ」
呆れたような母の口ぶり。
振り返った時には、既にそこに姿は無く。
「……」
アナスタシヤがただただ無言で俺を睨みつける。
◆
芝生の上に寝転び、でも、寝たら池に落とされるという恐怖。
それ以前に、喉がカラカラでしんどい。
どの蛇口を捻っても水なんか出ない。
あるのは濁った池の水。
最悪、あれ飲むか。
死ぬな。
しかし、それでも良いかと思えるほど思考が混濁している。
……居た。母親だ。
悠々と歩いている。
多分、俺に気づいていない。
……捕まえよう。
静かに立ち上がり、極力物陰に身を隠しながら近寄っていく。
追いかけ……忽然とその姿が消えた。
何処へ?
辺りを見回す。
全く別の方向に母の姿を見つける。
少し近づいては見失い、また見つけ近づいては見失い。
延々とそんな事を繰り返し、日がくれかけた頃、俺は動けなくなった。
草の上に大の字に倒れ込み、そのまま指一本動かすことが出来ず。
……喉が、乾いた……。
水が飲みたい。
いつの間にか、空が暗くなっていた。
もう、夜か。
──ダイジョウブ?
そう問われ、そんな訳無いだろうと答えるが、乾ききった喉からは掠れた呻き声しか出てこない。
急に、口に何かを押し込まれた。
濡れた、小さな塊。
そこから、口いっぱいに甘味が広がり、乾ききっていた口内が唾液で潤っていく。
「ゆっくり、舐める。噛んだら、ダメデス」
アナスタシヤ……。
この子が、飴を?
「水、飲めマスか?」
「……あ、ああ」
彼女が差し出した小さなコップ。
その中の僅かな水を一気に飲み干す。
死ぬほど、美味かった。
「……ありがとう。……これ、どうしたの?」
「池の水デス」
「え!?」
「キレイにしました。
ペットボトル、石、砂、炭、布。
簡単デス」
「すごい」
そんな知識があるのか。
「訓練、受けました」
「え?」
「サバイバルと、人殺しの」
「え!?」
「スパイ、デスから」
そうか。
ロシア製ボンドガールなのか?
「デモ、キョーコ、誰よりも怖いデス!」
そう言ってアナスタシヤが笑う。
「飴、ありがとう」
「元はヨリチカの分デスよ」
「まさか、こうなることを見越して?」
「ソレは違います。
本当の事を言っただけデス」
そっすか。
「……学校、楽しいデス。
でも、授業難しい。
ちゃんと起きてないとダメデス」
「……学校、楽しい?」
「楽しいデス。
私、学校初めてデス!」
そうなのか……。
俺と同い年の、違う国の女の子。
全く違う人生を歩んできた二人が、今、なぜか御楯響子という化物にボコボコにされている。
「だから、もう逃げないデス」
「そっか」
アナスタシヤの笑顔に、少し疲れが癒えた。
いや、水と飴のおかげかな。
しかし、この状況から脱するには母を捕まえるしか無く、それが為せるとは到底思えないのであるが。




